子どもの罪悪感の上に、平気であぐらをかける親が、わたしは大嫌い。
1:18 2019/03/21
猫といっしょに過ごしている方がよかった。
少なくとも、死にかけているひとを見に行くくらいならば。
よくおばあちゃんに言われた、あんたは結婚もしない、でもそれでもともかく、どうであろうと、
お金だけは持っておかなければいけないよって。
わたしはどこかよそごとのような気持ちでそれを受け流していた。
お金がなんぼのもんじゃいとでも、要するに思っていた。
お金は本当にミラクルだよね。
いまはそう思う。
困ったことがなかった。
困る状況を望んだこともないし、不安になったこともない、ほとんどね。
2:02 2019/03/22
お金を貸さなかった。
お金をあげなかった。
ということが、このところ頭から離れないんだと思う。
自分の母親は道端で出会った、困ったひとを見たらあるだけのお金をあげてしまうひとだった、と言ったのはインドの、アメリカでヨガの普及活動を行ったひと。
ヨガナンダ、だったかな。
結局ひとが何をしたか、ということは、
外側からはかれる行為そのものというよりも、行為に及んだ動機がどうであったか、ということに尽きるんだと思う。
それは目には見えない。
それは目には見えないんだ。
なんだって営業つまりセールスなんだ、という言葉の変換、あるいは発想の転換を最近好んでつかうわたしは、
自分の意図をどう表現するか、ということも要するにそうなんだ、という気がしている。
お金を嫌ってはならないよ。
同じことだが、お金を蔑んではならないし、恐れてはならない。
もちろんこんなことは、お金だけに限った話ではないんだ。
お金とは愛だ、お金とはエネルギーだっていう話をきくと、ああ、そうだねってわたしは思う。
愛とは要するにあたりまえにしてそこにあるもの、そういう意味でもそうだと思う。
人間って、放っておけば不幸になるんだと思うという話をしたこともある。
不幸だし不運だし不健康だしお金もない、というひとに。
やっぱりちゃんと自分でメンテナンスしなきゃならないし、マネジメントしなきゃならない。
幸福でありたいのならね。
幸福で、幸運で、健康で、お金に不自由しないためには、
放っておいてはならないんだ。
人間、とくにこういう時代においては、放っておいたら鬱病にだってほんとうに簡単になってしまう。
つまり、それは特別な「病」でもなんでもなく、誰だってふとすれば罹ってしまうようなことだと思う。
わたしは美しいものが好きだ。
わたしは美術系の高校へ進んだ。
そして石膏像の木炭デッサンの授業で、わたしの絵を前にして、先生が言った。
「なにを描いても、描かれた対象を美しくしてしまうひとっているんですよね」と。
わたしは実際のところ、ジレンマにも似た居心地の悪さを感じたものだ。
確かにわたしは筆をとるのなら、美しく表現することしか、できなかった。
まるで自分の脆さについて指摘されたような気持ちさえ、深読みすれば味わった、実に印象深い体験だった。
平たくいえば、喜んでいいのか、反省すべきものがあるのか、実に戸惑ってしまった。
きっとあのときそう評してくれた、男にしては可愛らしい顔をした優しくてお茶目だった先生は、喜んでいいんですよと、言ってくれるんだろうなと想像に難くないが。
要するに難しくもなんともなく、単に個性なのかもしれないよね。
2:11 2019/03/28
人と話をするのが楽しくてしかたがない。
これは「創作」の観点からすれば浪費だって本当に思う。
たしか筒井康隆が同じようなことを言っていたはずだ。
自分が感じた思いを、喋ってしまえばそこで散じ、消化され、形あるものを生み出す原動力をどこか、削がれてしまう。
たしかにそうだ。
たしかにそう、なんだけど、喋ることによって促される確たる自分の思い、というものに気づくことができるのもまた真なんだよね。
友達に会って、色んな出来事があったことを喋っていた。
喋るうちに喚起されるものがあり、
子どもの罪悪感の上にあぐらをかく親が、ほんとうにわたしは大嫌い。
そんなことも言った。
わたしはほんとうに恵まれている。
わたしのおばあちゃんがよく言っていた。
繰り返し、くどいくらいに言っていた、
あんたはいつになったら身を固めるのか、いつまでもふらふらとして、
結婚を必ずしもしなければならないわけではない、でも、
お金だけは持って置かなければならないと。
年を取って、自分の身も思うにまかせないというとき、お金がなくて他人の世話にならなければならない、ということがどれだけみじめなものかと。
いや、そうだよね、とわたしは思う。
それを最初に聞いたときわたしは、「何が起こるかわからない、そのときに備えてお金をとっておく」なんてまったく貧乏くさいな、としか思わなかった。
それは、いまでもそう思うんだ。
でも、それと、これと、
つまり、何を動機としてお金を持って置くか、ということはおばあちゃんとは多少違う見解がわたしにはあるが、
ともかく、お金くらいは持っておかなければならない。
ということに関しては完全に同意する、ようやく、いまになってね。
すべてのひとがお金持ちになるべきだ、と思う。
わたしの親は、子どもの罪悪感を養成し、その上にあぐらをかく、というようなことは決してしなかった。
親もそうだし、親の親もそうだった、両親共にね。
だから、わたしは恵まれている、とほんとうに思う。
こうなれば、あなたは恵まれているから、と言った、それこそ子どもの罪悪感を実に巧みに養成し、その上に平気であぐらをかくような親、のもとに生まれてきたひとの言説にも、
もういい、わかった、たしかにわたしはそうだ、あなたの言うように恵まれている、と認められるほどに。
学びについて思う。
苦境や逆境、あるいは困ったことっていうのは、実際チャンスなのだと思う。
人間って、ほんとうに困らなければ、何かを、自分を変えようという気にはならない。
わたしが恵まれた環境のもとにぬくぬくとして、そうだからこそ朗らかさや、軽い波動を保てていて、
あなたにはわからないんだ、と言われることがこの先にもあるだろう、あるとして、
それでもわたしは、それが自分の良さなのだと信じることが、いまはもうできる。
だいたいわたしは自惚れの強い人間なんですね。
わたしはほんとうに、お金に困ってみたかったんだと思う。
困ったことがないから。
それは大したことではなく、ほんとうに知れている程度の、困ったことだと認識している。
何も命まで取られるわけじゃない。
何も死ぬようなことじゃない。
お金は大事だ、でもお金のために死ぬとか、自分の人生をお金のために犠牲にするっていうのは、
もう単に馬鹿げている、としか言いようがない。
そうじゃないじゃん。
そうじゃなかったはずでしょう?と思う。