「ミラーニューロンがあなたを救う!」

ミラーニューロンがあなたを救う!」これ、一冊目だったんだね。
 著者の本は何冊か読んでいる。
 この、面白いんだけどどうしてもつきまとう読みづらさについて他の人はどう感じているのかを知りたくてレビューなんかも見る。
 レビューの数が多い。
 そして実に高評価。
 それだけ、やっぱり面白いし需要があるんだなあと思う。
   
 レビューにあったように、「この本を気持ち悪いとかネガティブって感じる人は、温かくて幸せな人生を歩んできたんだろうなあと思ってうらやましくなります」
 っていうたぶんこれが正解なんだろうな。
 わたしのことを恵まれている、とか羨ましい、とか言ってきたひとに超おすすめしたくなる。
 わたしでは暗示を解くのは難しいから、このひとの話を読んで是非暗示を解いてください。
 
 いや、この本はだいぶアクが強いし、実に面白いんだけど引き込まれると同時に拒絶されている(と敢えて言おう、この本にならって)感があって、
 そうだな、著者のいう「下の二割」のひとにとってはものすごく素晴らしい本だってことはわかる。
 
 すごい、敏感で影響を受けやすい体質っていうのが、
 あるのかもしれない、あるんだろうなと思わせられる。
 幽霊見えるとかもそうだよな。
 わたしは幽霊は見えない。
 プラスとか、マイナスとかさ。
 つまりこれは幽霊を見える子が言っていたのだが、彼女はマイナスなんだって。
 もちろん幽霊の見えるひとがすべてマイナスだってわけじゃない。
 幽霊が見えて、あるいは見えなくても、それを祓(払)えるひとはいる。
 そういうひとはプラスなんだってさ。
 わたしは、その子に言わせるとプラスでもマイナスでもなく、そのどっちでもありうるんだってさ。

 怒りや汚物の話が出てきて思い出したのは、
 わたしは怒っているひとがとにかく苦手で、
 それはなんていうか、
 自分が相手の怒りに怯えてしまうから苦手、なんじゃなくてもうただただ面倒臭いから苦手。
 なんで怒る必要があるんだ?と思う。
 それは本人からすれば最悪の事態を避けるためのベターなんだろうな、でもベストじゃないよね、と思ってしまう。
 人間には怒る、という機能が備わっているし、わたしも瞬発的な怒りにかられることはある。
 でもそのときに、自分が何をしようとしているのか、ということは、わかっている。
 壊そうとしている。
 怒りを覚えた対象を叩き潰そうとしている、ということがわかっている。
 なにかで読んだが、怒りの持続時間っていうのはほんの何秒か、十秒程度なんだってね。
 なるほど、そうだなと思った。
 でもこれをしつこくしつこく思い出して再創造する行為に及ぶひとがいる。
 いや、わたしにもまったく覚えがないわけじゃないから、わかるんだよ、わかるんだけど、それってまったく無為なんだよね。
 どこかで気づかなきゃならない。
 気づかなきゃならないのは、自分の真意、自分の瞋恚についてだ。
 わたしは、わたしの瞋恚はひとを殺すほどのものだってことをわかっている。
 自分がそれだけの力を持っていること、あるいは瞋恚にはそれだけの力があることを、知っている。
 このご時勢、現代日本では物理的には殺しませんがね。
 これが刀を携えている時代だったら問答無用で殺しているよね。
 切るか、切られるかなら、間違いなくわたしは切ると思う。
 でもいまは時代がちがう。
 
 瞬発的におこる瞋恚、怒りっていうのはほとんど美しくさえあるから、わたしは息をのんでそれを見つめることができる。
 でもその美しさっていうのは、せいぜいもって十数秒なんだよ。
 あとはがらくた、十数秒のちにはそれは腐臭を放つものに成り下がってしまう。
 
 怒っているひとが苦手、ということを言い続けて、それよく言っているよね、と友達に言われて、
 だってさ、とあるとき思いついて、
 道端にゲロがあるときにわざわざそれを踏みにいこうなんて思う?
 思わないよね、怒っているひとが苦手っていうのはそういう感覚、というと、
 実にいやあな顔をされたな、とこの本を読んでいてふと、思い出した。
 
 いじめの構造とかもすごい、なんか、嫌いなんだよ。
 ゲロみたいで。
 それでわたしは気持ち悪いなあと思って決して関わり合いにはならなかったんだけど、
 大人になり皆わりと冷静に話せるようになって、
 あのとき、の感じを、
 だっていじめなかったらいじめられる、とかって相手が説明するんだよ。
 ちょっとわかるような感覚のあと、もっと意味がわからないってなる。
 いやもうそんな裏表しかないコインは投げ捨ててしまえよって思う。
 
 この著者が、グループ分けみたいなことになったときに、要するに下2割に配属されてしまう、
 とかいう流れでわたしが思い出したのは、
 わたしもグループ分けっていうのが超のつくほど苦手だった。
 そこで、すごく純粋にというか、欲望に忠実にというか、
 わたしはこの子と一緒になる!と宣言する子をほとんど眩しいくらいの気持ちで、すげーな、と思っていた。
 わたしにはとてもできない。
 この感覚は長じてもあって、猫が家にいるじゃん。家にいるんですよ。
 わたしが家に連れてきたのは一匹だ。
 その一匹目の猫が雌だったので、子どもを五匹産んだ。
 それで一気に六匹に増えた。
 そのうちに、家を出たっきり帰ってこない子とかがいるわけですよ。
 わたしは心配をして、事故で死んだのなら、痛ましくはあるが今さらどうしようもない、と思う。
 願うことは、外の世界って広くて素晴らしくて家なんて詰まらないぜって飛び出して元気に過ごしてくれているのならそれが一番いい、と本当に思うんだ。
 でもわたしにすれば最悪の事態として、保健所に捕まっているのだとすれば?なんて想像する。
 わたしが迎えに行けば殺処分を逃れられるのだとすれば?
 でもわたしはここにものすごい葛藤がある。
 わたしが迎えに行くでしょ?そこは殺処分される猫だらけなわけでしょ?
 わたしはそこで、この子はうちの子って言って、うちの子だけを連れて帰るわけ?
 わたしはその何ともいえない罪悪感と無力感に打ちひしがれてしまって、自分にはそんなこと絶対に無理だ!と思ってしまうの。
 そういうわけで保健所まで探しに行くってことはできないの。

 しかもさ、それってなんなんだろうなって本当に思うんだよ。
 わたしはこの子と一緒になる!って迷いもなく言える子がものすごく眩しいんだよ。
 それはすべてに対する正解などではないが、あまたある正解の一端を担っているなってことは、わかる。
 
 わたしは要するに、ものすごく子どもらしくない子どもだった。
 すごい、覚めているんだよね。
 その覚めている感じっていうのが、どうしても他人との齟齬を生んでしまって、
 わたしはものすごく孤立するの。
 確かに孤立はするが、わたしは、いじめられたことはない。
 いじめたこともない。
 そのどちらにせよ身に覚えがないだけってことはあるかもしれないが、
 ともかく自分のストーリーとしては、どっちもないんだよね。
 どっちを踏むのもゲロを踏む感覚ですごい嫌だった。
 どっちの役もしたくない。
 
 攻撃を仕掛けられたことはある。
 わたしはその瞬間、びっくり仰天して穴のあくほど相手を見つめてしまう。
 相手の真意をはかりかねて、いるうちに数秒が過ぎる。
 そのうちに、ああ、相手はわたしを攻撃しているんだなと理解する。
 なるほど、喧嘩を売られているわけね、わたしがそれを買えば喧嘩がはじまるわけね、と思う。
 それで、わたしは買っちゃうんだよなあ。
 でもわたしは買った喧嘩で負けたりはしない。
 負けない方法がわかっているから、というよりも、
 負ければ自分が自分のすべてを失うことがわかっているからだ。
 これは自分でも悪い癖だと思う。
 売られた喧嘩を買わないことが慈悲、ということだっておおいにありうるからだ。

 でも多くの場面では、そうではない。
 わたしは最近でも、店に来る客のひとりに、すごい馬鹿にされている気分、と冗談まじりにだが、言われた。
 彼氏と喧嘩してても流すんでしょって。
 わたしは、彼氏となんか喧嘩しないでしょって返した。
 そうしたら、喧嘩にならないってこと?ときかれた。
 いや、喧嘩する必要、要素なんてないでしょって、わたし。
 そういうとこやで、と追及され、
 その客の退店際にも、頼むから男と喧嘩してあげて、というようなことを言われた。
 そのときにも思った、だってわたし怒っているひとがともかく苦手なんだってと。
 わたしは、わたしの慈しむ相手をわたしが責める、あるいはわたしを慈しむ相手がわたしを責める、みたいな場面ってどうしても思い描けないんだよ。
 
 そういえばレビューを読んでいると、ひとに媚びてばかりいる自分はやめよう、みたいなことを書いているひとがいて、
 いや、媚びているっていうのは違うんだよって思った。
 なんでそこを媚びるってふうに捉えちゃうのかな。

 いやもうそれはたった一言でいえば「劣等感」なんだけどさ。
 
 なんていうか。
 人の下に立つっていうのは、ものすごく、なんていうか、これ以上を思い描けないほど完璧な何か、なんだとわたしは思うんだけど、

 なんせ孤立しているもので、他者を納得させるのは難しいね。

 うん、たぶん、孤立しているというよりも、親切心のなさ、なんだろうなあ。


 今日職場のひとと話していたら、そのひとは、太っているので、ダイエットをしているんだって。
 でも努力するのは嫌なんだって。
 そのひとのしているダイエットっていうのは、ご飯を、炭水化物を取らない方法。
 筋トレがいいよってわたしが言うと、
 努力するのが嫌、我慢するのが嫌、無理をするのが嫌、という。
 筋トレしているってナルシストみたいじゃない?ナルシストはいやだって。
 いや、わからん。
 どうもこの人にとっては、ナルシストっていうのがキイワードみたいなのだ。
 もう二三年かそれ以上ほどの付き合いがあるけど、
 そういえばそれ、よく言っているな、と思い返されるのだ。
 あのひとはナルシストなところがあるから苦手、とかさ。
 ナルシストでいてはいけない、という暗示を誰かから植え付けられたんですか?と思う。

 いやもう、わたしの好みからいえば、誰かからというよりも、自分で自分に、と言いたいところだが。
 
 限界を設定するのは他人じゃなくて自分なんだよ。
 こう言うとわたしって下2割じゃなくて上2割みたいだよねと思う。
 
 うん。
 でも、そうじゃないよ。
 だってわたしはフラットなのが好きで、それ以外を認める気はないから。

 

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