小町おもしろすぎる、なんとかして。

 いやもう、小町おもしろいわー、とだけ。
 その恒例の出来事が起こるたびに「わたしはあの日に連れ戻される」とか、
 文才あるなあと感心しきりだ。
 その相談者は、夫の奨学金返済について、夫の親がまったく、なんというか、嫁への気遣いがない(ていうか、親として「スジを外した行い」をした、という自認がない)ってことにものすごくモヤモヤしていたわけなのだが、ここは価値観ですね、
 説明させてください。という喩えがわかりにくいと不評だったらしく途中で切り上げていたが、
 その喩え(車を二人で購入したときに、みたいな)もわたし的にはすごくおもしろかった。

 というのは常々、あっちのスーパーでは青ねぎがいくら、こっちのスーパーではいくら、差額はいくら、という、
 その何円か何十円かの「浮いた」(あるいは損失した)お金ってどこへいくんだろう?
 と、すごい不思議な気がしていた。
 これはその額が少ないから、というわけじゃない。
 お金ってすごい抽象的だなと思うの。
 
 というか損とか得とかって、本当に考え方次第だなと思う。
 人生万事塞翁が馬。
 青ねぎで浮かせた何円、つい急いでいたので乗ってしまったタクシーが千円(なにがどうあっても無駄にタクシーに乗るようなことはしません、とかあるだろうが、それはまたともかく別の機会で)、
 タクシー一回の乗車でいったい何十回青ねぎで節約しなきゃならないんだ!!と思えるとおもしろい。
 それは具体的な「一円」にとらわれているからだよね。
 このアルミで出来た一円はどうしたって一円っていうこの客観的な数字。
 (もちろんここに何かしらの付加価値があればそれは百万円したって不思議じゃないね。マイケル・ジャクソンのサインがあるとか、マイケル・ジャクソンが呑み込んで尻から出した一円だとか。うん、ごめん冗談)

 あとなんか。
 娘の孫との関係について、親が口を出す。
 保育園で児(孫)のティッシュカバーがなくなったことを園に相談しよう思うと娘がいう。
 それについて、
「そんな小さなことで一々、園に負担させるものじゃないよ」的なことを親が諭すと、
 娘がふいに決然と、
「おかあさんはいつもそうだった。わたしが陥った状況に困っていても悲しんでいても、相手にするな、としか言わなかった。わたしは自分の娘に自分が味わったような絶望は味わわせたくないの」というの。
 おかあさんはひどくショックを味わってしまう。
 娘には、しょうもない他人に振り回されず確固たる自分を確立してほしかっただけ。
 なのに、そんなふうに受け取られていたなんて。
 まさか今になって、自分が責められるなんて。
 わたし、間違っていたのでしょうか。

 わたしはなんだかすごい、これは、考えさせられましたね。
  
 というのは、
 まあ、なんだろうなあ。
 家庭を一歩出た、ひととひととの関係っていうのは、親子的ではない。
 わたしはあんたのママ(パパ)じゃないのよ、とかある。
 翻るに親子的であるとはどういうことか。
 相手の心情に寄り添うことってたとえ親子であっても本当に難しいし、だからって、その難しさを投げ出すのでは、成長がないという気がする。
   
 正しいことを決めるのは容易ではない。
 というか、正しいことなんて、逼迫した一対一の関係性においては、むしろ不要だ。
 よく小町でも、じゃああなたはここでAは正しいと言われたらそれに従うんですか、間違っているといわれたらそれに従うんですかと。
 それで思い出すに、うちのオトンがよく言っていたのは、誰か(オカン、だった気がする)が言っていたからそうする?じゃ、誰か(オカン)が死ねっていえば死ぬんかい、という冗談口だった。
 いやこれは真理ですが、
 真理が常に誰をも納得させるわけではない。
 わたしは納得したが、わたしが納得したことをもって、じゃああんた、そのひとが死ねっていえば死ぬの、なんて言ったからって相手が納得するとは限らない。
 極端な話はするなと思われておしまい、でもありうる。
 全然親身になってくれないなあ、と失望される可能性はおおいにありうる。

 要するに、自分が納得した話をもって、相手を説得できると思うのは間違いだということ。
 それって結局自分が納得した話、自分のストーリーを一方的に語っているのにすぎないんだね。

 なんていうか、たとえ、世界中の誰もが自分の話に同意してくれたとしても、目の前の一人が納得してくれないのなら、自分の力は及ばなかったと認めるのが相手に対する誠心誠意なのかな、と思う。
 それは誰をも自分に従わせるとかそういうことじゃなくて。
 相手の力にはなれなかったということ。
 
 ていうか、要するに、
 相手の身になる。
 どれだけ自分を捨てられるか。
 これに尽きる。

 自分って捨てても捨てても、捨てるというとなんだけど、削いでも削いでも、というか、
 なくならない。
 そこを惜しむのは、違うね。

 惜しむのは違う、自分がなくなると恐怖するのも違う。
 なくならないから。

 

   *

 

 

 言葉はどこまでも横滑りする、なんとかして。
 
 結局、インフルエンザだから経済的にしんどい、とかどうとか、そんなことは、聞いて、わたしにとってはなんでもないというとき、
 わたしは力を得る。
 あ、そんなことは何でもないと他人の経験を通じて客観的に強くなれる。
 でも、ああ、それはたいへんな苦境だったねと、相手に寄り添うときおそらく。
 わたしは一段すすむ。

 まったく不思議なことだが、ほんとうだ。

 自分に対する厳しさが、相手に対する厳しさを育ててしまう。

 前だけ見ていても壁にぶつかることはある。
 自分の未来だけを見ていてもどうにも進めないことがある。
 自分だけが「良く」なってもある意味それはまったく無力なのだと気づく。

 ところで、昨日十日えびすへ行った職場の友人と、話していて思ったのだけど、
 彼女は、かつて新入りの同僚から「プラス」だと言われていた。
 その新入りさんは、まだ若く、未経験で結局仕事を辞めてしまったのだが、幽霊が見えるひとだった。
 それで、幽霊に対していかに処するか、という話からか、なんだったか、
「プラス」のひとには幽霊は近づけないと言っていて、
 いやいや「プラス」ってどういうこと?と興味深く問うと、
 わたしはどちらでもあるんだって。
 幽霊の見える彼女自身はどちらでもあるというより、マイナスなんだって。
 わたしはそのプラスらしき友人に、あなた「プラス」らしいよということだけ本人に伝えていて、プラスってどういうこと、と再三聞かれて昨日ふと思ったのは、
 
 なんだろうな、「罪悪感」のなさかな、ということだ。

 なんていうか、どんどん横滑りしてしまうのだが、筒井康隆の「七瀬ふたたび」という小説で、
 エスパーである七瀬が、連れの女性と一緒にいるといいと助言されてそうしていたら、連れの女性が七瀬の代わりに**されてしまうという顛末をむかえる。
 その**される女性の精神は常に躁状態であり、のべつまくなし、あらゆるパワフルな想念が脈絡なしに、あるいは彼女なりに脈絡があって同居しているのだが、所詮他人が理解できるものではない、という感じ。
 
 わたしはなんとなくその、彼女が「プラス」だと聞かされてつらつら思うに、どことなく、その小説に出てくる女性みたいだなと、
 連想してみたりしていた。
 わたしが七瀬だというわけじゃないが。
 
 罪悪感がない。

 ということは、実際たいへんなプラスなんだ。