死を超越した永遠の命を見つけられるチャンスは、誰にでも等しく与えられている。
どっかでペテンにかけなきゃならないんだな、という気がする。
ペテンにかけるっていうのは、それを多くの人にとって「わかりやすいもの」に変換する必要がある、ということ。
どこか遠くの知らない誰か、の身に起きたまるで実感のわかないこと、共感できないこと、みたいに話をするのではなくて、否が応でも自分の身に置き換えてしまう、という「高度な話ができる」ようになる、
必要がわたしにはある。
このところ、「自閉症」と、「ドナルド・トランプ」と、「営業とは」について交互に読み進めている。
ドナルド・トランプに関してはあと一冊、「敗者復活」を残すのみだが、
ロバート・キヨサキは、妻のキムの写真を見たらわたし好みの美人なので、キムの著作も読むことになる。
「あなたに金持ちになってほしい」という実にあけっ広げなタイトルの本を、他のものと並行しながら長らく読んできた。
最終章において、ロバートが、ベトナム戦争に軍人として出立する軍事学校の生徒(ロバート)にむかって、教官の一人が話してくれた話をする。
手元にないので正確ではない引用だが、
「自分の命を差し出す覚悟ができた者から、永遠の生命を見ることが可能になる」
というような、
いや、手元にあれば実に引用したい、こんなものではない。
つまり、ペテンというと悪いもののようだが、わたしにとっては悪いわけのないペテンが、要するにわたしは下手糞すぎて、もどかしい。
リーダー、というと、そのグループにおいてたった一人をさす。
でも本当は誰しもが、リーダーになれる。
自分自身を統合できないものは、リーダーにはなれない、という意味において。
23:49 2019/03/18
「きみらはもうじきベトナムに行く。そして、すぐに、リーダーにとって最もむずかしい課題に立ち向かうことになる。他人の命を守るために自分の命を犠牲にしろと部下に命令することになるんだ。そこで、きみらに聞きたい。きみらもそれと同じことを自ら進んでやる気はあるか?」
指導教官は、話を聞いていた私と副操縦士に考える時間を少し与えてから、こう続けた。
「自分の命を喜んで差し出そうという気があれば、死を超越した永遠の命を見つけられる。人生には、たいていの人がそれを避けながら一生を過ごすような瞬間がある。きみらはそんな瞬間に対して、ちょっと普通とは違った形で真正面から立ち向かうチャンスを与えられる」
お金が面白くて、その面白さに夢中になる。
もうなんとなくの貸し借りはしない、と思った。
貸し借り自体が悪いわけではなく、それはビジネスでなくてはならないのだと。
というのは、なんだってビジネスなんだということで、
そうした自覚のないお金のやりとりは、ようするになんていうか、ただ漫然とした先延ばしにすぎないのだ、とでもいうような。
で、明日わたしはもう、貸さないと決めたひとにお金を貸そうとしている。
いや、あげる。
もちろんあげるとは言わないが。
他者への批判的な思いが、わたし自身を殺してしまう。
自閉症のひとが、批判がわからない、批判的な気持ちを持ち得ない、というのは、
皆が皆そうなのかどうなのか知らないが、
わたしには圧倒的な事実として迫ってくる。
つまり、わかる。
しかし、自分には批判的精神はないというからには、批判とはどういったものなのか、知っている必然性はある。
それがない、というからには、それがある状態を想像できるくらいの認識は必要だ。
これは幸福について、
自分は幸福ではない、というからには幸福である状態がどんなものか知っている必要がある、
というのと似ている。
貸さない、あげる、で思い出すのは、
闇金ウシジマ君の、サラリーマン君編で、
同僚がバクチに嵌ってしまって、借金を繰り返し、貸す方がもうこれで最後だ、と何万円かをつきつけて、連絡をしてくるなと言い放ったとき、
借りている側が、こんな何万円かでおれを捨てやがって、というか、見切りをつけやがって、というか、
なんかそんなふうに恨み怒りを募らせる。
わたしはこのシーンを読んで、本当に本当に、あぜんとした。
仰天した。
怖いと思った。
そんなこと本当にありうるのだろうか、というほどの、
要するに逆恨み以外の何物でもないのだが、
本人としては、そうではない、という認識がもう、とても怖かった。
こういうのはさ、
なんていうか、
なんだろうなあ。
もう何をどう考えるのも、どう受け取るのも自分次第だということの、
わたしからすれば最悪の例を出されたような気分であって。
自分だけでは想像もつかないようなことがある。
つまり、自分ではないひとが、起きたものごとをどう受け取るか、ということのありとあらゆる多様性、可能性の違い、
こうまでも違う、ということのあまりにも予想外な反応に対して、ただ圧倒されてしまう、という経験だ。
そしてどうにもやりきれず、むくむくと頭をもたげる、批判的反応。
わたしが好きな男前である中村天風、の著作のなかに、こんな話がある。
戦争で混乱を極めたあの時代において、処刑される寸前でもひるまず、目隠しなどいらん、額を狙えと言い放ったほど命知らずだった自分が、
戦後、病にたおれて、病室で母親が、ごらん月がきれいだよ、と病気の息子をなんとか力づけたく思ってかけてくれた言葉がけに、
月がきれいだろうが何だろうが自分には取るに足らぬ関心も持てぬことと、窓の方を見もしない、
そうした自分の心の貧しさにつくづくと嫌気がさす、という話。
いつのまに自分はこうまで弱くなってしまったのか、貧しくなってしまったのかと、愕然としたと。
逆境はチャンスに満ちている。
わたしは自分が逆境の立場にある、というわけじゃないんだ、残念ながら。
それでも、お金に困っているひと、経営がうまくゆかず立ち往生して底の底まできたという人と話をしていて、わたし自身もそれにまったく関わっていないわけではない、という経験を通して、
ああ、そうか、わたしはお金に困ってみたかったのかもしれない、とふと思った。
困らなければ気づかないこと、というのは事実、山ほど、それこそ星の数ほどもある。
あるいは病もまた、そうだ。
病というのは本当に、不思議だ。
病、そんなものがあるのだとして、とわたしは思う。
病気であれ貧困であれそれは、たしかに克服しがたいほどの、だが要するにチャンスなんだ。
死ぬのなら死ねばいいと思う。
死にたいのであれ、死にたくないのであれ、死ぬしかないのであれ、ともかく死ねばいい。
だが、どうあがいたところで、本当には死ねない。
お金持ちが天国へゆくのは、らくだが針の穴を通るようなものだ、
という聖書の言葉は、
善人でさえ救われるのだから、まして悪人が救われないことがあるだろうか、
という親鸞の文言に実によく似ている。
それはいわば、試練の多さを示している。
お金を持つ、ということは試練がそれだけ多くなる。
誰だって善人でいたいし、自分を悪人だなどと思いたいひとはいない、
つまり悪人と誹られるだけのことにはそれ相応の試練がある、本当に。