神との対話。エルサレムのアイヒマン。感謝は神をあやつる手段ではない。
「感謝は神をあやつる手段ではない」
いいですね、とてもいい。
わたしの心は嬉しさに踊った。
「啓示を求めると言えば、神が見えないという経験をするだろう」
これらは「神との対話」の序盤にでてくる言葉だ。
神との対話の③が、父親の本棚にあった。
③だけだった。
神との対話?なんだそりゃ?わたしの目は一瞬、釘付けになり、それた。
そういうことを何度か繰り返した挙句のある日、わたしはついにそれを手に取った。
もう7,8年も前だ。
わたしはその後、①と②を買い求めて読んだ。
で、どういう内容なの?と言われたら克明に覚えていることはあまりない。
でもすごくおもしろくて、わくわくした。
なるほど、とかそのとおりだ、と嬉しくなるような内容だったということしか実際あまり覚えてはいない。
友人の一人に本をあげたら、こういう独り言っぽいのは苦手でといわれた。
うーん、独り言なあ、と思った。
しかし、いま思うに、独り言が苦手というのは由々しき事態ともいえるのではないだろうか。
いわば、こうしてわたしがいま書いているようなことだって、独り言といえば独り言なわけで、
自分の思考あるいはまたインスピレーションに基づいた創造を表現する、
これは。
なんていうか、
そもそも全部そんなこといえば独り言じゃん、というか。
むしろそうではないことなどあるのか。ないよね。
もちろん人間相手に直接的な対話をしているときには絶えず相手の反応に遮られる、軌道修正を促されるという慌ただしさというか、臨場感はあるけれども、
そのもとをたどれば、独り言に端を発しないものはない。
ここを、ある、と言える根拠とは要するに、「他者は存在する」というのに等しい。
いや、他者は存在する、といえばする。
っていうか、そういうことになっている。
でもさ。
そういえば今日一気に読んでしまった「人生の99.9%の問題は、筋トレで解決できる!」という本はすばらしかった。
もうその、イラストを含め、読みやすさにわたしは感銘を受けた。
読みやすい。
というのは、わたしからすればものすごく価値のあることだ。
ひたすら感心しているうちに読み終わってしまった。
これはそもそも、最近やっぱ筋トレかな、と思って筋トレをはじめた自分を鼓舞するために読もうと思ったのだが、筋トレについてよりもむしろ、読みやすさというものの持つすばらしさに鼓舞された。
やっぱ筋トレよね、ならぬ、やっぱ読みやすさよね、という。
ついで、思い出すのは、「生かされて。」だ。
これはルワンダにおけるジェノサイド(大虐殺)を経験した女性が書いた本でわたしは実に引き込まれてしまった。
印象的というか、忘れられないのは、狭いトイレに十人近くの女性たちが折り重なるように閉じこもって殺戮者たちをやり過ごしている間、それは何週間という期間にも及ぶのだが、
トイレの窓越しに、鳥のさえずりが聴こえる、というシーン。
わたしも鳥だったならば、と切実に彼女は思う。
この気持ちが、ものすごく骨身に迫るように共感できる。
いや、それは、わかるわ、と思った。
鳥だって外敵のない世界に住んでいるわけではないが、
朝となれば鳥のさえずりが、まるで自分たちの置かれたいまの血腥く絶望的な環境など何の影響も及ぼすことなく、変わりなく聴こえてくることに対して、つい覚える圧倒的な揺さぶり、希求というものは、
なぜだか想像に難くはない。
そしてもう一つ印象的というか、考えさせられたのは、
そのトイレの中に隠れて過ごす間に、彼女にマリアの啓示が訪れたこと。
ここが、キリスト教を信仰していない日本人にはわかりにくい、共感しづらいこととして、レビューにあげているひともいた。
うん、まあそうかもね。そうだよね。
でもわたしは、キリスト教どころか何の宗教に対しても信仰はないが、
ここを帰依する宗教の有る無しという壁で遮らせてしまうのは実にもったいないなと感じる。
いや、わかりますよ、わたしたちは、
現代を生きるほとんどの日本人は、宗教における信仰心などというものとは無縁だ。
それが悪いわけじゃない。
むしろそれがいい、とさえ思う。
わたしたちは少なくともそういった衣を脱ぎ捨てるまでのことは、できているのだ。
でもところが、宗教(組織)に関してはほとんどアレルギーさえあるようなわたしたちではあるが、
宗教以外のなにかしらは、やっぱり信じている。
それはたとえば、いまさらあるだろうかと思えることだが学歴とか。
いや、これは本当になんでもいい。
どんなことでもいいが、なにも信じていないひとはいない。
地球は丸いとか、死ねば無になるとか、あるいは無にならないとか、そういうことでもいいんだ。
1+1=2であるとか、そういうことでもいい。
女の、男もでもいいが、幸せとは結婚よねとか。たとえばね。
もちろん結婚が幸せをもたらすものであることに越したことはない。
そして仮にだが不幸な結婚をしているならばそれを、自分の感覚を麻痺させてまで継続させる必要はないんだ。
ともかく、「生かされて。」の彼女はマリアの啓示を受けた。
それまでに聖書を読みこむ彼女がどうしても受け容れ得ぬ箇所があった、汝の敵を愛せというところだ。
主よ、わたしの愛する母を、父を、兄弟を、殺そうとしている(すでに殺しているかもしれない)敵を、どうやって愛することができるのですか。と不安、憎悪によって悶え苦しむ。
葛藤のすえ、不意に雷に打たれたかのように、自分の親兄弟を殺す彼らとて神の子なのだ、と彼女は悟る。
彼ら、殺戮者たちは自分が何をしているのかをただただ知らない、わたしたちがそうであるように、彼らもまた同じく神の子どもたちなのだということに気づく。
ほんとうに、わたしたちがゴキブリを迷いなく殺すようにただ、彼らもかつての隣人の足を切り落とし目を抉り出しているのにすぎないのだと。
彼らはいったい自分が何をしているのか、ということを知らないでいるだけ。
それは肌という肌が慄立つようなぞっとする感覚ではあるが。
それでいうと、借りてきたがまだ読んでいない本で、「エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」というタイトルを思い出すよう。
同じことなんだよ。
ナチスの官僚であったアイヒマンはただ、それが仕事だから、それが自分に与えられた役目だと信じて、それをした、ただのそれだけだ、決して思考することはなく。
思考は独り言だ。
求められたから応じた、というのは単になんていうか、ロボットだ。ロボットに悪い感情はないが。
ロボット、
それは独り言ではない。
それは思考ではない。
それは創造的ではない。
ロボット、いわばそれは、揺らぎではない。
もうひとつ思い出すのは、エイブラハムの本の質疑応答で、
息子を伴って再婚した女性が、息子と夫(息子からすれば義父)が対立してしまってわたしはどうすればいいのかわからないのですが、というもの。
エイブラハム曰く、
あなたは二人の主に仕えることはできない。
これは聖書にもある言葉。
男であれ女であれ、子どもであれ大人であれ、わたしたちは、二人の主に仕えるということはできない。
わたしたちはわたしたち自身という主のほかに仕えるべきものなどない。
わたしたちは本来誰にもあやつられることのない存在だ。
そしてまったく同じことだが、わたしたちは本来誰をもあやつることはできない。
「感謝とは神をあやつる手段ではない」
いいよね。
GOOOOOD!
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