トリイ・ヘイデン「檻のなかの子」
トリイ・ヘイデン。
面白い、じっさい、こんなに夢中になる面白さってあるだろうか、と思えるほどだ。
いまは「檻のなかの子」を読んでいる。
わたしは大雑把にかもしれないが、彼女の、トリイの言うことって要するにものすごくわかるし、主張する内容、信じている/信じたい内容を自分もどこかで確かに共有していることに、気づかざるを得ないという気持ちがある。
それは一言でいえば、他者について「わかる」なんてありえない、ということだ。
これは冷酷さじゃない。
むしろ胸を切ないほどにしめつけられて、ただ涙を流すくらいしか寄り添うことは出来ない、その厳然たる不可逆性についてだ。
昨日、ネイルサロンへ行って、何の話の流れだったか、「集合意識」について話した。
相手はなんですかそれ?という反応だった。
集合意識というのはわたしの知る限りではユングってひとが言い出した、
ユング?誰?となっているので、フロイトの弟子だったがのちに独立したひとでというと、
フロイト?誰?となる。
こういうのっておもしろいよなあ。
まさにわたしは、なんていうか、知に寄り掛かろうとしている、わけではなかったはずなのだが、
という気分を味わう。
いや、わたしは集合意識についてまったく興味が尽きないんだけど、
その集合意識って何?と聞かれるとだから、
最初に意識したのは、それが存在することの可能性に気づいたのは、
ダニエル・キイスの、多重人格者ビリー・ミリガンについての本からだった。
彼の人格の一人は、彼が触れることも接することもなかったはずのスラブ語あるいはスラブ訛りの英語を話す、という記述を読んだとき、
そんなことってどうしたらありうるんだろう?と思って実に心打たれた。
わたしがそのときに感じた直観とは、あ、やっぱり皆底の底では繋がっているんだ、という閃きにも似た強い思いだった。
そしてそれが、集合意識、というものの片鱗を感じさせるものだったのだ、わたしにとっては。
つまり、わたしにとっての集合意識とは、海面から見えている氷山の一角が個人だと思われているから皆そんなふりをしているけど、海面上から見えているものだけが個人のすべてではなく、それは切り離されたものではなく、海面下にも続きはあるんだ、ということ。
海面上に見えている個人だけが自分や他人なのではなく、意識なのではなく、海面下の地続きは氷山がそうであるようにきっとあり、それは単に水位によって遮られているだけで、本当は連なっているのだ、という感覚だ。
アインシュタインとタゴールが対談した話もした、そうしたら、それは聞いたことがある、と言われた。
自分が見ているときしか月は存在しない、とタゴールが言うと、アインシュタインは自分が見ていないときにも月はたしかに存在すると言い、タゴールは自分が見ていなくても他の誰かは月を見ているから月は存在するのだ、と言ったという話。
聞いたことがあると言われてそれでわたしはいったん落ち着くんだけど、いや、そうじゃなくてと思う。
いったい、アインシュタインとタゴールの対話を「知って」いるかはともかく、ネイリストの彼女とわたしとの間では、ほとんど何の対話も成立していないのに等しいと思って、なんだか愕然としてしまうのだ。
わたしは自分がたしかに実感できる話、あるいは喩えを、ほとんど直観に頼っているのかもしれない。
この世界で通用するようなわかりやすい言葉を決して自分は使いこなせているわけではない、ということに、
もちろんこんなことははじめてでも二回目でもなく、数えきれないほどあったのにもかかわらず、
いまだにやっぱりふと呆然としてしまう、その先を実は想定したことがなかった、っていう事態を唐突に迎えてしまうのは、
ようするに初心(うぶ)なんだなあと思う、自分が。
まっさらの、きらきらしたものを。
いわばそれは、新品の色鉛筆をいつどうしておろすか、ということをいつまでも躊躇っているような、そうした感覚だ。
2:06 2019/04/09
遺伝ときくと、すべては遺伝子の仕業でわたしたちに後天的に変え得るものはなにもない、とほとんど嬉しそうに言った友人を思い出す。
わたしはこうした話になるといつも感ずる腹立たしさを、そのときもまた意識した。
下手で生半可な知識が現状維持を強く推進する力になる構図をまざまざと、いかにも陳腐なようすで見せられているような気分になるのだった。
でもふと思う。
魂は人生のブループリントを携えてこの世へやってくるという話は、そうかもしれない、いやきっとそうなんだろうとわたしは感じている。
だとすれば、今までに起きた出来事はすべて完璧なタイミングだった、ということができる。
そして今これから先の出来事もまた完璧なタイミングで起こるのだと。
何が起こるのか予測のつかないことはいっぱいある。
ほとんどすべてそうだといって差し支えはないほどだ。
何が起こるのかはわからなくても、起こる出来事は完璧なタイミングで起きるのだということを、知っておくことはできる。
このことを知っておくメリットには実際、計り知れない底力がある。
困ったことはおきないよ、というのはまさにこのことを言っているのだし、
いかなる窮状、いかなる絶望、いかなる崖っぷちであれ、
それはいよいよ次の段階へとうつる好機が、否応なくも自分に訪れたのだと考えることを、潔いほどただ可能にしてくれる。
遺伝子っていうのも不思議なものだ。
彼女が言ったことは、実のところその通りでもある。
というふうにも思う。
彼女の直観とか仕入れてくる知識っていうのは、実に的を射ていることがある。
だが知識だけじゃだめなんだ。
つまり、得た知識をどう生かすか。
ものすごく単純すぎる喩えかもしれないけど、
嘘を吐いてはいけないと聞いて、そうなんだと納得して、
それで相手の嘘を咎めるのか、自分が嘘を吐かないようにするのか、というのは、
もう得た知識がまるで百八十度違う展開を繰り広げているのを、見せられているようなものだ。
非難するって、実に子どもじみた業だなと思う。
トリイ・ヘイデンまみれなここ数日。
「檻のなかの子」ケヴィンの物語を読了した。
わたしはこれを読み返したいと思うがあいにく、返却期限をすぎている。
しかし冷静に、というか自分の環境、自分の日常、自分のこれまで生きていた人生をふりかえって、
目の前で、義父の手によって、妹が脳漿を飛び散らせて殺される経験(しかも執拗に陰湿にいたぶり通した結果)っていうのは、凄絶すぎて言葉もない。
トリイが、ケヴィンと彼の生まれ育った家を、はじめからそう意図してではないが訪れたときの情景、
彼はこの過酷な状況を単に生きのびただけではなく、ちゃんと生きてきたのだ、と思いいたるくだりは、
実に胸を打つ。
いったい何がどうなれば、この義父のようなふるまいを自身に許すことができるのか、
あるいはまた、ただ手をつかねて傍観している母親のようなふるまいを自身に課することができるのか、
というのはわたしでは、ちょっと思いあぐねる。
業が深いというのか、人間、あまりにも人間的な、とでもいうか。
なんというか、少なくとも、わたしはこのような罪を(罪というものがあるとして)背負う覚悟があるかといえば、
ないだろうと、どこかしら無念さを抱えて思うしかない。
義父についてはケヴィンによって語られるだけだが、母親とはトリイが実際に会って喋っている。
おそらく、どちらも、そうした背景や過去を知ることがなければただそのへんにいるちょっとアレな人、あるいは単に普通の人、という印象しか受けないのだろうという予測が、わたしを圧倒的にうちのめす。
彼の義父も母親もそこらへんに普通に生息している人たちだ。
いやむしろ。
そこらへんに普通に生息している人、よりもあるいは際立ったところがある。
醜さにおいてだが。
わたしは際立ったものは好きだ。
それは自分の資質や、求めているものとは正反対かもしれないが、それだからこそ、
この眠るような現実を揺さぶってくるものがある。
ケヴィンは美しい。
彼が道中、言うんだ。
頭がおかしいほうがいいんだよと。
この気が狂ったような世界において、正常であるよりも、頭がおかしいほうがいい、ほんとうなんだよって。
これはわたしには心に突き刺さる小さな棘のように、無視しえぬもののように、わかる。わたしも彼の言うことがほんとうだって知っているんだ、と思う。
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