自分を必要以上に良く見せたいと思う気持ちは、決して裏切ることなくあなたの足を引っ張る。

 それがなんであれ「選んだ」という視点でわたしはひとの行動を捉えてしまうから、
 たとえばガンで余命宣告されるのもそうだし、性同一性障害を抱えるのもそうだし、
 たった十六歳で妊娠し、産むと決め、子どもの父親であるその彼と籍を入れようとしたら籍を入れる寸前に彼がバイク事故で亡くなってしまい区役所で籍を入れたいんだと訴えると「死んだ人とは籍は入れられないんですよ」と役所のひとに困惑しきったように言われた話なんかを聞いたときもそう。
 それがあまりに自分の琴線にふれたとき、わたしは圧倒的な思いがただ制御不能なほどあふれて、泣きそうになってしまうことがある。
 同情や哀れみじゃない。
 彼の選択したことの、物凄さにただ圧倒されてしまうんだ。

 平たくいえば、感動してしまう。

 よくそんな凄い選択ができたね、わたしは、
 ともかくわたしはそのハードル、その学び、その敢えていうならば「困難」あるいは「試練」を選びはしなかった、ということを厳粛なまでに肌身にも痛いほどにただ、思い知るんだ。

 わたしたちには選択権がある。
 もうそれは権利というよりも必然なのであり、いつでもどこでも絶え間なくなにかを選ぶしかない、しかないというより、選ぶことができる状態にある、ということだ。
 
 わたしはかつて、Aじゃなくをやりたいのだが、自分のいまいる場所ではAという選択肢しかないと宣言されたときに、はっきりと悟った。
 自分のやりたいことはだが、どうしようもないのでAとしてここに留まる、ということは、
 わたしは毎日毎日、ではなくAを自分が選び、自らの意思でそこへ出向くことをしている、ただそれだけなのだと。
 Bを選ばないということは即ちAを選ぶ、ということなのだ。
 何かしらつまり選んでいるんだよ。
 保留する、先延ばしにする、ということは現実的にはありえない、不可能なことなんだ。

 毎日毎日Bがいいと思いながらAであり続ける、いったいそこに真のメリットはあるのか。
 ないね。
 というわけで、わたしはAを辞してBをすることにした。

 仕方なしにそうしているのだ、という言い訳や解釈ほど、自分を無力さの奈落へと突き落とす行為はない。
 
 すべては自分の意思だ。
 どこかでそう肚をくくって、「否応なしに選択させられている」という意識から、「何らかの隠されたメリットがあるからこそ自分はすすんでこれを選択している」のだと、自分の意識(=選択肢)をシフトさせる必要がある。
 誰かや何かから強制的に選択させられているわけじゃない、自分が自分の都合で勝手に選択しているだけなんだと、どこかで気づく必要がある。
 それは逃げても隠れても必ずやってきて、あなたやわたしを離すことは決してない。

 そう、
 わたしはそうやって選択したBというものが、ほんとうに好きだ。 
 今日、なんでわたしはこの仕事をしているんだろう、ということが、まるで原点に立ち返るように、思い出すように腑に落ちて、場違いながらふと微笑んでしまった。
 自分のキャパシティなりに、ものすごく緊迫した場面ではあったが、そういう気持ちに思いはせる余裕が持てたことをわたしはとても喜んでいる。
 なんだか嬉しくなってしまった。

 そしてたしかに、これでなくてもいい。
 どんなものであれ、
 つまりあなたの、わたしの仕事が何であれ、
 同じような嬉しさがこみあげてくることは、きっとある。

 
 すこし、具体的にいうと、
 ようするに自分を良く見せたい、とか失敗したくない、とかいう気持ち、その緊張が、
 もう完全に裏切ることなく、自分の足を引っ張るってことを痛感したの。

 そして確かにわたしは自分の足を引っ張るそれ、を克服したいといつもかつて願っていたのを、ゆるむように思い出した、今日は良き一日なのでした。