多数派なのか、少数派なのか、ということだけが問題だ。
わたしという人間は何だって平気で、心が傷ついたりせず、強く楽々と乗り越えていけるのだと信じていた、(というかそうであってほしかった)
と親しくしていた友人に言われたとき、わたしはまさに人生最大の危機ともいえるほど傷ついている最中だったので、腹を立てた。
怒ったし、自分が怒ったことによって、相手の物の捉え方に驚きもし、結局心配もした。
昔の話だ。
わたしは、その起きた出来事をどうにも完璧に説明しつくした、という感じがしなくて、
こないだふとまた、その話を別な友人に話したら、
ずいぶん引きずるのね、まだわだかまりがあるのねというふうな反応をされた。
まるでわたしがいまだにその彼女を許していない、というかのようだった。
そういうことではないんだけどな、と実に残念な気持ちになった。
許すとか許さないとかではないし、わたしがいまだに傷ついていたり怒っていたりするわけじゃない。
ともかく、その発言をした友人に謝ってもらいたい、というような話ではないんだ。
こういうことは、おそらく、手っ取り早く言ってしまえば、彼女のひきだしにはない謎であり、関心なのだと思う。
彼女にはわたしが本当には何について知りたがっているのか、ということが、少なくとも易々とはわからないのだと思った。
わたしの説明がまずいせいもあるだろう。
わたしが自分自身に起きたことについて「誤解なく完璧に」話すことが不可能だというせいもある。
というか、そんなことは要するに不可能なんだろうとわたしが信じているせい、もあるかもしれない。
わたしが傷ついたりすることはなく、強い人間なのだと信じていたかった、と言った友人は、
最近になって、ほとんど流行りの、「発達障害」認定を受けている。
わたしが「発達障害」に関心があるのはそんな理由からでもある。
障害っていうのは不思議なものだ。
それは本当に「障害」(欠陥のようなニュアンス)なのかどうかはともかく、「少数派」を意味する言葉であることは間違いない。
目が見えないひとよりも、目が見えるひとの方が多い。
突き詰めれば、ただそれだけのことだ、とわたしは、思っている。
問題は、目が見えるか見えないかじゃない。
そうである性質が、「多数派」なのか「少数派」なのか、ということだけが問題なのだ。
誰にとってもこうなのか、それとも自分だけがこうなのか、ということが。
人間にはほとんど誰にも逃れようのない自己中心性があって、
それはおもに「身体的な限定」から来るものだと思える。
誰だって、一人に一つの身体を持って生まれてくる。
エゴ・フレームも実に個人的で、いわば自己中心的なものだ。
おそらく、「多数派」であることが「勝者」「不安のなさ」「皆と一緒」「天真爛漫なまでの無自覚な自己肯定」「赤ん坊のような全能感」につながっている。
こうしたものは、まったく人間の不思議さを象徴していると思えて、わたしは感嘆さえ覚える。
昔は、どことなく軽蔑していた。
つまり、皆と一緒なら安心、というまるで馬鹿みたいな「根拠のない」安心を。
そう、もう、ありていに言って、馬鹿みたいだとしか思えなかった。
わたしは思春期のある頃まで、周囲の人間をまったく皆変わっている、と一抹の疑問もなく感じ取っていた。
ところがあるときふと、周囲の人間が皆変わっているのだとすれば、むしろ本当に変わっているのはわたしなのではないか、と気づいて愕然とした。
周りがすべて狂人だと思うなら、狂っているのは自分の方なのだ、という言葉を知ったからかもしれない。
わたしには確かに目に見えるような障害はない。
ちゃんと手も足も二本ずつあるし、目鼻立ちにも特に変わったところはない。
持病もなく、健康診断の結果はいたって良好だ。
目も見えるし、耳も聞こえる。
ぱっと見、あるいは一言二言、言葉を交わして、相手を即座にぎょっとさせるような人間ではないのは確かだ、と思う。
まあ若干冷たいというか、シビアなまでに事務的すぎるというか、無愛想なところがあるのは否定しない。
そういうのって、ふとした拍子に出てくるんだよね、まったく無自覚なときに。
わたしの素の態度っていうのは本当に、なんていうか、何の飾り気もない殺風景なものなの。
敢えて冷たい態度を取るときには、わたしは自分にとって相手は大袈裟にいえば敵なのだということを、相手自身に知らしめようとしているわけで、完全に自覚的にそれをしているわけで、
こういう態度がまったく友好的でも親切でもない、頑なな態度だということは十分承知していながら、
わたしとしては最大限、いやむしろ最低限かもしれないが、フェアなやり方なのだと自分を納得させているところがある。
そうだな、わたしはわたし自身のことをこういう場では語りすぎるね。
文章ならばまったくそれは容易く、抑制を欠いたものになりがちだ。
でも普段、誰かと接しているときには、むしろ、どちらかといえば無口で、ほとんどお高くとまっているほどに親しみにくく、ガードの固い人間だと思われがちなのだ、
ということくらいはこの歳になれば無視せざるを得ない客観的事実として、了解してもいる。