言葉は、いまという永遠にささげられ続ける供物だ。

「豊かさ」について、バシャールは「やりたいときに、やりたいことができること」

 厳密には、「する必要があることを、する必要ときにやれる能力」と定義している。
 わたしは、「ガラクタ捨てれば自分が見える」の中にでてくる、「ある日家に帰ったらステレオが(盗まれていて)なかった。そうしたら「ありがとう神様」と感謝する」というエピソードが好きだ。
 これは宇宙(神様)(ひいては自分自身)に対する絶大な信頼を物語っている。

 あなたは、あなたさえその気になれば、そのとき必要なものを必要なだけ受け取ることができる。
 
「あなたを傷つけられる者などいない、あなた自身のほかには」という言葉も好きだ。
 エレノア・ルーズベルトの言葉として知ったが、あっこれは本当だと嬉しくなった。
 どんなことが起きたとしても、わたしたちは心の奥底で同意している。
 この際心というのは、マインドのことではなく。
 むしろ魂というほどの奥深いところ、感知しえぬところで。
 感知しえないものが現実と呼べるかというと、まあ呼べないので、そこのところが「問題」だけど、ともかく、
 あなた自身が同意していないことは、人生に起こりえないのだと思って自分自身を点検してみよう。
 
 人生の苦悩とは、自分が創りあげた幻想の中にだけある。
 そして、人生の喜びもまた、自分が創りあげた幻想の中にだけある。
 
 記憶っていうのがおもしろいね。
 あなたは昨日はすがすがしく晴れていたのに今日は曇りだと、ちょっとだけ残念な気持ちになる。
 昨日の天気を記憶しているから、今日の天気についてあれこれ不満を抱くことができる。
 もし、いついかなるときにも今日の記憶しかなければ、晴れだろうが曇りだろうが雨だろうが、それ以外の天気と比較してみることはかなわない。
 今日はよく晴れているな、と感じること、気づくことさえできない。
 記憶は、昨日と今日、瞬間Aと瞬間Bをつなぐ(ただし、任意で)。
 
 のび太の仮想実験で、「もしどこでもドアがあれば」というのがある。
 開けたドアをくぐった瞬間、のび太は細胞レベルまで分解されてなくなり、向こう側へ出るときにまた一から再生されるのだ。
 このことを「妄想」たくましくして、ドアの中に閉じ込められ消されるのび太Aと、向こう側で再生されたのびたBに分けて描いたマンガがある。
 それでもあなたは「どこでもドア」を使いますか?というもの。

 これはまったくよくできている。
 われわれの根源的な「恐怖」をよく表している。
 つまり、のび太Aとのび太Bを「分断」すること。
 
 わたしたちは何だって分割し、区別する。
 わたしとあなた。
 日本人と外国人。
 わたし、と猫。
 女と男。
 親と子。
 のび太Aとのび太B。
 自己さえ引き裂かれるということ。
 そしてたしかにこれ以上の恐怖はない。

 フランス語でいうパピヨンは蝶でもあり蛾でもありそこの区別はない。
 ブラザーは男兄弟のことで兄とか弟とかいう区別はない。
 中学英語で習ったときにまったくヘンな気がしませんでしたか?
 不便じゃないのか?と思わなかっただろうか。
 
 言葉は概念だ。
 ソレに該当する言葉がないということは、そこを区別しよう、違いを見出そうという概念がそもそもない。
 どこでもドアがあればいいのに、とその便利さだけに注目するとき、わたしには、わたしAとわたしBなどという区別はない。
 
 世界はパラレルワールドだというとき、
 あの誘いを受けたか断ったか、とか、
 普段は意識しないような、白い靴を履いて出たか、黒い靴を履いて出たかで、世界は変わってしまうのか、
 あるいは、
 6時03分に起きたか、6時05分に起きたかということでさえ、その後の世界を変えてしまうのだ、と「想像」すると、まったく、
 おちおち寝たり起きたりもできないという気がしてしまいかねない。
 
 ドアに手をかけたのび太Aは、どこでもドアをくぐることなく、ドアの挟間で焼き殺されてしまう。
 そこに注目したとき、そこでののび太の絶望と後悔に寄り添ったとき、たしかに恐ろしくてとてもドアをくぐる気になれない。
 そして、そういうことって、現実にもよくあることですね。
 想像することによってわたしたちは未来への一歩を変えてしまう。
 物事にはすべて両面があり、
 何が良くて何が悪いのかということを考え出せば、どっちだってあると思えて、そんなもの、良いか悪いかはなんの決め手にもならないということに気づかざるを得ない。
 わたしたちは、わたしたちの選択が、自分自身のありかたを決めるとわかったとき、恐ろしくなってしまうということを体験する。
 しかしまた、自分の選択次第で変わることがあるのだと思うとき、恐ろしさよりも希望を見ることだってできる。
 そこに限りない自由を見ることもできる。
 
 自由を愛するひとばかりではないということですよ、というエイブラハムの言葉は、わたしにとって強烈な体験だった。
 そうなのか。
 そうか。
 なるほど、
 そうだったのか。

 それはどこかで自分をより解放する魔法の言葉でもあった。
 わたしは自由であることは誰にとっても無上の喜びであると信じてやまなかったのだ。
 基本的に空が青くて、山が緑であるのは疑うべくもなかったのだ。
 空が鉛色、山がショッキングピンクに見えているひと、いやむしろそうした色を見出そうとしているひとがいる、などということは想像だにしなかった。(喩えですよ)

 誰だって自由を求めているはずだと思い込んでいるから、
 不自由をかこっているひとを見ると、そんな必要ないでしょうなどと、いてもたってもいられない気持ちで声をかけたくなったりしていたのだ。
 自由の定義。
 それは、豊かさの定義にもつながる。
 自分の蒔いた種は自分が刈り取る、という自覚、または覚悟をもつこと。
 
 しかし本当は、誰だって自足している。
 誰それは自分のしでかしたことの責任を取ろうとしない、なんて実に表層的な判断にすぎない。
 自分の蒔いた種を刈り取らぬひとはいない。
 そういう意味で、宇宙とは完璧だ。
 だが最近思うに、宇宙人でさえ、そのことを完全に信じ切れていない人は、いるのかもしれない。 
 

 自分の身に起きたことは完璧なタイミングで起きている。

 そして人生において、宇宙において、取り返しのつかないことはない。

 あせらないこと。

 あせりは貧しさの最たるもの。

 もちろんわれわれには貧しさを選ぶ自由さえある。

 それは自由なのであって必然ではない、逃れられぬ運命などではない。

 貧しさという冒険に乗り込むときには、悲壮な顔などせず、笑いながら突入せよ。

 それがバランスだ。

 

 現状に満足することって向上心を失うことじゃないですか?などと言われるね、

 まったく違うね。

 あなたは自分が呼吸できることにはたして感謝したことがあるだろうか。

 自分の足で歩けることには?

 むしろ、歩くの億劫がって電車やタクシーを使うのではないか。

 自分の鼻で匂いをかぎ分けることに関しては?

 むしろ、臭いドブの匂いに悪態をついたことはないか。

 

 現状に満足することは向上心を失うことじゃないですか?などというひとは、

 現状に誠心誠意、身に余る光栄のように感謝したことのないひとだ。

 いつだって豊かさや満足とは、いまここにあるもの、いまここにしかないもの。

 あなたがいまこの瞬間なにかしら不足を覚え、不安に脅かされ、物足りなさを感じているのなら、あなたは貧しいのだ。

 向上心を失うだなんて明後日の心配なんてするな。