「シーラという子」

 残酷さが不思議だ。
「シーラという子」を二日かけて読んだ。
 夜、家に持ち帰って読んでいて、声を上げて泣くところが何箇所もあり、翌朝は目が腫れていた。
 目が腫れるほど泣くなんて、嗚咽をおさえきれぬほど泣くなんて、幾年かぶりではないか。
 
 読んでいる最中から、これは親しい人にも読んで是非もらいたいと思いつき、気になってレビューを見ると、
 おや、これは、気軽に薦められる書物ではないのかも、という感じがしてきて、戸惑った。
 
 ひとつには、生にあまりに逼迫していて、生々しすぎる、怖いほどに。という最初からある躊躇を具現したものであり、
 もうひとつには、
「問題児」シーラに感情移入して、筆者である「先生」トリイを偽善者であるかのように思う人への賛同が高い、という、わたしからすれば意外性。
 
 読みながら、ペーターとわたし、なんだっけ、なんだったっけ!!
 少女のわたしを愛したあなた、みたいなタイトルだった気がするのだが。
 それを思い出したり、金星人の「ウォーク・イン」ではない人の話(これにも父親役というか父親立場というか大雑把にいえば大人の見知った男が、あたりまえのように関係を迫ってくることへの苦痛と戸惑いが、ありありと語られている)をも思い出したり。
 ウォーク・インっていうのは、地球に生まれた人間と(地球外の人が)魂を交代するというか、身体(設定)を引き継ぐというか、そんな感じ。
 有名なところでは(そうであるという認知度が高いって意味じゃないが)、アメリカの初代大統領・リンカーンがそうだったとかいう話は、「ラー文書」の一か二で読んだ。
 しかし、ウォーク・インであるか、そうでないか(そもそもそう生まれついたかどうか)っていうのは、たいした問題じゃないよね。
 実際のところ、(周囲からはそうだと思われている)設定を引き継ぐ、というのは大変なことだと思うのよ。
 あっさり言えば本当は誰だって宇宙人なわけだよ。

 自分が地球人だと思い込んでいるだけで。


 それがシーラに関してもある。
 彼女は精一杯、生育環境いわば「設定」を引き継いでいてしかも、その生を「今・この瞬間」として生きている。
 
 レビューの一つに、彼女のカリスマ性とか、魅力とかについて語っている人がいて、それにはまったく同意できた。
 本書の中にもある。
 彼女との別れの前に、
「シーラは自由なのよ」と語ったまだ十四歳の少女。
「シーラはまるで妖精のようだね、強くまばたきをすればその一瞬で消えてしまいそうだ」と語った青年。
 トリイは、シーラを実に勇気ある少女として見る。
 わたしには、その気持ちが痛いほどわかる。
 勇気あふれるそれ、を眺めている側の気持ちが痛いほどにわかる。
 
 別れがあることを切り出したとき、シーラを、いつものように抱きしめたいという気持ちにはならなかった、彼女は決して可哀想でも憐れでも、いたいけでもなかった、
 彼女はそれらの感情を拒絶する威厳とも言うべきオーラで包まれていたからだ、
 というくだりでもまったく盛大にわたしは泣いた。
 
 皆、わたし。
 シーラもトリイも、わたし。
 
 トリイが、他人をわかる、なんて本当には出来ない、ということを無防備な膚に突き刺さった棘のように感じる、痛みにも似た厳粛さが好きだ。
 トリイが、あまりにも大人びた目をするのでシーラはまだたった六歳の少女なのだということを忘れてしまう、という賞賛とも懺悔ともつかぬ痛みが好きだ。
 
 今・この瞬間、
 をシーラからは感じる。
 とはいえ、彼女がまったくすべてにおいてそうだというわけじゃない。
 四歳のときに別れた二歳年下の弟・ジミーのことを気にしているし、自分を置き去りにした母親のことも気にしている。
 でもそれくらいは目を瞑ってもあまりある!
 わたしは英語はわからないが、彼女のヘンな話し方の中で、beで語り過去形はない、というのも、しかもそれを意識的にしているということも、
 ものすごく「意図的」なものとして印象深い。
 
 わたしは、トリイが、トリイこそすごいなって思うの。
 それはおそらくわたし、だからこそだ。
 関わらなければそれで済んだような関係に敢えて深入りし、それでいて自制を失わない、決定的には失わない、
 わたしはわたし、あなたはあなた、という立場を「愛」あるいは「情」あるいは「やさしさ/強さ」をもって貫く。
 
 でも別れ際、シーラが、あんた(トリイのこと)がいなくなるなんて耐えられない、悪い子になってやる、とヘソを曲げ、ダダをこね、だってそうしたらあんたとまた一緒に過ごせるんでしょって、あんたしかわたしを「飼いならせる」ひとはいないんだからって、

 それでもあれは、悪い子になる、なんて嘘だよって、「あんたのためにいい子になるよ」って最後の最後に言うと、
 トリイは馬鹿だから、ほんとに馬鹿みたいに誠実だから、「わたしのためにいい子になるんじゃないの、あなた自身のためにいい子になるのよ」、と言うの。
 そうすると、不思議に大人びた微笑をシーラは浮かべて、もう何にも言わないの。
 
 わたしはこの瞬間、シーラじゃなくてトリイなの。
 もはや、トリイが幼くて、シーラが大人なの。
 
 わたしはこの馬鹿げた現実に取り残されてしまうの。

 

 わたしは本当を言うと、すべては自分の手の中にあり、自分の責任っていうことのどうしようもなく明らかな真実性と、その物足りなくも味気なさの中に、いまだ呆然と佇んでいるだけ。

 

 彼女が、シーラが、トリイにあてた手紙が最後にある。

 どうして、こんな深遠な詩を書けたんだろうって胸が切なくなる。

 本当に不思議になる。

 

 シーラは、謎めいている。

 野生の動物を飼いならすのは、罪深いことだって痛みに、同意しそうになってしまう。

 野生の動物。

 

 わたしにはわからない。

 

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