望まぬ誘い。とはこれ如何に。
個を十全に感じきる。
そのためにわたしたちはそれぞれの「わたし」でいる。
彼が彼であるから感じ取れることを、それがどんなに痛くとも苦しくとも「彼の代わりに」感じるためではない。
彼の感受性を彼自身から奪う/覆い隔てることは「神の愛」ではない。
神は、ひとつの人格じゃない。
神とは、目に見えるものも見えないものも、動くように見えるものも動かないように見えるものも、物質であれ非物質であれ、何であれ、存在するすべてのこと。
あらゆるものが神であり、あらゆる場所が神である。
そう、だから「神などいない」はある意味ただしい。
あらゆるものが神であるならば、特定のものだけを神とは呼べないからだ。
愛の反対語は憎しみではない。
愛とは存在すること、愛の反対とは存在しないことだ。
そこにはだれもいない。
そこにはなにもない。
それをまだ誰も知らずにいるとき、それが存在しないとき、そこに愛の息吹を持ち込むことは不可能だ。
認知論めいてきたが。
あなたが月を見ないとき、月は存在していない、という。
たとえば、愛のないセックスなんて言い方をしますね。
違和感しかない。
愛のないセックス?
そんなものがあるか?と思う。
要するに「愛」についての勘違いがある。
愛の、あるいは愛でないものへの、雑な言葉/認識による濫用がある。
愛のないセックスはしたくない、なんて余計なことは言わずともよい。
相手に愛がないと宣告する必要がどこにある。
したい相手に、あなたとしたい、で十分。
望まぬ誘いを受けたなら、あなたが相手であれば傷つくであろう物言いは避けて断りなさい。
いやこれは自分自身に向けた言葉だ。というのは、
一昨日、本屋にいたら不意に横に立った見知らぬおじさんから「カラオケ、いく?」と問われて、
視線や物腰に「嫌悪」を感じ、無視したい衝動をおさえ、素っ気なく「いや(結構)」と答えると、「えっ」と問い直してくる。
声をかけてきたのみならず(上からやなあ)、二度も断らせる相手に、咄嗟に苛立ちを覚え、
「いやです」
とはっきりきっぱり嫌悪さえ込めて断言すると、
「そうか、いやか…」
と頼りなくつぶやきながら相手はどこかへ消えた。
この手のことは要するに、わたしが思いがけずに声をかけられなきゃそれが一番いい、んだけど、
声をかけられてしまったときにどうするか。
「いやです」
と嫌悪をあらわにして言ったわたしはきっと醜い顔をしていたであろう。
余裕のない対応は優雅さに欠ける。
自分自身が不躾な振る舞いをしたのを、「相手が声をかけてきたせい」にするのはどう考えても滑稽だ。
しかし、カラオケってのは初ですな。
実際わたしはよく声をかけられる。
知っているひとからも、見知らぬひとからも。
あたりまえだが何の気なしに乗車した、タクシーの運転手からとかもある。
わたしが発している。
自慢じゃなく卑下でもなく、呼んだものが呼んだから来るだけ。
でもすべてじゃないが、呼んだっけ?と覚えのないものも中にはあって戸惑う。
ありがとう、ごめんなさい、結構ですという、感じの良い対応がしたい。
嫌われる心配じゃないですね。
どう考えたって二度と会わない。
ただわたしが、二度と会わない相手だからといって嫌悪感や蔑みをあらわにしている自分は好きになれない、というだけだ。
しかし、カラオケっていうのは、痴漢じゃないが痴漢すれすれというか、
これが仮にホテル行かない?とかならより一層そうだし、
言葉によらない実際の行為に及ぶ痴漢には。
中学生の頃いちどある。
本を読みながら自宅のマンションの駐輪場を歩いていたら、後ろから抱きつかれて、本が飛んでいった。
コンクリートの表面をざざっと擦った、本に傷がつく音を聞いた。
わたしは投げ出されてしまった本を見ていた。
本はあとで労わるとして今ともかくこっちをどうするか、
しばし逃れようともみ合ううち、ふと足元を見ると、相手の履いている靴が、なんとも形容しがたいが大人のものではない。
なんだ子どもか、と(わたしも子どもだけど)力が抜けた。
恐怖や焦りがまったくなかったとは言わない。
青天の霹靂であって、何が起こったのか、さてまた何が起こるのか、予測もつかなかった。
ふと目をやると、自転車に乗った少し遠いが人の影もみえる。
「たすけて!」と叫ぶところなんじゃないかこれ、と思う。
うーんでもそれをするにはあと一つ必死さが足りないかなあ、我を忘れたかのように助けを乞うのはちょっと気恥ずかしいなあ、
というか、
「たすけて!」と叫ぶのってこんなに照れ臭いものなんだ、ということをはじめて知った。
そうしてともかく座って話そう(何をだ)という提案をされ、座ったが、何を話したのか、要するに何も話していないに等しいと思うのだが、(単に忘れただけともいう)
そのうちに相手は弾みがついたように立ち上がり、逃げていった。
それはもう、逃げていった、と形容するほかはない感じだった。
なんだあれ、とあっけにとられて見送る。
不思議と嫌悪感はない。蔑みもない。助かった、という嬉しさもない。
いったいなんだったんだ、でも、
本を読みながら歩くのは要注意だなとなんとなく。
そりゃだって人に抱きつかれるだけじゃなくて電柱にぶつかったり溝に足を取られたりすることもあるしな。
そういえば一昨日のも本を読んでいたときじゃないか。
そういうことか。いやどういうことだ。
路地を隔てて90度角、隣の家は大家さん。
大家さんの飼っているコリー犬はまだ若く、よく吠える。
うちには猫がいて、猫にもよく吠える。
あるとき、家の開いたドアの隙間から猫が外を見ていると、また大家さんと犬が通りがかり、犬の吠え声の合間に、大家さんが何か喋っているのが聞こえる。
誰と喋っているんだと思ったら、どうやら猫に話しかけているようだ。
「うちの犬がいつもごめんやで」「堪忍したってな」とかなんとか話しかけている。猫に。
ふとおかしくて笑ってしまった。
なんか、いいひとだなあと思った。
こんないいひとが隣人だなんてわたしは恵まれているなあ、と思った。