結婚が堕落だと思うのは、思っていたのは、わかちがたくある抵抗から。
「霧のなかの子」これは、たいへんだ。
「少女のわたしを愛したあなた」を否応もなく思い出す。
「子どものねだん」、タイで児童買春をする白人の男に、ルポライターである著者が、いったい自分のしていることをどう思っているのか?と聞くと、
取材に応じて、美しい愛の営みなんだ、子どもたちも愛で応えてくれている、子どもたちも喜んでいるんだ、と男が答えたくだりなんかも思い出す。
ここを、著者は、世の中の発するメッセージを疑問なく受け容れて決してノーと言わない男と痛烈に批判していた。
わたしにとってこうした葛藤というか、悩ましさ、不可解さというのは、枚挙にいとまがない。
わたしは結婚は堕落だと思っていた。
いまはまあ、欺瞞だというくらい。
という自分の気持ちを思い出す。
他人の結婚をあれこれ言うつもりはない。
わたしの親だって結婚しているし、いまだにしている。
いやいまだに、というのは何もほんとうは離婚してくれたらと思うわけでもない。
こういうところだよなと思う。
いろんなものが複雑に絡みついていて、
この一面を切り取って物を言う、もうそれしか出来ないんだけど、
つまり現にあるとか、現実としてそうである、ということを、自分も関わりあっていることについてを、
まるっきり他者の視点、俯瞰の視点で語ることは、たいへんな困難を伴う。
できるだけそうする、というほどのものにしかならないと思うんだ。
それを、もう、こうだ、と言い切ってしまうのはどこか、それこそ欺瞞を伴わずにはおれない。
このいのちの躍動を止めるってことはできないんだ。
欺瞞でないことなど、この世にはないのだとさえ思う。
「檻のなかの子」のケヴィンにも性的な侵害があった。
でも彼は男の子だった。
こういう局面になると、男と女とでは違うと思ってしまうのは、
男が性的な侵害を受けるっていうのは実に、イレギュラーなことで、
それだからこそなおさら受けるダメージは大きい、それも確かかもしれない、
でも女は、
つまりその境界線がどこまでもなだらかに曖昧で、どこまでがレギュラーでどこからがイレギュラーという、そんなものは要するにないっていうのが、
ちょっと途方に暮れる思いのすることがある。
どこからが被害者で、どこからはそうではないっていうガイドラインに、男の身に起きたことほどの断絶がない。
男の身に起きたことは逆転だが、女の身に起きたことは逆転ではない。
女の身に起きたことは逆転ではなくどこかなだらかに連綿と続くもの。
もちろんこんなことは、男と女に分けるとすればということほどにすぎないが。
でも敢えて分けるとすれば、分断すれば歩み寄りようもない、この蔓延するルサンチマン。
女性が虐げられてきた、というと、そんなことはないっていう女性からの声はもちろんあがる。
わたしだって、こぞってあげるだろう。
そう、つまり、こういうことを言ったひとがいる。
セックスとはすべてレイプだと。
こういうのはいわば、
言葉を失う。
ほんとうだし、ほんとうではない。
また、「彼が人間として安らかに眠るようにこの生を生きているときに、揺り起こすべき正当な理由などあるだろうか」という言葉をも思い出すようだ。
わたしが結婚を堕落だと思うのは、
いわばそれは、約束事の中に生きるのはほんとうの生ではないと感じるからだ。
こんなことはもちろん負の面を見ているのにすぎないんだ。
結婚をしていても生の躍動は要するに止まることなどほんとうにはありえない。
ただ、結婚という枠組みの中においては、この儚くも折れやすいわたしの性情をどこまで持ってゆけるかわからない、という自分自身の危惧がある。
わたしの危惧は、杞憂などではなくほんとうに脅威ですらある。
わたしがほんとうに失いたくないものは、制度の中に生きられない自分ではなくて、制度の中にあって死に絶えてしまう自分だ。
そう、結婚って制度なんだな、わたしには。
それは決してロマンチックなものばかりではない。
いったい、ロマンチックなものっていうのは、まったく制度とは相反するものだ。
たしかに結婚は法的なものだし制度といえばそうだけど、そんなものを無視し、越えてわたしはただ純粋にこのひとと一緒に生涯を過ごしていきたい(だから結婚したい)という、こういう気持ちになることがまずない。
つまりロマンチストなんだろうな。
制度の介入を一ミリも無視できないほどに。
わたしにとって誰かを愛するということは、二人以外の誰の、何の介入も必要ではない。
いまたしかにこの人と結びつきたいと思った、それからも時は続く。
二人はどこまでいっても別々な人間なのだから、どこかで袂を分かつこともありうる。
むしろそれは自然なことだ。
それは自然なことであって、不自然なことではない。
制度は時を止める。
昨日決定した、一昨日決定した、というようなことにすぎない。
どこかでそれはインシュランスに変貌しうるものにしかならない。
そしてわたしはインシュランスって嫌いなの。
わたしはわたしのまわりに自分とは相反するものばかりを置く。
それがなぜかってことはわかっている。
つまりいまだわたしは知りたがっている。
いまだわたしは鍛えたがっている、自分が真に望むものについて。
それに、なんていうか、わたしは特定の誰かと。
この星の数ほどもいるひとの中から自分にとっての特別を見出すことによる、わざわざ可能性、可変性を狭める意味が、メリットがどこにほんとうらしくあるのか、いまだにやっぱりわからない。
わからないんだけど、わからないから、ふと思い出したように、なんで結婚しているの?したいと思うの?って聞いちゃうことがある。
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