ヘアビューロン4D Plus「ストレートアイロン」すごく良い。
23:27 2019/03/28
他殺より自殺のほうが罪が重いときくと、みんな抵抗する。
実際には、罪などないのだが、
そうだとすれば、何々のほうが罪が重い、なんていうことも何も言い得ていないに等しく。
お金のことがおもしろい。
それに、ほんとうに考えなくちゃと思う、わたしだけじゃなくわたしの周りのひとたちにも考えてほしいと思う。
周りの親しいひとたちにお金の話をするとき、わたしは営業について学んでいるような気がしてくる。
みんなわりと、考えないようにしているんだろう。
だからわたしは、相手の反応が鈍かったり、あるいはまたあきらかな抵抗をしめされたりすると、自分が失敗したってことを知る。
自分が下手なプレゼンを仕掛けたんだというふうに、結果を受け取ることになる。
わたしの知り合いが、共通の知り合いに対して、並みの時給、
というよりむしろ最低時給でそれまで働いていたのを、その二倍くらいの仕事をはじめたことについて、
地道ではない仕事はダメだと評したり、するとかね。
まあ一般的にぱっと思いつくのは水商売とか。
コンビニのアルバイトは良くて、キャバクラのアルバイトは良くない、
なぜなら時給が高すぎるから、
というのは実におかしな話だ。
なんの思い込みやねんってなる。
お金をもつと堕落する、みたいなことだろうか?
そういう信念が自分を貧しい状態にとどめておくんだということに、気づく必要がある。
そもそも、自分が貧しい、ということをはっきりと自覚する必要がある。
貧しさの定義は、お金のために働いているということ。
お金がないせいで、自由がないと考えている状態のこと。
ふんだんにお金があれば、いまよりもっと多くのお金があれば、自分は豊かになれると信じていること、自分が豊かでないのはお金がないせいだと考えていること、
それが貧しい、ということだ。
1:15 2019/03/30
仕事場で、「最近仕事が楽しくない」と呟いた上司がいた。
わたしはあえてそこへは言葉を返さなかった。
自分が批判的な気持ちをその発言に対して持ったことをわかっていたからだ。
もう十年も前に、「なにか面白いことないの?」と言ってきたひとへの違和感を、あとで友人に対して吐き出していた(「何か面白いことないの?っていうひと、わたし嫌い」と言った)ことを思い出した。
「毎日が面白くないなあ、なにか面白いことないの?」とか、
「毎日の仕事が楽しくないなあ」とか、
そういうのって、馬鹿げているのを通りこして、まったく無能に思える。
おそらく何となくの軽い気持ちで、そんなふうに発言したことを、
「それは無能さのあらわれ」などとわたしから返ってくるとは相手は予想もしないだろうから、
ようするにわたしは何も言わない。
自分でも思うんだ、それってさすがにシビアだなとか、単に批判だなとか。
切って捨てるような言動は慎むべきだと思うから何も言わない。
いや、あなたじゅうぶん言っていますとかいう声も聞こえてきそうだけど。
でもここへ一つの澱が生まれる。
たしかにわたしは批判的な気持ちを抱いた。
でも批判を批判のまま表現しても、前向きなことは何も生み出せないのだと、あらためて思い知るんだよね。
仕事が、あるいは毎日が面白くないという発言って、わたしからすればだが、考えられないことで、
相手がなんでそんなふうに物事を片付けちゃうんだろうってことが、ようするに咄嗟には理解しがたい、それだけ。
自分には理解できない、ただそれだけなんだ。
つまり、咄嗟の反応ってやつはね。
わたしは最近、ヘアビューロン4D Plus「ストレートアイロン」という商品を買った。
これはほんとうにすごい。
ほんとうにサラサラ、ツヤツヤになり、わたしの軽くパサパサした髪が、しっとりと重くなる。
もう髪に何もつけたくない、素の髪が一番きれい、と思えるほどになる。
で、髪の洗い方、乾かし方にも気を遣うべきだとなおさら思い、
YouTubeでこうして洗ってこうして乾かせば髪はきれいになるよっていうのを視聴して、なるほどと納得して、
動画に対して千に近いほど寄せられているコメントを読んでみると、
ほとんど批判的なの。
いわく、38度のお湯で洗うなんて北国の冬には無理、とか、
2分の予洗い、シャンプーのち3分のすすぎ、トリートメントのちまた3分のすすぎ、なんてガス代いくらかかるの、とか、
モデルの髪質がもともと良い、もっとほんとうに傷んだひとをモデルにしてくれたらよかったのに、とか。
いや。
わたしはほとんど感動さえ覚えた、これ。
禁パチ・ブログの一ページで読んだ、かつて自分はパチンコをする理由を探し出すプロだった、という秀逸なタイトルを思い出すようだった。
ほんとうにただまっとうなこと、地道なこと、丁寧なやり方を紹介している動画が、なぜこうも八割がた批判的なコメントで埋め尽くされているのか。
それはもはや、それがまっとうだから、地道だから、というしかないのではないか、という気がした。
「それを出来ない理由」をさがすのが、皆ほんとうに得意だね。
たとえば、わたしは本をあびるように読むんだけど、それはただそうしたいからそうするだけ、
本を読むと、本が本を紹介してくれてキリがない、という感じになる。
わたしは単に衝動にかられて読み漁っているだけ、なんだけど、
家で何をしているんですかとか、趣味は何ですかとか、質問をされて、だいたい本を読んでいるかなとわたしは答える(実際には家では読むより書いている方が多い、それはもっと相手の的外れな関心を長引かせるだけと思われてわたしは言わない)、そうすると、
なかなか本は読めなくて、などと弁解するかのように言ってくるひとが必ずいる。
読みたいと思ってはいるけど、読む時間がないとか。
わたしは馬鹿みたいに、ちょっとぽかんとしてしまう。
いや、別に読みたくないなら、読まなきゃいいじゃん。
読みたいなら読むだけのことでしょ。
いったい何をいわんとしているのか、意味がわからないと思う。
これについては、いま読んでいる本「リッチ・ウーマン」で、
時間がないというのは、いまやっていることの方が重要で、新しいことをする余裕もそんな気持ちもない、
という表明、ただそれだけ、というのが当たっている。
なにごともようするに、あなたにとっての優先順位がいかにあるか、ということに尽きる。
わたしは優先順位の大切さ、あるいは妥当性について、仕事をはじめてからつくづくと実感した。
わたしはほんとうに社交的な人間ではないし、愛想もないし、どちらかといえば取りつく島もないという感じだし、照れ屋でもあるし、自分の自意識過剰について実になんとかしなければ自分がただ不便だという思いをもつほどに、ようするに器用な方ではなかったと思う。
でも、仕事、最初は学生のときのアルバイトだ、
わたしはこれまで実際のところ接客業しかしたことがない。
高校生のとき、社会の授業で、これからはサービス業がメインになるっていう教科書の文言を、まったくアルバイトもしたことがなくまるでピンときたわけでもなかったのに、いまでもなぜか覚えている。
ともかく、接客業からはじめて、いまもそうだ。
わたしが最初に学んだのは、おもしろいと夢中になったのは、いかに効率を上げるか、ということだった。
いや、効率といえばそれはまったく深く、何がそうとはとても網羅できないような何かではある。
でもともかく、効率を上げるのは楽しい、とはっきりと感じられたのは、仕事をはじめてからだった。
仕事って自分だけで好き気ままに過ごしているだけでは、思いもかけないような問題が起こる。
仕事だけじゃなくて、人生そのものもまたそうではある。
イヤでも、苦手でも、立ち向かわなければならないこと、お互いにとって決して勝ち負けではなく妥協点あるいは協力、共感、理解する点を見出さなければならない、という状況に追い込まれることがある。
これが、楽しいよね。
とわたしは思ったし、そうは思えないんだけど、というひとに、
いったいどうすれば、どう表現すれば、それも楽しい、それが楽しい、というふうに思ってもらえるだろうか、というのは、
なんだかわからないけどわたしは自分の課題あるいは、学びだというように思うよね。
だって世の中不愉快だという顔をしているひとを見ると、わたしはいまだ、自分まで不愉快な気持ちになってしまうからだ。