「反対」は無意味であるという姿勢の、その
あれは親の家なんだっていう意識はあった。
わたしの家ではない。
書いているときに息抜きとか、考えを整理するためにたばこを吸うってことは、
わたしには必要あるいは効率の良い、魅力的な行為に思えていた。
でも親は吸わないし、親は反対しているし、親の家の空気あるいは壁紙をいわば汚すわけにはいかない。
吸うこと自体を止めることは親でもできない。
でも、家で吸うことまでは、わたしには踏み込めなかった。
あの家はたしかにわたしが生まれ育ったわたしの家だが、厳密には親の家であるのに過ぎないと感じていたからだ。
わたしは親のいうことで、わたしにはそうは思えないと思ったことは、聞いたためしがない。
そりゃおそらく、皆とはいわないが、ある程度自立した精神をもつひとならば、あたりまえのことだろうと思う。
ふうん、そんなもんかな、それがいいと思っているんだな、わからないけど、どっちでもいいけど、
と思うことなら、いちいち反対はしない。
わたしはともかく「反対する」ってことが実に苦手で、
反対はしないが、相手の意に沿わぬことを沿わぬと理解しながら、結局のところ自分がしたければする、という態度を貫いてきた。
なんだかそれって、コミュ障みたいっすね。
いや、いわば、そうなのかもしれないな。
というか、つまり、わたしはずっと昔から、
「誰もがしたいことをすればいい」と心底感じていて、
そもそも、すでに今現にまったく滞りなく、そうなんだろう、むしろそうであるほかはないと勝手に思っていた。
いまも勝手にそう思っている。
「人間、誰だって、自分にとってメリットのないことはしない」と思っていた、というか確信していた。
いちいち反対する必要はないと思っていた。
そんな無駄な労力いらない、と感じていた。
たばこについていえば、母親ってひとがおもしろいなあと思うのは、
普段は、たばこまだ吸っているの?とどこか非難がましく言うくせに、
たばこをお得に買う方法をわたしに提案してくるってところ。
反対なんじゃなかったのか、なんだかその矛盾ってまったくおかしい、実にわたしの母親らしいと思って、
当時一緒に住んでいたひとにそう、おもしろい話として話すと、
なんだか深刻そうな顔をして、
「本当に娘のことを心配していたら、そんな提案しないはずだよね」という。
いや、ちがうって。
でもこの「ちがう」感じを、どう説明すればいいのか、わたしにはさっぱり思いつかなかった。
そういうことじゃないんだけど、それにしてもいったいなんで彼はそんなふうに受け取るんだろう?ということに興味が向いた。
わたしはわたしの母親が「自分のことを本当に心配していない」かもしれない、なんていうことに対して不安になったことはない。
いや、幼い頃にそんなふうな不安をまったく一つも感じたことがない、とは言えないが、
少なくともその当時、そんな不安を持つことはとっくになくて、
「それって、本当に娘の身を案じている態度っていえる?」と遠慮がちにではあるが迫ってこられても、
どこかちぐはぐな心配をされているようにしか、思えなかった。
このことは、実に不思議だったし、不可解だったし、興味を惹かれたので今もってよく覚えている。
そもそもわたしは心配されたくないんだよね。
それに、心配したくもない。
あなたは、あなたでちゃんと(か適当にか知らないけど)やっているんだね、と信頼するのが、尊重するのが要するに好ましい。
控え目にいって、そう思っている。
もちろんよっぽどSOSのサインを出しているひとを目の前にして、何もせずにいられるってことはできない。
できないけど、
なんていうか要するに、他者のSOSのサインって、
自分がそう受け取ったかどうか、でしかないものだ。
自分が、助けてくれ、というサインとしてそれを見たときには、それを助けたいと咄嗟に思ってしまうのが、
ひとの本性なんだろうと思う。
それはいわば、ミラーニューロンの仕業なのかもしれない。
ゴキブリが死にかけているのを見て、助けたいと思うひとは稀かもしれないが、
たとえば実に愛らしい子猫が、
たとえば実に愛らしい人間の子供が、
まして彼らとの親密で気軽で安らかな思い出のあるものが、
目の前で溺れかけていたり、助けようと思えば助けられるような困難な状況に陥っているときに、
手を差し伸べないでいられるには、よっぽどな何か、たとえば、「無自覚な共感力」に対する克己心がいる。
いや、助けちゃだめだって話じゃない。
そうではない。たぶん。
とにかく、たばこの件に関して、わたしは母親の心配を必要とはしていないの。
それは母親が認めようが認めまいが、称揚しようがしまいが、わたしは勝手にするものだからだ。
母親がしてくる心配に対して困るほど迷惑だとも思わない、多少はわずらわしく感じたとしても。
だから、彼がそうやって案ずるふうに言ってきたことっていうのは、
むしろ彼自身の問題あるいは不安を浮き上がらせるものだったのではないかと思った。
だってわたしがもし、自分自身の不安を訴えるつもりでその話をしたのだとしたら、わたしはそんなふうに気に懸けられて、嬉しくないはずがないからだ。
やっとわたしの気持ちをわかってくれるひとが現れた、とでも感動するであろうような場面であって、
なにそれ頓珍漢だな、とは思わないはずなのだ。
たしかに刺激されるものがある。
そうじゃないよって、その彼にも言い続けた。(つまり親に返済すべき明らかなものなど本来、本当にないのだとか)
たとえば、
その彼は、母一人子二人で育てられて、母は十代の若いうちに自分たちを産んだから、
若く楽しく美しくある時代を、子育てに忙殺されて苦労をしてきたから、
自分としてはその苦労に報いなくてはならないんだ、と思っていた。
自分は親に恩返しをしなくてはならないんだと。
わたしはまるで嫌いなレーズンを、おもてなしとして目の前にテンコ盛り積まれた気分だった。
相手の気分を害したくはないし、かといって、美味しそうにそれを食べるには修養も足りない 、
実際のところそれを嬉しそうに食べてみせる、どんな必要性があるのかはさっぱりわからない、とでもいうべき、ぶざまな立ち往生だけがそこにはあった。
とはいえどことない気まずさはあった。
わたしが彼を訪れたのか?
それとも、彼がわたしを訪れたのか?
あるいはまた、そのどちらでもなく、そのどちらでもあるように、
すべては邂逅なのかと。
わたしは「反対」なんてしたくはなかった。
ただ、学びたかっただけだ、知りたかった。
でもどこかで、彼が、なすすべもなく溺れかけている子猫のように感じられてしまったことも、
虚しさか、痛切さか、憐情なのか、いまいましさなのか、わからないけど、
否定しようがない。そして、
そのことが、いまだにやっぱりわたしを、
痛めつけるとまではいわない、ただ、なんていうか、「不意にとらえて放さない」気持ちにさせることがある、それだけ。
だってそこには、謎がある。
単純明快に、簡単明朗に、まるで自分のことのようには理解できないという謎がそこにはある。