続・小町おもしろい、あるいは、
小町がおもしろいついでに、
今日も小町ざんまい、「ベラスケス」の本はそっちのけで期限が切れていたので返して、あらたに「ロートレック」と「ウォーホル」(いずれも「TASCHEN刊」)を借りたがまた小町。
「義母が家にきました」だったかな、夫の母親と同居する話で、
このトピックをたてたひとは実に冷静で、どことなく自分に似ているという親近感をもつ。
彼女の課題って何なんだろうな、と思う。
わたしは、自分の課題とは「ひとは一人では生きられない」ということかな、と思うんだ。
わたしは子供がいないどころか、結婚もしていないので「義母」とやらが家に転がり込む、失礼招き入れる、来て頂く、という状況はまずありえないのだけど、
「誰か(ストレンジャー)」の存在が日常に入り込んできたことによる異物感、苦痛、ストレス、それまでの平穏が乱される、
という、状況認識とまで抽象化すると、まあ、想像できなくもない。
わたしが彼女に親近感をもつのは、彼女が、自分はひとりでも生きられるようにする、ということに実に固執するというか、
そこを極めたいというか、
「他人に負担をかけたくない」というか、
そういう気持ちってたしかに、わからなくはないと思うから。
そして、この義母が、「妻として、母として、祖母として」常に誰かをサポートしサポートされる存在として、「自分」「一人」という立場を経験せずして生きていた、ということが「合わない」もっと言えば「嫌悪」を感ずる、という気持ち、まあわかります。
なんでこんなものがやってくるんだ?!という感覚って、なんかわかります。
今日、そういえばすっかり忘れていたけど、以前ちょっと親しくした男の、店舗に必要な備品のリースの名義人、保証人になっていた、代金立替会社から期日過ぎています、お金振り込んでくださいっていう通知を受け取って、
いやいやもうこれまたか、
とうんざり且つひやひやするのと似ています。
わたしは自分が借金はしないって思っている。
家のローンなんて組みたくない。家を買うなら一括で買いたい。そこではじめて、ローンの方がお金が浮きますよとかいう話に一応は耳を傾けてもいい、が、
架空の金を借りてまで家を購入するなら、現金払いの借家に住んでいたい。
ともかく借金はめんどくさいからいやなんだぜ、と思っている。
ところがそのかわりに、自分としては直接借りないかわりに、借金の肩代わりを最悪の場合しますよという立場に身を置くことには軽はずみに、あるいは、拒絶しかねることとして、同意したりしている。
全部要するにマッチポンプなんだよと思うわけ。
自分じゃない、自分じゃないと言いながら、そうした立場や意思を取り繕いながらも、
それが「必要」なことだったら、めぐりめぐって自分のところへ必ず還ってくる。
「いやな予感ほど的中する」みたいなもの。
「いや」なことは「必要」なこと。
自分が肩代わりしているような体裁だが、実は他人に肩代わりさせているようなもの。
そのツケは必ず自分に還ってきます。
このやけに「返信」が丁寧かつ、冷静というか親身というか謙虚、いや謙虚とは思わないが、
ここへちょっと参加したいような気もしつつ、しないのだが、
この小町の、相談者と自分は類似している、という気持ちに気づいたのは確か。
そこで唐突のようだが、「引き寄せの法則」についてちょっと自分なりの理解を示してみたい。
わたしはこれを、まあ時系列は忘れたけど、「エイブラハム」によってはじめて思い出した、というか印象づけられた。
それで、友人の一人に、引き寄せるんだよってな話をしているときに、
ああ、引き寄せね、あればいいよね、というレスポンスをもらって、
いやいやいや、違うよ。
あればいいね、じゃない。
それはすでにある。これまでもあったし、たったいまもある。
アラジンの魔法のランプの精、の子孫だったらいいのになあ、とかじゃない。
あなたは、わたしもだが、いまこのときも着々と「引き寄せの法則」によって現実を構築している。
引き返せない。
わたしは、人生において「取り返しのつかないことはない」というのが信条だ。
嘆いたり絶望したり落ち込んだりしているひとにはきっと伝えたいと思う。
また、自分がそうした状況に陥っても思い出したいと切実に意思していることだ。
引き返せない。というのは、
過去には戻れないということだ。
そして、今から先は決まってはいない、ということ。
引き返せない、というとまるで未来まで決まったことのように思う、あえて言うが「怠惰」なひとがいる。
ものすごく「陳腐」なことを言っているんだよ、
「そんなの聞いたことあるよ」ってことをわたしは言っている。
「取り返しがつかない」は、「過去には戻れない」ってこととイコールじゃない。
取り返しがつく、とは、過去に戻れる、とまんまイコールじゃない。
ちがうよって。
過去に戻ってすべてをやり直す必要はない。
そんな必要があると思うのは、おそらくあなた自身の他をおいていない。
あなたの身に起きたどんなことであれ、あなたの財産である。
それは誰に奪われる心配もない。
「経験」という個人的なものは決して奪われることがない。
お金ならば、評判ならば、奪われることはあるだろう。
「処女」を奪われるなんてこともあるかもしれないですね。
考え方しだいによってはね。
奪われた(あるいは与えた)、と認識することは自由だから。
つまり「経験」を奪われないのと同様、与えることもまた不可能だ。
わたしたちに可能なのは「力になりたい」と願うことまたは「力になりたくない」と拒むこと、そこまでだ。
それ以上はできないことになっている。
わたしたちは思いのほか、思っているよりずっと、「抽象的」な思考のもとに生きている。
ふと思い出した、今朝出勤したら、時間交代する同僚から、
「パラレルワールドで自分が地点Aから地点Bへと移動したとき、地点Aには自分が存在しているんですか、存在していないんですか」と(もっとなげー質問だったが端折ると。)聞かれて、
「してるよ」とだけ答えた。
もっとよく聞いてもよかったが問答を引き伸ばしても同じだろう。
「自分」は「どこ」に「存在」しているか、
という「自分」をどこまで狭めるかによるだろうね、と思ったけどそうすると話が長くなる。
わたしの答えが、わたしの答えだ。
誰に証明する必要もない。必然もない。
いつだって取り返しはきく。
いつだってそれは保証されないものでありうる。
あなたが誰の力にもなりたくない、と願おうと(そんなことは不可能なのだが!)。
引き寄せね。
引き寄せとは要するに、コーヒーのみたいな、はいコーヒ-(ポンと宙から出現する)、みたいなものじゃなくてさ、いやそうでもいいんだけどさ、
あるいは、百億円ほしい、はい百億円、とかじゃなくてさ。もちろんそうでもいいんだけど。
これは間違いなく受け売りだが、「感情が作用点」ってのは本当だと感ずる。
作用点、なんだっけな。ほかに力点、とかあったね。なんか中学校の理科で習いましたね。
忘れた。
ようするに重力に関係する何かなのさ。
なんていうか、
なんて嬉しいんだろう、なんて喜ばしいんだろう、なんて世界って素晴らしいんだろう、と感激して瞬間浮き立つような気持ちっていうのはまちがいなく、世界にとって有益だ。
あなたはその瞬間意図せずとも抱えきれないほどの喜びが、内から外へと溢れ出ている。
だが、その次の瞬間、待てよ、でもこれって、と思考をめぐらせると、また違うものを世界に付け加えることになる。
他人の不安を解消してあげたいと思うのは罪ではない。
でも厳格なようだが、そこにあなた自身の不安をも解消したいという気持ちがあるのであれば、それは不純じみてくる。
あなたの不安をあなた自身によって解消することが不純だってことじゃない。
あなたの不安を他人に託すことが不純なの。
あなたは自分自身を力づけたいのにそうは出来ずに他人に対してそれを行って、代償行為とする、ってことが、不純なの。
他人を力づけることが不純なのじゃない、それが自分にとっては代償行為であることが不純なの。
正しいかどうかより、感情がどうか、なの。
ちょっと前になんかで読んだ、不倫している奥さんよりそれを責めている旦那の方が不幸だよ、地獄へ落ちるよ、なんていうと、まったく反感を買うのはわかるけど、これはある意味真実を衝いている、というのと同じようなこと。
自分の人生を生きねばならない。
自分の気持ちを生きねばならない。
地獄も天国も所詮自分の心の中にしかない。
男も女もない、親も子もない、わたしもあなた、もない。
感情が作用点、について一つ思い出すのは、納豆は好きじゃないけど身体に良いと聞いたから食べている、というエピソードだ。
いや、そんなら、やめときな、と思うの。
こんなことを数値に直すのはまったく馬鹿げていると思うが仮に、
納豆を食べることが100良いとして、あなたが実は好きじゃないのだけど、と思う時点で、その思いにもよるが、100からマイナス50、マイナス100、下手をすればマイナス150(結果マイナス50)という作用を及ぼしていて、
それこそ食べないほうがマシ、ということだってありうるわけです。
正月に妹に会った。
おでこと顎にニキビが出来ていて、なんだそれ、とわたしは何だか、咎めた。治しなって。
治したいよと、控えめにいわれた。
治したいけど、どうすればいいかわからない。
薬も試している。けど改善しない。
薬なんか効かないよと、少し経っていうと、わかってる、という。
わかってるんかい。
いや、薬が効かないわけじゃないけど、薬なんか効かない、というと、わかっている、なんて答えるひとにはよっぽど、効かない。
ストレスじゃないの、と聞くと、
仕事が?と答える。
知らねーよ。普段どんなふうに仕事に臨んでるんだよ。
知らない、そんなことは自分にしかわからない、とわたしはいった。
妹とは、かれこれ、30年の付き合いはある。
でもおそらく、10年来の友だち、ほど喋ったこともない。
とはいえどこか、一晩中×365日話し明かした友だちよりも、
深く知っている。
なにせ生まれた年月日、曜日、その日を覚えている。
今日は妹が生まれる日なんだと思いながら丁寧に、小学生のときノートに日付を書いたことを今でも克明に覚えている。
母親に、妹か弟ほしい?と(今思えば少し照れくさそうに)言われたことを、まったく今の瞬間のように覚えている。
八歳か九歳のわたしは、別にいらないって言った!てことも。
家にあった本の何が、どこが、面白かったということが妹と奇妙に酷似していたりする。
わたしには出来て、彼女には出来なかったこと、
彼女には出来て、わたしには出来なかったこと、
この違いを実におもしろいと心にとどめている自分がいる。
歳の近い弟に対してもある。とってつけたようだが。でもわたしは男の心配はしないのよ。
わたしはいつだってそう、
自分のことは自分にしかわからないよって、そんなことしか言えない。
自分を他者(たとえ親であれ!)に預けることが好きそうなひとは周りにいくらでもいた。
それは、怠惰でもあり、相手にすべてお任せしますということが親愛なる情の、最大級の表し方だと深く信じている態度でもある。
わたしが気にしなきゃならないのは、それは怠惰だ、と宣言することじゃないんだなあと最近つくづくと、思う。
じゃあなんだって言われると困っちゃうんだが。
自立することの素晴らしさ、ひとは自分一人では生きられないという素晴らしさ、
すべて素晴らしさであって、苦悩などではないということ。
自分一人でもこれだけ楽しめるんだぞってこと、
他人とでもこれだけ楽しめるんだぞってこと。
わたしは深く深く下がる、下りる、もっと深いところまで、しかも自分をもって。
自分、とはバランスの指標になるものだからだ。
自分が未熟なら水深1メートルがいいところ、それ以上深みに嵌れば今回の生を失うよ。
指標たる自分を失えば、生きている自分を失うよ。
自分がなきゃ世界は見られない。