「トランプ自伝」

 東日本大震災、だけじゃないが、そうした災害で亡くなるひとは、生まれる前にそのことに同意してきている、とたしかバシャールが言っていた気がする。
 これは、とある著名人が、今世で親に虐待されたとか言ってるひとは過去にそうしたことを自分がしてきているの、ということを言っていたが、
 これはさすがにどうだろう、受け容れがたいというか、他にも言いようがあるというか、
 そういうのと似ている、つまり、受け容れがたさにおいては。

 でも、同意してきている、というのは、わたしにはなんだかとても、希望や展望のある話というか、癒される話というか、そんなふうに感じられた。
 不慮に思われる死にも、自己の意思は反映されているのだ、という勇気づけられる話として聞くことができる。
 亡くなったひとっていうのはもう、なんせ亡くなっているので、そこに納得するもしないもないけど、
 むしろブーイングは、大切な愛するひとを災害や事故によって亡くした、いまだ生きているひとから発せられるものだろう。
 しかしまだ生きて苦しんでいるひとに、それは前世の報い的なことを言うのは、言っても仕方がないのじゃないかしら。
 
 虐待されたことを心の傷として抱えているひとは、それこそひとによると思うけど、虐待してきた相手への怒り、にはまだ達していなくて、シーラみたいに「わたしが悪い子だから?」という苦悩を味わい続けていることだって多くある。
 過去世で自分も同じことをしたんだよ、ってさとすのは、
 そこへ「そうだよ、あんたが悪い子だからだよ」とさらに重しをつけるような、
 もう、こころない対応というほかはない、という感じがしてしまう。
 
 なんだか皆、とはいわないが、素晴らしくもおっちょこちょいな、早合点をする赤ちゃんで、
 たとえはるかに年上のひとだって赤ちゃんでってことはありうるし、
 親でさえそうであるとも言えるし、
 自分自身もまたそうであるとも言えるし、
 傷つきやすい子どもっていうのは、
 いや実際扱いにくいというか、細心の注意がいるというか、こっちがよっぽど大人じゃなきゃならないというか、
 そういう意味で色々面倒だとか、恐ろしくさえあるというか、

 まあそういう気持ちでもってわたしはまだ若い頃には、自分が子どもを産むなんてとんでもないな、と感じていた。
 たぶん自分がまだ、無菌室で育ちたい、子どもだって無菌室で育てられるべきだとかいう気持ちが、あったのだろう。


 わたしは「自分の傷」についてはひどく敏感なほうだ。
 それはきっと癒される必要がある、無差別に他をあたるよりもおそらく確実なる自分自身の手によって、と感じている。
 長ずるにつれ、いや、でも誰だって大人になる、だから大丈夫、とそれはおそらく、わたしがそこそこは大人になったから、つまり自分は大丈夫だったから、子どもだって大丈夫なはずだ、という気になって、
 よし、いつでもどうぞ、と待ち構えていたときもあったが、いまだってもう全然いらない、とかはないが、
 まったく見事に一度も出来たことはない。
 タイミングじゃないんだろうなあ、あるいはなんだかんだ言ってそこまで真剣に欲しいとは思っていないんだな、そしてわたしの場合は自分が真剣に望まない限りには、子どもを授かることはないってことだな、と納得したものだ。

 でもここ最近、自分が産んだ子どもだけが、あるいはまた子どもと看做される年齢の子どもだけが、真剣に向き合うべき子どもってわけじゃないんだな、と思うようになった。
 そういえば、わたしが子どもはちょっと、と感じていた理由の一つには、「自分の子」「よその子」っていう区別がなんとなく、いやだなあ、なじめないなあ、と思っていたせいもある。
 
 その区別に何の意味や価値があるのか、まったくわからないというか、共感しづらいものがあった。
 おそらくそうした区分による、負の面を見ていたのだろうと思う。
 
 自分より年上のひとだっていまもなお子どもでいる、というか、子どものときの傷を抱えたまま未消化なひとはいるし、
 そういうひとに、もういい大人なんだから、って言って追い詰めたり、もっとひどくは、嘲るような真似はしたくないなあと思う。
 
「トランプ自伝」を読んでいる。
 昔のやつ。
 そこの「生い立ち」ってとこで、父は裸一貫たたき上げで財を成したひとで、自分には兄がいた、兄はビジネスには不向きだった、
 パイロットになりたいんだとか、他にやりたいことがあるんだとか一向に実績を作れない夢ばかり追っていて、
 八つも年上の兄に対して自分は「しっかりとしなよ」などと言ってしまったことを、後悔している、とふりかえる箇所がある。
 兄はそのうちプレッシャーに負けて酒におぼれ、43歳で亡くなってしまった。
 あんなことを、言うんじゃなかった、と後悔している。
 たぶん、そう言い放ってしまったときの、ありありとしたディティールの全部を覚えているのだろう、と思う。
 これは、せつない話だ。

「トランプ自伝」、おもしろいよ。
 わたしは新聞もテレビもみない、政治であれ芸能であれおよそニュースにはほとんど関心がないが、
 トランプ大統領がどうも毀誉褒貶というか、
 バッシングがすごい、というところと、財を築いてそれを失ってまた築いて、という逸話は知っていて、興味を覚えていた。
 それで、自伝を読んでみている。
 どうにも話が進まないので、じれて、ウィキペディアをざっと見たりしたが、
 いや、ウィキペディアなんかじゃやっぱりだめだね、と思った。
 その人に興味があるのなら、他人が下す評判ではなくて、その人自身から話を聞かなきゃだめだ。
  
 それに、まだ途中だし、いわばいつまでも途中なのだが、彼の話を聞いていると、
 派手で華やかでゴージャスなことが大好き、でもそれは決して虚栄心によるものや、ふわふわした現実離れした憧れなどではなく、夢を与える影響としてのメリットはあるのだ、と断言し、それを裏付けるような実に堅実な面もあって、わたしはそこに惹かれる。
 
 偶然と必然っていうのは、まったく矛盾した関係だ。
 わたしは言葉が矛盾を孕んで、孕むどころか生んでしまうのだと思っていた。
 いや、それは正しい。
 でも、言葉だけじゃないな、と思う。
 すべてありとあらゆるものは、矛盾した関係にある。
 
 たとえばわたしの話なら、
 わたしは何か関心をひくことが起きたときに、特に困ったこと、悲劇的なことが起こったときに、それを偶然で片付けるのは嫌いだ。
 しかしその嫌い、という感情を超えるように、人生は博打なんだってことを信じてもいる。
 なぜ博打かっていうと、先のわかった、結果が決まったゲームなんて誰もしたいわけがないだろう、と思うからだ。
 端折れば、人生はある意味ゲームなんだと思っている。
 
 うん要するに、楽しいこと、幸せなことは(必然だと手柄話にしたいのはやまやまだけど、謙虚に)偶然のせい、にしてもいいけど、
 苦しいこと、悲惨なことっていうのは、決して偶然(自分が関与できぬ原因)のせいにしてはならないと思うんだ。
 つまり、「問題」があるのなら、それの必然性(自分が関与できた可能性)について点検してみる必要がある。
 なぜかって、
 それはだって、いくら先延ばしにしようが、逃げようが、見てみないふりをしようが、どうしたって自分につきまとってくるものだからだ。

 自分が疑問に思ったことについて、うやむやに出来るものではない。
 あなたは、わたしは、それと決着を付けるために、現世世界へとまったくわざわざ、途方もないリスクを物ともせずに、参入してきた、お互いがお互いを補い合える、同志なんだよ。

 それはなにも、後先のないとりあえずの具体的な行動に出るとか、もっと言えばわざわざ誰かを傷つける行為に及ぶとか、
 そういうのは、いらないんだよ、必ずしもは。
 そこにおさまるのが完璧に美しいと感じる気持ちを味わう、それだけでも本当は、十分なんだ。
 それでもっと欲が出たのなら、その欲を、その上昇願望を実現する試みもまた、素晴らしく感動的なことだ。
 
 物がここに嵌る、この配置が完璧に美しく粋だと自分は感じる、ということを言ったスタイリストのひとがいる。
 わかるわ、と共感し、
 その後、いや、これは物との関係だけに収まる話ではないなと気づいた。
 思い、気持ち、考え、というものだって、そこに嵌る、という感覚がある。
 それは嵌ってみなきゃわからないことだが。
 言葉を換えれば、「腑に落ちる」感覚といってもいい。
 
 またまたわたしの卑近な例を挙げれば、
 職場で、相手も自分も別にお互いを嫌ってはいない、決定的にウマが合わないってことはないし、むしろ、という関係でいて、「上司と部下」的な立場の関係にあるひとがいる。
 わたしの無限にある内心を言い出せばそれこそキリはないのだが、
 ともかく相手は上司的な態度でもって、自分に苦言を呈してくることがある。
 わたしが咄嗟に反発するのは、それあんたわたしにだけじゃなくて誰にでも言えるの、ということだったりする。
 と、しましょうよ。
 しかしどう考えてもここで我を張るのはお互いにとって気力の浪費だという気がしてならない。
 どうにもしばらくモヤモヤして、考えを煮詰めるに、
 相手だってわたしにこんなことを言うのは嫌な、気の進まない気持ちがしたことだろう、だとすれば、なんだかそんなことを言わせて申し訳なかったな、
 という観点に辿り着いたときに、
 ふときれいさっぱりモヤモヤは晴れて、気分が良くなって、こういうのを収まりのよい考えって言うのだろうな、と思った。

 収まりの良い考えってものが、あるのだと思った。
 それはまるで、物がその場所にあるのが一番似合っている、粋だ、という感覚と一緒なんだな。

 

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