「ヴィーナスという子」

 わたしは、自分の親がわたしに話してくれたことを、断片的にではあるが、よく覚えている。
 とんでもないこと、も多少は言っていたが、わたしはそれらに目を瞑る。
 そんなのは置いておくとして、自分にとって印象的だったこと。

 お父さんが子どものころ、アメリカ軍がヒロシマの離島(江田島に連なる能美島)にまで姿を見せていた。
 子どものお父さんは、臆することなく、覚えようとして覚えた英語を駆使して、チョコレートやガムなんていう、当時の贅沢品を彼らから引き出すことに成功していた。
 お父さんは1945年、終戦の前三月に、中国の大連で生まれた。
 引き上げは二、三年後。
 自分が知っていて相手は知らない、ことを生意気にというか、臆しもせず、先生に指摘するような子どもだった。
 最後(1960年)の就職列車で十五、もしかするとまだ十四の歳、大阪に出てきた。
 最初に就職した先は、スプリングを作る会社だった。
 夜間高校に通わせてあげるという契約のはずだったのに、まったくその気配もないので、夜間高校に行ける会社へと乗り換えた。
 わたしは、お父さんが描いてくれた馬の絵を忘れることが出来ない。
 それは実にユーモラスで、漫画的な可笑しみがあって、上手だった。
 お母さんに絵を描いて、と頼んだら、わたしは下手、お父さんの方が上手だから、と言っていたことも。
 わたしが赤ちゃんのころには、トラックを運転していて、トラックの中でおしめを換えたというわたしが覚えてもいない話をいつまでもしていた。
 わたしが子どもだったころ、お父さんは一人社長、雇われるわけではなく契約を結んでトラックの運転手をしていた。
 それでは足りないと思ったのだろう、タクシーの運転手を副業でしていた。
 中之島のロイヤルホテルでウェイターのアルバイトもしていた。
 そのときに得意の英語で、得意の冗談で、客に話しかけて仲良くなったイギリス人、オランダ人、アメリカ人のもとへ、
 わたしは高校生のとき家族皆で訪ねる旅をした。

 わたしは、なぜだかものすごく覚えている。
 お父さんとお母さんが、お母さんの両親に頼み込んで、会社を設立するための出資金を願い出たときの光景、
 そのときに錯綜する感情のやりとりを。
 そもそも、なぜそんな席にまだ幼いわたしが同席していたのかもわからない。
 同席なんて言えるものでなかったのは確かだ。
 でもわたしは、少なからずその気配を感じ取っていて、それを実に印象的なものとして覚えている。
 そうして、会社を設立し、いまもなお、それはある。
 わたしは一時期、その会社にいたことがある。

 こんなことをしていちゃダメだし退屈だ、と思って結局辞めたけれど。


 お父さんは、毎月必ず五万円を前借する社員が、取引先とトラブルばかりを引き起こすので、
 このままではクビにするよりない、というときに、
 自分の仕事を大切にした方がいい、と助言していた。
 お父さんは耳が遠いし、相手方は心が遠いのでまったくちぐはぐな会話をしていて、聞き耳を立てていたわたしはひそかに笑った。
 でも本当に、その通りだと思った。
 自分の仕事をもっと大切にしなければ。


 話は変わるけど、ずっと、ほんとうにここずっと、何年もの間、
 要するに自分の波動を変えるしかないのだ、と感じていた。
 付き合う相手を選ばなければ、なんていうのはまったく嘘出鱈目だと感じていた。
 いまもそう思う。
 なぜそう思うの?と問われて相手を説得することに腐心すれば、するほど、真実からかけ離れてしまうであろう。
 
 彼が彼のようであり、彼女が彼女のようである、その根底、その基底をも覆し、コントロールするようなことは、わたしには出来ない。
 そもそも出来ない、不可能だし、試みる必要もないことだ。
 助言さえするなってわけじゃないし、
 相手のことを慮る必要もない、というわけじゃない。
 
 ただ、相手が変わることを手伝いする最大限の効果を上げる方法とは、相手には相手自身の力で変わる自由があると自分は信じる、知っていること、それだけなのだ。

 

20:31 2019/02/10
 わたしは変わった子、とんでもない子が好きだった。
 怒ってさえいなければ。

 怒りに対抗するのは、相手よりもっとものすごい怒りしかない。
 しかないというのは、それが唯一の誠実な手段だからだ。
 そしてわたしは、怒るのがそこそこ得意でもあり、実際のところは苦手なのだった。
 
 わたしは勝ち目のない戦いをするのが嫌いだ。
 そりゃもうどうしようもないところまで追い込まれて勝ち目が見えなくてもやるしかない、ということはありうる。
 勝ち目が見えなくてもやるしかない、というのは戦いを放棄すればこの先自分は生きる希望を失うだろう、ということがわかっているときだ。
 でも誰がそんな状況にすすんで自分の身を置きたいだろう?
 少なくとも、わたしはいやだ。

 

21:19 2019/02/11
 ずっと興味があった、惹きつけられて関心のやまなかったこと、
 それは差別と、子どもの問題だった。
 もっと抽象的にいうなら、自分とはなんだろう、他者とはなんだろうってこと。
 そこに二人以上の人がいるのなら社会がある、世間がある、ということをいつか聞いて、
 うん、すごくシンプルだ、その通りだと感じ入った。

 でも、人が生涯二人きりということは実際ありえないと思える。
 二人いれば、というよりも、そこに三人のひとがいたほうが、より社会とよぶのに相応しい問題が浮かび上がってくるのかもしれない。
 つまり、ほんとうに二人きりなら、それはなんていうか。
 なんというか、自他の区別ってそこに本当に存在しうるのかしら?と思う。

 互いに相手がすべてのような世界においては、いまだ相手も自分も完全に癒着していて何の齟齬もなく。

 もちろん、こんなことは想像にすぎない。
 だって、いったいどこの誰が、生まれてこのかた互いに自分たち以外の人間を、他の存在を知らず、目の前の相手、ただそれだけしか知らず二人っきりで過ごす、なんていうことが出来るだろうか。

 つまり、そこに二人以上の人がいれば確かに社会と呼べるものはある、
 でも、その二人は、お互いに目の前の相手以外にも、他者が存在していることを知っている。
 知っている、というのは、思い浮かべることができる、ということだ。
 
 ほかの可能性、ほかの在り方を。

 差別の問題は、難しい、でも要するに、わたしたちが各々の身体をもち心をもっている、別々の存在として存在している、という物理的な事態がある以上、
 どこまでもついてまわる問題なのかもしれない。
 
 子どもの問題とは、
 一言でいうなら、誰だって社会性を身に着けた大人としてこの世に誕生したわけじゃないってこと。
 
 星のひとみ、という童話がある。
 弟が小学校の図書室で借りてきた。
 わたしは、その本が図書室の本棚にあることを知っていた。
 知っていたけど手がのびなかった。
 弟が借りてきたので家に転がっているのを見てもやっぱり手がのびなかった。
 それを読むことは気が進まなかった、どうしてもそそられなかった。
 でもものすごく覚えていた。
 というわけでいま、この本はわたしの家の本棚にある。

 赤ちゃんが、狼に追われて一目散に逃げているトナカイのひく雪橇から落ちてしまい、狼の群れは赤ちゃんを囲み、赤ちゃんを食べることはせずに散っていく。
 すべてが凍りつきそうに澄みきった夜空の下、赤ちゃんはおくるみに包まれてただ星を見つめている。

 社会が悪い、なんていう。
 わたしは、そうは思わない。
 変えてゆかなければならないことが何一つとしてない、素晴らしい完璧な世界だ、というつもりはない。
 それらは、ただ否応もなしに変わってゆく。
 時よ止まれ、なんてわたしは言わない。
 死ぬつもりはない。
 時も止まらない。
  
 皆、相手を変えることに一生懸命だ。
 そんなゲームをしている。
 世界を変えられるという希望に、あるいは変えられはしないという絶望に、夢中になっている。
 
 夢を与える仕事って何だろうなと思うんだ。
 与えられるものは食べても食べても消え去る夢だけなのか、ほんとうに?

「ヴィーナスという子」を読んでいる。
 わたしは最近トリイ・ヘイデンを知ってその面白さに夢中だ。
 まだ途中だけど、わたしはたしかに期待して読んでいる。
 ヴィーナスという子が、固く閉ざした鎧を脱いで、世界へ解き放たれる瞬間を見たい、その思いだけで。
 解き放たれました、めでたしめでたし、じゃないのはわかっている。
 でもいまのままでは彼女はまだ、スタートにも立っていないのに等しい。
 とはいえ、スタートにも立っていない、と思わしうる彼女の選択の物凄さよ。

 ものすごく重いテーマをも絡めて、彼女たちの体験は続く。
 
 なぜひとは、世界のどことも知れない遠くの悲惨さを救うことには熱心で、目の前の、手の届くところにある悲惨さを救うことにはこうまで無関心なのだろう、というような箇所が途中にある。
 
 ほんとうにそうだ。
 
 自分が関わらなくては何もできない。
 
 そういうルールなの。

 それが唯一絶対のルールなの。 
 
 それ以外のことはまったく枝葉末節にすぎない。

 自分が最大の謎だ。


 自分が関わらなくては、
 つまり自分が自分をどこかで差し出す勇気がなければ。

 わたしだって勝ちの見えない勝負なんてしたくはない。
 誰だって。
 いや、誰だって、というのは僭越かもしれないけど。
 要するに勝負事はどこにでもそれこそあたりまえにすぐ手を出せるものとして転がっているのだ。
 まるで宝の山に囲まれているも同然だ、とわたしなら言いたい。
 
 トリイと、トリイの同僚っていうか助手のジュリーの間に繰り広げられる「バトル」がわたしは興味深い。
 わたしはジュリーの気持ちは、とてもよくわかる。
 劣等感と優越感っていうのは、ほとんど薄皮一枚の裏表で、
 いわばそれは他人から見れば区別のつかない、一卵性双生児みたいなものだ。
 劣等感あるいは優越感とは、罪悪感とも言い換えられるかもしれない、そして罪悪感ってほんとうに恐ろしいものだ。
 
 わたしたちはたしかに、見えない鎖につながれている。
 たしかに、たしかに、たしかにね。
 見える鎖はなんでもないものだ。
 ともかく、それは「見える」。
 というこの一点において、もはやなんでもない、という以外にマシな形容は思いつかないほどだ。

 ヴィーナスという子は、極端に見える。
 わたしたちは、トリイの目、トリイの体験を通してヴィーナスを見る。
 だから彼女が生命ある子として、希望を持てる子として、その十分な確証の片鱗を見ることができる。
 でも、トリイの目を通さなくては、はたして、どうだっただろう。
 トリイが見なければ、トリイが見たフィルターを通してでなければ、わたしたちは、実際の彼女と接して、
 いったい何ほどの関わりを持てるだろうか。

 いや、持てないね、ほとんど、まったく持てない。
 何なら彼女を。

 ヴィーナスは極端に見える、でも、実際のところ、誰しもがヴィーナスと何ら変わりない本質を持っている。
 わたしからすれば、わたしをも含めてだが、
 わたしたちは皆ヴィーナスなのだ、という気がする。

 トリイはヴィーナスの目を覚ましてあげたいと言った。
 いや、わたしからすれば、ヴィーナスだけじゃない、誰だって目を覚ましてなどいない。
 彼女がほんとうに深く眠っているのだとすれば、彼女こそ一早く眠りから完全に目覚めることができるのだ。

 

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