正月あけて今日は久しぶりに妹にも会った話

 新年あけましておめでとうございます。
 ところで、今年は誰にも新年の挨拶を発信しなかったら、一人からしか受信しなくて、今更送るくらいなら元旦にでも送っておけよなあ、わたし、と思って、送るに送れず、
 マドマドするのである。

 まあこれもそれも、そういう時期なのかもしれないですね。

 礼儀とか礼節とか挨拶とかなんか、そういうのに後ろ髪をひかれなくもないが、
 そういえばもともと、そこに引っかかったんだよなあ。
 
 わたしは中学生の頃に、部活の先輩から挨拶することを促されて、まったく抵抗しかなかったが(そんなに挨拶したいんなら自分からしてこいよ、返事を惜しむ気はないぜという、まあ「不遜」な感じではあった。いやそこまで開き直る前にはずいぶん葛藤したが)、そこで得た「答え」とは、
 誰かにとっての「正解」とはわたしにとっての「不正解」だってことだ。
 逆もある。
 わたしにとっての「正解」は、誰かにとっての「正解」ではない

 

 いったいわたしがなぜ生まれてきたのか、生まれてこようと思ったのか、それはわからない。
 仮に、遊びに来たんだって繰り返しているけど、それはそれでわたしの思いつくかぎり一番マシな答えには思えるけど、ただそれだけのことだ。
 皆が皆、遊びに来たんだとは、思っていないつもり。
 でもなぜ肉体ある生を選んだのか、ということは、
 あるいは「エゴ・フレーム」が備わっているのか、「わたし」という意識があるのか、ということは、
 最大限その恩寵に預かる/受け取ることが、わたしは「正解」だと思っている。

 たとえ、心を無視して身体を酷使して、癌で死のうがね。
 いや、「わたし」は、癌で死ぬ気はないけどね。  

 わたしは自分のカルマが何だったのか、よくわかっていないのだが、
 カルマ、つまり「遣り残した思い」というほどの意味で使っていますよ、
 そういうものがあるとして。
 もしかしたら、ないんじゃないか、という気もしているけど、
 だって何ぁんにも思いつかないんだもの、
 でも、
 執着がないよなあ、いやむしろ執着を嫌ってさえいるかも、ということを折にふれ思うにつけ、
 どこか後ろめたい感じを払拭できずにいる。

 たとえば、最近友だちにいわれたのが、
 あなたは実にあっさりとモノを捨てるよね、と。
 それを羨ましく思う気持ちはあるといわれても、なんだか、座り心地が悪い。
 その友だちは、服だけは捨てられないといっていて、
 いや服だけだろうか、あなた、はたして、とよぎるけどそれはともかく、
 でもその捨てられない服を実に大切に扱ってはいるんだよね。
 手入れに怠りないし、
 靴下なんかでも一月前のも三年前のも、買ってまもないのかと区別がつかないほどだ。
 わたしは何だったら一日履いただけでも、一回洗濯しただけでも、くたびれさせてしまう。
 モノを大切にする気持ちがないんじゃないかなあ、という気がする。
 
 今日、正月なので久しぶりに九つ歳の離れた妹とも会ったら、
 きれいに畳む(包む)ね、という話から、発端は食べ物ですが、北京ダック的なもの、
 洗濯物なんかもきれいに畳むの、と聞くと、
 お母さんが畳んだものを(気に入らずに)畳み直すから嫌がられている、という(妹は実家住まいです)。
 へーえ、じゃ靴下はどうやって畳むの、と聞くと、
 踵で重ねて一度か二度折り。
 足首のゴムで折り返したりしないの、と聞くと、
 ゴムが伸びるやん、と嫌がる。
 ふぅうん、やるなあ、と返した。
 ちなみにわたしは、ゴムで折り返して無雑作にひきだしに放り込む程度。
 とはいえ、それまでにゴムが伸びる!という話をきいて納得していたのもあり、今日バーゲンで買ってきた新しい靴下をしまう際、すでに持っている全部の靴下を踵で二三度折りにして、しまいましたが、あれは、なんだろう、一個一個仕切りいるよね。
 下着も買ってきて、全部一応畳んでみたのだが、仕切りがなきゃ立たないじゃん。
 立たなきゃくにゃくにゃと倒れて右も左も一緒くたになっちゃうじゃん。
 わたしには立てられません。
 そうそう、それでちょうどゴミの日だし、新しいのを買ってきたし、古いのを捨てようと思ったら、ない。
 トレフルの下着、いや、新しいのを買ったら捨てようとは思っていたけどさあ。
 ええっと自分を疑う。
 まさか買う前に捨てていたとは。
 いつのまに捨てたのかまったく覚えがない。
 先週は確かにあったと思うのだが。
 
 いつかの夏に、今着ないものは全部いらないやと思って捨てたら、冬になって夏服しかないことに気づいて愕然としたこともある。
 ダウン持っていたはずなのになあ、決して安物じゃなかったのに、でもそういえば確かに捨てた、捨てたわ、だって小っちゃい穴が空いてたんだもん、と思い出すんだけど、
 それにしても、なんという先行きの不安のなさ、計画性のなさ、と思って自分でもあきれた。
 というか、当初あれっそうか、と思ったときには笑ってしまったけどね。

 その、笑っているのを笑っている場合じゃないぜ、という感じもまあ、なんだろうなあ、
 わからないわけじゃないはずなんだけどなあ。

「22を超えてゆけ」が実に本当におもしろかった。いつか感想とか書きたい。
 ついで、堀江貴文の、「人生カネじゃない」かな、これは読み終えていないが、
(新しい環境に踏み出すことが)怖いって感覚はわからないけど、といっていて、
 怖いってわからない?
 まじ?
 いや、わたしも、
 グリム童話にある「怖いものを知るために」ナントカカントカって話とか、日本昔話の「まんじゅう怖い」とかに、
 共感する方ではあったけれども。

 この世にある怖いものを知りに来た、という気はしている。
 わたしはたしかにちょっとズレているけど、怖いものがないわけじゃない。
 
 そう、「22を超えてゆけ」にあった、両サイドにある狛犬に、「汝自分自身を知れ」「汝自分自身で在れ」と刻まれていた言葉は、
 そのとおりだなと思った。
 自分自身を知ることは静かにもできる。
 学校なり会社なりへ行って帰ってきて眠りにつく前とかに知ることができる。思い出せるんだよ。
 ところが、自分自身であること、というのは、未来形なんだな。
 絶えず脅かされているものであると思う。
 脅かされているが大袈裟ならば、なんだろう、絶えず葛藤にさらされている、というかね。
 
 まあ人によってはその比重は異なるかもしれない。
 
 わたしは、「自分自身を知る」のは、一人静かになれば何とかなると思えることだった。
 自分一人でいるときに嘘はつけない。
 嘘をつく必要はない。
 ところが、どうしたことだろう、「自分自身で在れ」という言葉からは、
 他者の介在、思惑を抜きさるのは、なぜだか困難を伴う。
 意外と鈍感じゃないんだよ、他人が何を求めているのかってことはわかるの、
 こう答えれば相手は束の間の安心を得るのであろうということはわかる。
 
 わたしは自分が何のために生まれてきたのかは知らないが、「汝自分自身で在れ」ということを、
 言葉によらず体現しにきたのではないかなあ、という気はしている。
 
 ホリエモン読み終えて思うに、わたしにとって怖いこと、それは「自分自身で在」らず、という状態になること。
 あとなんだ、印象的だったのは、「リスク」だ。
 リスクって面白いよなあ。
 わたしは普段リスクなんて見るなと言ってきたけど、それはリスクを理由に、嫌だけどここにとどまるという選択をするひとが多いからだ。
 リスクを恐れて新しい一歩を踏み出せないのなら、重箱の隅をつつくようにリスクを探す必要はない。
「やらない」理由探しのためにリスクを挙げるのは、小賢しいだけにタチの悪い××みたいな感じがする。
 しかし踏み出すならばリスクを見よ、だね。
 
 踏み出さなきゃなんでもない。
 リスクリスクってこの世の終わりみたいに言ってるのは踏み出さない人たちだ。
 いざ踏み出そうと決意したら、もはやリスクとは「踏み出さないための理由」なんてしょうもないポジションにとどまっていない。
 
 リスクを引き受けるには覚悟がいる。
 そしてたしかにリスクがあるから、おもしろい。
 そのリスク回避をどのようにアプローチするか、というのは人によって違うのであろう、覚悟だって人によって違う。
 リスクの先に何を求めているのかは、人によって違うものだ。

 素人が目先の儲け話に目が眩んで投資した以上の損害を出して、という話は自分の身近にもあった。
 損害を出したあげく、お金を貸してほしいと言われた。
 わたしは長らく貯金に興味が持てなかったので、ずっとしていなかったのだが、「お金の真理」を読んでなるほどと思い、貯金をはじめてみたら、貯まった額をほぼまるごとですよ、貸してほしいという。
 ちょっと悩んで、貸すか貸さないかというより、自分が招くものについて実に不思議だと思えて、友人に相談してみたりしたけど、なんかあれだな、彼女50万借りたいって言ってるよと喧伝しているだけのように思えてきて、やめた。
 そして貸した。
 この顛末にはずいぶん、貸しちゃだめですよという反応を得たりもしたが、
 それにわたし自身、過去に、親に百万円貸してほしいっていわれているという別の友人にむかって、貸すのはいいけど返済計画をちゃんと提示してもらいなよ、相手の収入や支出にまで目配りをして面倒看る気じゃないとだめよと、とくとくと念を押した経験があるだけに、
 自分自身のときには、わりとあっさりと貸してしまうのだなあと、なんだか気まずいような思いもした。
 
 お金を貸すっていうのは、ある意味投資するってことだ、
 投資するっていうのは、どぶに金を投げ捨てるようであってはならない。
 手っ取り早くあらかじめ利息を要求しろって話でもない。
 自分自身を大切にして実りあるものにしようというとき、自分が稼いだお金を、粗末に扱ってはならないよってこと。
 
 しかしお金を貸してくださいと言われた時点でわたしは負けを認めたようなものだ。
 貸す、貸さないでいうと、貸さない方が億劫だった。その億劫さに負けた。
 最初に隙を作ったのは自分のほうだと思ったのだ。
 よっしゃわかった貸すよ、そのかわり約束して、あなた自身の価値を自分の手で貶めないでと。
 というのはわたしのことが羨ましくてと泣かれたのだ、わたしのことが羨ましいのと金を借りるのと何の関係があるとびっくりしたが、まあそういうこともあるのかもしれない、知らんけど。
 そういえば過去に違うひとにも同じようなことがあった。
 いいなあ、恵まれていてとため息をつかれたあげく、ありあまるところから持っていこうというかのように、まあ色々と。
 わたしは自分が傲っているつもりはないが、萎縮しているつもりもない。
 あのな、そうじゃないよ、恵まれているかいないかなんて、自分で決めるだけのことだとか何とか、口にしかけて自分でもまとまりないのがわかって、ずっと口を閉ざしてきた。
  
 よく付き合う友達を選べとか、異性を選べとか、いうけどわたしはあれにはまったく同意できない。
 目の前の花や実を選り好みして何になる。
 自分が気づかない間に蒔いた種が、育って花や実になったとたん目についただけのことだ。
 
 こんな花は醜いとか、こんな実は役に立たないなんてケチをつけて、蒔いたのは自分じゃないような体裁を整えてもしようがない。
 受け取りな。
 ともかく受け取って、眺めて、やっぱりいらねえやと家に帰ってゴミ箱に捨てようが供養しようが、それは自由だ。
 こんなのいらないよ、と他の人もいる前で声をあげるのは、みっともないぜ。
 だってそれはあなたがいつかどこかの時点でオーダーしたものなんだから。
 まったく身に覚えがなくても、可能ならば、迷える余裕があるなら、受け取ることだ。
 
 われわれには選ぶ権利がないといっているんじゃないよ。
 蒔く種を選ぶ権利はもちろんある。

 むしろ、選ぶ権利しかない。

 選べない選べないなんて言っているひとがいるけど、それだって選んでいますからね。

 自分が選べないというのは幻想にすぎない。

 

 

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