誰もが自分のしたいこと、すると決めてきたことをしに生まれてきた。

 おとうさんが小学生だったときの担任教師がおとうさんに、息子はともかく娘さんのことは心配でしょうと、よくありがちなことをたずねた。
 父親として娘のことは気が気でない、みたいなこと、あるだろうね、と。
 わたしはそのとき高校生だったか大学生だったか、忘れたけど、おとうさんの生まれ育った、いや生まれは満州だった、広島の能美島に家族で帰郷していたころのこと。
 わたしはまるで試験官のようにおとうさんが何と答えるのかに、耳をそばだてた。
 いや、心配でたまらないなんてことはないし、実際に何をやっているかなんて親の目には届かないものだ、というようなことを、おとうさんは実に穏やかに言った。
 わたしはなんだかそのとき、胸底から嬉しい気持ちが、ほのぼのとこみ上げてきたのを覚えている。

 勝手に娘はこうだろうと決めつけていたのが実はまるで違った、ということを知ったときのショックをやわらげようとしてあらかじめそんなふうに考えているのかもしれない、とも考えた。
 でもつまるところ、おとうさんはおとうさんがこうであってほしいとか、こうであるべきとかいう期待をわたしに押しつける気持ちはないんだということがわかった。
 
 おとうさんだってそりゃ心配は心配だろうし、決して無関心なわけではなく、口を出したいのはやまやまだけど、自分のその心配をわたしに解消させること(自分が安心できる行いを娘に求めるの)は筋違いだという分別はあったのだ、とわたしは思っている。
 
 だいたい、わたしも相当変わっているけど、おとうさんだってそもそも変わっていて、おかあさんもやっぱり変わっているとわたしは思う。
 
 自分の身に起きるどんなこともいわば、生まれる前に合意してきている、あるいはある程度の青写真は描いてきている、という話はおもしろい。
 おもしろいし、ひじょうに前向きな捉え方だよね。

「金持ち父さん」シリーズのロバート・キヨサキが、ドナルド・トランプは教師としてすぐれた父親に恵まれていたが、自分の父さんは貧乏父さんで、金持ちというのは貧乏人を搾取する悪しき存在なのだということを心の底から信じていたひとだった、という。
 自分はそんなことは信じられなかったから、父親との間に溝ができてしまったと。

 そういえばふと、イデオロギーの違いによる溝は埋められないのね、とか言って恋人同士の仲が壊れるみたいな話、
 手塚治虫のおそらく「アドルフ」だったかと思うが、
 それを思い出した。
 それを読んだのはまだ十代のころで、イデオロギーの違いで仲が悪くなるなんて、まったく馬鹿げているとびっくり仰天した。
 うん。いや、いまもそう思う。
 突き詰めればあなたの正体とは、イデオロギーなんてものじゃないよって思う。

 でもまあ、なんかわかるな、とちょっとほろ苦い気持ちで、ロバート・キヨサキの話をいまは聞ける。

 というのは、月に一回会う友達と話していて、
 いったい今日はどうしたの?とこないだ、言われた。
 なんか変なものに影響されていない?

 わたしはほんとうに、思うのだが、そりゃ自分の親だって、自分とは違う存在だし、生まれ育った時代も違うし、そういったもののせいでお互いにまったく齟齬がないわけじゃないが、
 親に関しては、親からのプレッシャーを感じたことがあまりない、というのは実に心の底から、ありがたいと感じている。
 わたしが「自立」しているように親もまた「自立」していて、
 実際のところわたしは、自分の親兄弟と過ごすのは、他の何にも増して心地が良い。
 互いの「自立度」による度数の、その近似値が、心安い、気の置けないものに感じられる。
 それでも、些細な、もしくは決定的な齟齬はもちろんあるし、わたしは、親(親であれ誰であれ自分以外の他のもの)の庇護のもとにずっとやっていこうと決めて生まれてきたわけではないし、
 
 なんていうか、どこかで袂を分かつことがあるのは、
 受け容れざるをえないものだと思っている。

 それにそれは何も袂を分かった相手との不和を意味するわけでもない。

 にしても、「なんか変なものに影響されていない?」とは。
 いいや。
 違うよ。
 わたしはあなたの思う変なもの、に変貌しようとしているわけではない、という確然たるおのれの思いに、色鮮やかに気づくとき、
 ふと自分でも思いもよらぬ、快とも不快とも分かちがたい、感慨に絡めとられてしまう。
 
 わたしはわたし自身に備わった、孤立という個性を感じているが、それでも日常的に連絡を取り合う友達が何人かはいる。

 よく、ドリームキラーなんていう言い方をする。
 わたしは、そうだなあと同意しつつどうにも、決定的には、そういう表現に違和感を覚える。
 ともかく、自分がしていることについて、そうまで自覚的なわけではない、というひとは本当に本当に多いからだ。
 そのひとには、自分の愛するひとの夢をつぶしてやろうなんていう意図も自覚も、所詮ないのにすぎない。
  
 わたしは、わたし自身の個人的な情熱について、わかってほしいと思うわけじゃない。
 そんなものは別にわかってもらう必要もないことだ。
 わたしは、いわばこの「法則」を、分かち合いたいと思っている。
 
 この法則、つまり、
 誰もが自分のしたいこと、すると決めてきたことをしに生まれてきたんだという、必然性にかられた実際をさ。

 

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