愛されたいのなら、先だって愛すること。なぜなら、わたしたちは、誰しも本来「主体的」「能動的」な存在だからだ。
デキた人間になりたい。
人から尊敬されるには、自分がまず膝を折って、人を尊敬することだ。
愛されたいのなら、先だって愛すること。
まことに、思うけれど、
自分自身を愛する以上に他人を愛せるものではない、それは単に不可能なのだ。
他人の目を借りて世界を見るってことは要するに不可能だ、
他人の心を借りて世界を感じるってことは、もうとにかく不可能なんだ。
自分が観じうる世界を広げれば広げただけ、他者に寄り添える、ただただそれだけ、他の選択肢はない、それしか方法はない。
自分自身をわかることをおろそかにして、他者のことをわかりたいなんて、まったく嘘なんだから。
そんなショートカットはできない、そんなインチキまがい、チートじみたことはできない。
今朝ふと思い出した好きな話がある。
地球において最初に登場したのは鉱物だ。
鉱物は、「存在すること」をした。
次に現れたのは、植物だ。
植物は、「存在し、成長すること」をした。(地中へも空へも、ありとあらゆる表面を覆うようにも生い茂った)
次に現れたのは、動物だ。
動物は、「存在し、成長し、動き回ること」をした。
動物の参入にあたって、先人たる植物は、花をつけ実をつけることで動物を歓迎することにした。(それまでは植物には花も実もなかったのだ)
という話、すごく素敵だし、感動的だと思った。
最後にやってきたのが、人間だ。
人間は、「存在し、成長し、動き回り、思惟すること」をした。
思惟することをした。
それが人間と、人間以外とを分け隔てる性質であり、本質だ。
だからわたしたちは、与えられた特質であるところの「思惟すること」を、たゆまない努力あるいは冒険心でもって、日々新たな発見をする、
もうもはや、義務/責任がある。
愛されたいのならば、先だって愛すること。
これはどういうことかというと、
人間っていうのはどこまでいっても、「自主的」「能動的」でしかありえないからだってことだと思う。
人間って決して本当は受け身ではない、
受け身ではないことが本質だ。
だからこそ、受け身であるとはどういうことかを学ぶ。
自分の本来の性質とは異なるあり方を学ぶ。
そうして他を学ぶことによって、自分自身を知る。
より深く、やり甲斐のある、歓喜の微笑は永劫に途絶えない、満ち足りたものとして。