営業、セールス、鬼束ちひろ、自閉症、トリイ・ヘイデン。あるいは病。
0:08 2019/03/02
要するに、わたしは癌ではない。
だから実際に癌を抱えたひとに、たとえ親切心からであれ、あれやこれやと批判的な気持ちを抱くことは所詮すべて間違いなのだ、という気がする。
ゆでたまごを今日、職場の何人かで食べているとき、アジシオは化学物質、と言い切ったことも、
おそらく余計なお世話なのだ。
23:51 2019/03/03
ビジネスとはセールスだ、という言葉になるほど、もっともかもしれないと膝を打ち、さっそくセールス(営業)の本を読む。
それで二冊読み、自閉症もやっぱり気になるので自閉症スペクトラムがわかる本ってのを読み、
その支援方法なんていうくだりへきて、根本的にはなんかこれ一緒かな、という気がした。
つまり自閉症であるのは皆、程度の差はあれそうなのだし、
営業が人生を通じて関わってくることも、そうなのだし。
鬼束ちひろの2002年の特集番組を動画サイトで観て、ウィキペディアも読む。
わたしは気になるひとの、生年月日を見るとそれを全部足してしまうのだが、
鬼束ちひろが22ということを知ってなんだか、そうなんだなあと思った。
それで、2000年2月にデビュー(また22だ)、
わたしのブログのタイトルにも22が。
わたしの甥も22だ。
こういうのはこじつけだとか偶然だとか、気のせいだとか、いろいろあるが、
実際のところ、じゃあ、こじつけでないものって何があるだろうか、という気がする。
よく(実際にはそんなによく、というほど頻繁じゃないと思うけど)、恋に落ちて運命を感じるとか、
そういうのも、他人からすれば、そうか?盲目とか思い込み、単なる願望じゃないの?
と感じられがちなのと似ている。
ちなみにわたしは生年月日を足すと33なんですが、ならなんでタイトルに22を持ってきたかというと、
なんだろう、その方がキレッキレな感じがするから、というか。
あるいはまたここでも核心をなんとなく避ける性分が顔を出したというか。
そうかあ、鬼束ちひろは22なのか。
歌うときは裸足なのか。
アインシュタインも靴下を嫌っていたよね。
グラウディングしているのかな。
足の指で拍子を取るのに便利なんて言っていたが、足の底から地球のエネルギーを貰っているよね。
そんな気がする。
彼女の「眩暈」という歌、
貴方はどこまでも追ってくるってわかるから、
というところの貴方、
これは、恋人かもしれないし、親あるいはまた、もしかすると子どもかもしれない、または超絶ウザイことに借金取りかもしれない、でも、
わたしはここを神と捉えると、なんだか、泣けてしまう。
神の愛がどこまでもわたしを追ってくる。
逃げることなどできない。
そんなふうに聴くと、この詩はとてもわたしの心をつかんで揺り動かして離さない。
神っていう考え方/概念はおもしろいよね。
わたしは昔、なんで人を殺しちゃいけないんだろう?と考えたことがある。
いや、殺したいわけでも殺されたいわけでもない。
むしろ、生きて、生きて、生きまくりたいんだ。
殺すの殺されるのって、そんな血腥い、生のやり取りはむしろ真っ平御免だが、
それにしても、じゃあなぜいけないんだろうか?
ありとあらゆる宗教の原則いわく、神さまが禁止しているから?
いや、それは嘘っ八だと咄嗟に強く感じた。
笑いがこみ上げてくるほどに。
神が、いわば全知全能なる神がそれを絶対に禁止するくらいなら、絶対に望まないのなら、そもそも、わたしたちは人を殺める手、人を殺める道具、人を殺めようなどという発想を持ち得ないはずだ。
むしろ神は殺しを禁止するどころか、奨励しているのかもしれないよ。
もしかしたらね。
わたしたちは自分も殺されたくないから他人を殺してはいけないのだ、という言説を読んだことがあるけど、
なんかそれ、インパクトに欠けるよね。
そういうアプローチも効果的かもしれないけど、ちょっと詰まらない。
いっそ自分を殺してくれ、というほど自己=世界を引き裂かれているひとだって、この世にはいるのだから。
そういうひとはまるで自殺するかのように人を殺すよね。
営業っていうのは、
実際のところ営業職にあるひと、だけが関わっている課題じゃなくて、そもそも誰でも、仕事に就く前から経験していることだよねっていうのが、ほんとうに腑に落ちる。
それは人間が人間と関わるときのマナーみたいなものだと。
マナー、まあそれも一つの表現、考え方かもしれない。
もちろん、マナーでもいい。
というか、要するにマナーなのかもしれない。
マナーで一つ思い出すのは、
有名なフィンガーボールの話、
いわゆる上流階級の会食に招待された場違いな人間が、指を洗うための水を入れたボールを、飲むものだと思って飲み干してしまった、
周囲はなんて無知で行儀(マナー)知らずの田舎者だろうと、冷ややかに見つめている、
そこへその会を主催したひとが、自分もその水を飲み干す、という話。
マナーっていうのはわたしは、
要するにコミュニケーションを円滑にする手段、お互いが、一方的ではなくお互いが、気持ちよく過ごすためのものだと思っている。
決して相手に恥をかかせるためのものではない。
そういう意味では、マナーが功を奏する。
つまり、営業の基本とは。
相手に心の底から寄り添うことによって個たる自己が呑み込まれてしまう、恐怖心/嫌悪感に打ち克つことが、
わたしの課題であり、望んだことだった。
「あんたのためにいい子になるよ」
「いいえ、わたしのためじゃないわ、あなた自身のために、いい子になるのよ」
なんという、断絶がここにはあることか。
いつでも正しいことができるとは限らない。
自己を差し出す勇気がないことには。
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