お金の話。自由と闊達さ、創造性について。

 お金の話がしたい。
 わたしはずっとお金について懐疑的だった。
 お金のことを随分ないがしろにして、お金に対してまったく傍若無人、まったく礼儀知らず、恩知らずだったな、と思う。
 それは良く言えばフランクな関係だった、ということもできる。
 そこらへんにある石と同様の価値があり、なんでもないもの、という位置づけにとどめていた。
 これは、決して間違った態度とはいまでもやっぱり思えない、思えないが、
 どうだろう、ここらで本気で考えを改めるべきではないか、という気もする。
 そこらにある石がそうであるのと同様、お金もまた、なんでもないもの、とすべきではない。
 
 裕福さとは、豊かさとは、自分がしたいことを、する必要があるだけ、存分にする「自由」がある、ということだ。
 いやこれは本当にお金に限ったことではない。
 限ったことではないが、その自由、その豊かさ、その充実に、お金は事実、相当な議席数を獲得しているものだ、いまだ。

 ともあれ、ないがしろにはしてならない。
 それは、本当に、何についてだって言えるんだからね。

 たとえば、「お金」を粗末にする。
 お金を恐れる。
 お金を嫌う。
 お金を奉る。
 これらは表出する姿が違うだけで、根は同じものだ。

 要するにわたしたちは、知らないものを恐れるし、忌み嫌う。
 要するにわたしたちは、習慣に従い、習慣の中で生きることを好む。
 つまりは、安全安心を第一の優先事項にする。
 まったくそれは間違いではない。
 間違いではない、ということがもう、本当に大変な困難なんだ、とも言える。
 
 自分がしたいと思えることを実現するにはお金が足りない、という現実を受け容れてあたりまえのものとして、習慣として生きていると、
 たとえば世界一周をするとか、都市一番のビルを所有するとか、いま収入を得ている仕事を捨ててまで原始の伝統に従って生きている民族とフレンドリーシップを築くとかさ。
 自分にはもっとお金(夢を実現する可能性)があってもいいのじゃないか、という新しい考えがふとよぎったとき、脳が、
 ほんと、脳が、それを全力で阻止しにかかる。
 できるわけないでしょ、今まで築いてきた、この現実を見てよ、というわけだ。
 脳は習慣にないものは全部基本的に嫌いだからだ。
 脳は冒険を、特に無謀な冒険を好まない。
 脳は脳自身が知らないことに対してまったく排他的な立場を取るのだ。

 いやでもこれは、
 脳のせいばかりにはできないね。
 
 自分ってものは、脳そのもの、ではないからだ。


 脳自体にはクリエイティブな、闇をも照らそうという自発的な意識はない。

 だからこそ脳を、これは無謀な冒険ではないんだと、説得する必要がわれわれには、あるの。
 そして脳って馬鹿じゃないから、本当に有能だから、底の浅い、その場しのぎの意思ではまったく説得されてはくれないの。
 
 わたしたちは、ほんとうに、自分自身に忠実であるってことに懐疑的であり、遠慮がちであるよね。
 欲を悪いことのように見做すってのも、ほんとうは間違った選択なのじゃないかなあという気がしてならない。

 これに関しては、斉藤一人「お金の真理」で語られていたように、欲も神様が授けてくれたものなの、ってことに諸手をあげて賛成だね。
 にとどまらず、すべてありてあるものとは、授かりものなのだ。
 それら自体が、僥倖なんだ。
 
 結局のところ、わたし(あなたからすればあなた)が、変わらねば何も変わらないのだ。
 環境を変えようだとか、いっそ相手との関係を跳んだり清算してしまおうだとか、そんなものは近道は遠回り、というほどのものにすぎない。
 あなたは、重苦しい場所に依然として罰ゲームか義務かのように、留まらなければならない、と言っているわけじゃない。
 いまいる場所を重苦しくしているのは、いまある他ならぬ自分自身なのだと、どこかの時点で真摯に気づきさえすればそれが、

 そこへ踏み出すまでは先の見えない遠回りの道に見えていようが、本当は自由への一番の近道なんだ。

 わたしは、この世に、遊びに来た。
 でもそれは他者から提供される娯楽をまったく受身に与えられるまま堪能しに来た、という意味ではない。
 
 トランプが言っていた。
 わたし自身は博打はやらないと。
 博打に興ずるひとは、単にスロットマシーンをするひとなのだ、わたしはスロットマシーンを所有する人間でありたいと。
 そして誰もが本当は、それらを所有することが出来るんだよ。
 そして誰もがそれを所有したときにはじめて、もっと新しい、もっと素晴らしいゲームが生まれるの。