「書くこと」または、所有しなければそれを手放すことができない、ということ。
書かなければ先へ進めないと感じていた。
書いておかないとそこにとどまり続けるというか。
書かなくても死にはしない。
実際ためしに書くのをやめてみようと思った時期がある。
また、もういまさら手書きには戻る気にはなれないし、かといってワードを使える環境じゃないしっていう時期もある。
別に書かなくても生きているし、楽しくないわけじゃないし、むしろ他のことで忙しくしていたと思う。
だいたいわたしが家を出たかったのは、いつまでも親元では仕方がない、経済的に自立しなければという気持ちもあったが、
たばこを部屋で吸えること、邪魔されずに集中して書けること、という具体的なメリットもあった。
突然部屋にやってこられて、何しているの、と罪もなく言われたり、書くことを中断しなければならないのがいやだったし、
書いていることを知られるのも、書いたものを見られるのも、わたしからすれば相当好ましくはなかった。
いろんな意味で集中が途切れて散り散りになるから。
それで、一人暮らしを援助してくれるという人がいて、喜んでそれに乗ったらその人もなぜか結局一緒に住むという。
そんなこんなでずっと、相手は変われど、そうした生活をしてきて、何年か前ついに本当の意味で一人暮らしを経験し、そのあとまた一緒に住むひとが現れたりしたが、いまようやくやっと、
一人でいることの実に安堵できる、くつろげる時間をわたしは満喫している。
もう途中から、わたし書くことが好きなのって、書くことを隠したりはしなくなったが、それでもやっぱりそこに人がいると、集中できない。
いま自分がしていることの説明を求められるのが、わたしは苦手だった。
だった、っていうかいまもある。
職場で休憩中に本を読んでいると、何読んでいるのとか、それおもしろいのとか、どういう内容なのとか。
自分は本なんて読む気がしないんだけど、本の何がそもそもおもしろいのとか。
うるさいなあ、放っといてくんない?てなる。
いや、そのおもしろさをわたしはわたしなりに説明はできる。
でも相手がそれで納得するかどうかは知らない、
ていうか納得しないと思う、
わたしの説明はそこまでわかりやすいものに洗練されても整理されてもいないから。
だいたい知識の土台、興味の方面が違う。
そもそもわたしとあなたとでは人間が違う、つまりまったく他人同士だってこと。
こういう気持ちをわたしは幾度となく経験しているから、ほとんど暴論かもしれないが、自閉症のひとの気持ちはわかるような気がする、なんて思うことがある。
もちろんわたしからすれば、程度の差、傾向の違いはあれ誰しも自閉症じみた面を持っているのだが。
書くっていうのはいったいどういう行為なんだろうってつくづく不思議だった。
人間は、一日のうちに、何百何千となく「思考」しているという。
一個の思考の単位をどう区切ってそう言っているのかは不明だけど。
それで、その思考している内容っていうのは昨日も一昨日も一年前も十年前もそうは変わらないのだという。
そしておそらくそれは明日も明後日も一年後も十年後も、きっと変わらない。
繰り返し同じことを同じように思考している。
このことはある意味とてもぞっとする話でもある。
そこに新しく瑞々しい創造はなにもなく、ただただ過去の音源を繰り返す、針の壊れたレコードデッキを思わしうる狂気じみた重低音が、一刻一秒もおろそかにせず、鳴りやむことなく響き続けている、
そんな光景が鮮明にひらめく。
書かなければ先へ進めない、というわたしの焦燥かつ必要にかられる感じは、書かなければそれを手放せないという感覚にも似ていた。
手放せなければいつまでもそれを抱えたままぐるぐると同じところを回り続けることになる。
それで、手放すには、これは「七つの習慣」を読んで一番というか唯一覚えていることなのだが、
手放すためには、まずそれを所有している必要がある。
所有してもいないものを手放すなんて出来ないでしょうという話。
いや、そりゃそうだ、ほんとそれだよ。
それで、セールスがやっと登場する。
過去に一緒に住んだひとの一人で、唐突にセールスの世界に放り込まれたひとが、
ものすごくとにかくそれが嫌なんだって訴えていて、
わたしは、うんわかるけどわからない、なんだこれって不思議に思っていたのだ。
要するに仕事でしょ?
ゲームでしょ?
それ以外に何があるのって。
そう、それ以外にたしかに何かがあるのだ。
自分が決して所有したことがなく、従ってそれを手放すこともできない何かが、
こんなにも楽しい人生というゲームの邪魔をする、
ということがある。