頭の上を走るシーツの線を伸ばしてね。

 求めよ。
 さればこそ与えられるであろう。

 諦めてはならない。
 
 諦めるのなら今すぐリセットボタンを押しな。
 これ以上生き永らえていても無駄だから。
 先延ばしなどほんとうはできないのだから。

 そしてこれだけは言いたいのだが、リセットボタンを押したところですべてを無に帰することってできないよ。

 こうした雛形は、死なないまでも、現に生きていても随所に見ようとすれば見られることにすぎない。

 つまり、ゲームをしていてリセットボタンを押せばマリオは消える、でもリセットボタンを押したあなたは消えない、ということ。

 こうしたことを決して現実を処するための棚上げや先延ばしではなく、本能的に直観的に知っているひとがいる。
 わたしはこういうひととは、簡単に波長を合わせることができる。
 ものすごく他愛のないこと、咄嗟に起きたおかしさについてしか話さない、話さないし笑わないのだけど、それでも、
 とにかくこれが正しい、ここに歪みはないってことは、感じる。

 弾け飛ぶようなおかしさとか、咄嗟の強烈な笑いって、ある意味歪みをリセットするね。
 わたしは大好きだ。
 罪などというものはない、ということを脊髄を通すように実感させてくれる。

 肯定的側面についてのノートを作るといいと言ったのはエイブラハムだ。
 ほんとうに、そうだなあって思うの。
 あなたの受け取るストレスが強ければ強いほど、それについての否定的側面ではなく、肯定的側面をあぶりだすんだ。
 それはおそらく、そもそも良いと思っているものについて今さらながら良い面、肯定的な面を間延びした精神で描き出すよりももっと劇的な変化をあなたにもたらす。

 良薬は口に苦し、なんだよ。

 ビタミンCの顆粒を飲みやすいからという理由で安心しきって飲むより、自分にとって苦い薬を思い切って飲んでみる。

 大丈夫、そう簡単には死なないし、死んだところでなんてことはないんだから。
 ほんとうに、ほんとうに大丈夫なんだから。

 死んだところでなんてことはない、
 これは先延ばしにしたところでなんてことはないって言っているんじゃない。
 死んだところで、いま先延ばしにしたことはいつまでも、いつまでたっても、先延ばしにできるものではない。
 死んだところでやっぱり気になってしまうと思うんだよ。
 死ぬほどこれが嫌と思うなら思うほどに、なおさら。

 だから、自殺っていうのは究極の先延ばしだなと思うんだ。
 死ねばいいんだろう、精算できるんだろう、と言っているように聞こえる。
 
 ううん、死んだって何もよくはならない、何も精算などできない、

 それは決して不可能な「先延ばし」という幻想を死んでなお引きずっているのにすぎない。
 世界、あなたが認知しうる世界とは要するに、あなたが描き出したもの、あなたが受け取ったものというほどにすぎないのだから。

 それほどまでに、死ぬっていうのはなんでもないことだ。
 書き間違えたメモをくしゃっと丸めて捨てるようなもの、それほどまでに何でもないものにすぎないんだ。
 あなたはすぐさま、本来書こうとしたものを、あらたなメモに書き直すまでのことだ。
 
 死ぬことを、くたばったと表現するのって、素敵ですねと言ったのは、エイブラハムだったかなあ。
 わたしはそれを読んであまりにも嬉しくなって、おかしく感じて、笑ってしまった。
 わたしたちは、くたばるってことを諸手を挙げて歓迎します、お祝いしますって彼ら、言うの。
  
 そっか。
 なんでもないことなんだよなあ、と思った。
 
 いや、わたしは死にたいと思ったことは残念ながらというか、幸福なことにか、わからないけど、ないんだ。
 そんな急がなくたって死ぬんだからさ。
 でも、思いもかけず死ぬってことをほんとうに恐れた経験だけはある。

 それは、現に死に直面したからじゃなくて、なんていうか、想像による死について、
 子どもの頃にふと、死んだらいったいどうなるんだろう?となんでもないところから想像したことによって、
 もたらされた恐怖として。


 死ねばどうなるんだろうと考えることさえ死ねば考えられなくなるとすれば、まったく掴みどころのない恐怖に襲われてしまう。
 考えるってことが、あるいは意識が、自分なんだって知っていた。

 うん、だからある面すごく、説得力に欠けるといえば欠けるんだよね。

 そう、わたしってほんとにチキンなところがあるの。

 そうまで追い詰められるっていうのは、いやだなあ、と思ってしまうところがある。

 わたしの家の本棚には「ヒロシマ」の地獄絵図な絵本よりも、ディック・ブルーナの絵本を置きたい。
 実際にあるのは、フェリックス・ホフマンの画集、クマのプーさんの絵本だが。
  
 そう、それで思い出した、わたしは幼稚園、保育所にいたころ、
 戦争時の空襲を題材にした、セピア色の紙芝居を保母さんから読み聞かされて、怖くて悲しくて苦しくてたまらなくなって、
 明日もあの続きを聞かせられるのなら、そこへ行きたくない、と親に、母親に思い切って断固として、訴えた覚えがある。
 普段、ほんとうにそんなこと言わないんだよ。
 わたしはただ起きることに関して、そんなの嫌だってわざわざ声をあげることってほんとうにあんまりないんだ。
 だからこそ、覚えている。
 
 つまりそれほど、

 なんていうか気持ちを暗くさせるもの、不安にさせるものが、ただ怖くて悲しくて嫌いだった。

 
3:47 2019/04/14
 思い出した。
「ラー文書」でわたしが一番心に残っているのは、
 ラーが、横たわっている媒体(イタコ的な)の頭の上を走るシーツの皺を伸ばしてください、というところ。

 なんだよそりゃ?と思わず突っ込んじゃう。
 でもなんだか、わかる。

 ちょっとバランス悪いとか、ちょっとしたことなのにそれがまあまあ全体や、あるいは細部を阻害するっていう感覚はわかる。
 
 なんだろう。
 絵を描いているような感覚かもしれない。

 掃除とか、整頓とかしていると、しまいにはほんのちょっとしたことが、すごく気になってしまう。
 というのにも似ている。
 キリがないほど最善を求めてしまうような感覚。
 完成に向けた一ミリずつの達成感。

「完成させないで」という宇多田ヒカルの「光」にある歌詞を思い出すようだ。

 完成させないで。
 もっとよくして。
 ワンシーンずつ撮って、いけばいいから。

 

 いやこれはある意味究極の先延ばしだし、実際のところ、そうではない。

 

 こういうことはわたしも普段とても、

 ジレンマを感じているのかもしれない。