「幽霊のような子」まだ途中ですが。

 今朝、あっやばい、すごいと恐れ戦いたことがある。
 それは要するにひとは「いいひと」でありたい、
 それこそが最大にして最恐の難問なのだということ。
 そして、まったく何でもないことを問題にしているのだということ。

     *
 シーラとは、トリイにとって本当に好敵手だったよね。

 もう、要するにそうした面白さだったと、「幽霊のような子」を読みつつふと、思う。
 いや、今回のジェイニィでは相手不足だってわけじゃない。
 そもそも、自分に引き合う相手とめぐりあい、自分のもっているものが相手に響く、それだけのことだ。
 シーラが勝つのか、トリイが勝つのか。
 いや勝つの負けるのって話じゃない、とマジメぶればそうもある、でも、
 実力のせめぎあい、というものは、どんなことに対してであれ、あるのだ。

 わたしたち一人一人はやっぱり、戦士なんだという気がする。
 自己を賭けるゲームをしている。

 一見そうは見えないひとだって、
 たとえば他人におもねるとか、他人の顔色を窺ってばかりだとか、あるいは、他人の望みをかなえてあげたいとか、他人を傷つけることは出来ないとか、優しい心根の持ち主だって、
 そうすることによって騙し騙し、あるいは消極的に、自己を生き永らえさせている。

 正直にいって、「いいひと」だと思われたいひとっていうのは、一番信用がならないひとだ。
 いいひとでありたいという気持ちがあまりに強い、ということは、いいひとであるためになら、どんなことでも出来てしまう、いいひとであるために不要なものは自己を削り他者を削りでもして、切り捨てられてしまえるってことだ。
 とはいえ、誰だって程度の差はあれ、そうなのだ。

 いいひとっていうのは、本来のあなた自身とは程遠いってこともありうる。
 
 いいひとっていうラベルにはある面、何の信頼すべき中身もない。
  
 皆、自分にとっての「いいひと」を求める。
 求めるし、いざ現れたとなると感動したりする。
 なんていいひとなんだろう、自分には到底マネできないわ、とかなんとか、本気で感動するんだよ。
 実に馬鹿げている。

 実に馬鹿げている。

 666とか獣の数字だとか、そんなものが特に現実的ではない、なんて思わない。
 それだってこれだって、太陽は東から昇るとか、地球には重力があるとかだって、
 同じように要するに物語の一部、真実の一片を担っていると思うだけだ。

 ノンフィクションなんていうものは存在しない。
 すべてはフィクションだ。
 
 これは現実でこれは幻、という分け隔て自体がまったく馬鹿げているのだとしか思えない。

 みにくいアヒルの子という話がある。
 アヒルの中になぜか間違ってまぎれこんで育った白鳥の子は皆と違っていて、いじめられていたけど、成長するとアヒルからも羨まれる美しい白鳥となりましたってやつ。
 ばかな、アヒルは白鳥を羨んだりしないよ、とかは置いておくとして、

 たとえばこういう話に何らかの感銘を受けて、それを人に説明しようというときに、
 アヒルと白鳥を取り違えて、白鳥の群れの中にアヒルがいて、と話し出して、
 それアヒルの中に白鳥がいて、の間違いでしょ、と指摘され、
 違う、白鳥の中にアヒルがいたの、と顔を真っ赤にして主張するような人の物語、
 核心部分を不意にそれて物語そのもの、語りたいという衝動を自ら壊してしまうような話には、
 わたしは興味がもてない。

 うん、アヒルでも白鳥でもどっちでもいいけど、あなたがそうだというのならそうでいい、ともかく、続きを聞いてよ、
 とほんとうに自分が心を動かされたことに関して話ができる人の物語は聞こうという気になる。

 あなたは白鳥はアヒルよりも美しい、という話をしたかったわけではないはずなのだ。
 そうではなく。

 

 そう、思い出した、

 わたしが本当に嫌いなのは、

「それは自分のせいではない」

「自分が自分のようであるのは自分のせいではない」っていうスタンス。

 そりゃ、彼が彼のようであり、彼女が彼女のようであることの責任なんて、自分には負えやしない。

 でも自分が自分であることのリスクを放棄するってのは。

 

 なぜあまりに美しいものを見たら、涙が出てくるんだろう?

 なぜあまりに勇敢なものを見たら、涙が出てくるんだろう?