環境は、ただのニュートラル。
空中浮揚できるひとが提案していた修行で、
それいいな、と思ったことがある。
あなたがもし1時間なり電車通勤しているのなら、その1時間を時間つぶしのように過ごすのではなく、
たとえば車内吊りの広告の文字を使っても修養はできる、
具体的にどんな訓練だったかは忘れましたけれども。
要はどんな環境に置かれているのであれ、自分の能力をのばし、開花させることはできるのである、と言いたいのだと理解し、まったく賛成だと思った。
環境がすべてみたいな言い方をされることはよくあるが、
ひじょうに難しいところだけど、ともかくわたしはそうは思わない。
結局さ、その環境がどんなものであるかを認識するのは自分のほかを措いてはいない、ということ。
脳は自分が期待することしか拾わない、そしてその拾った現実とは、現実の1パーセントにも満たない、とハトホルさんが言っていた。
これは脳関係の本あるいは引き寄せ関連の本あるいはまた自己啓発的な本にも頻繁に登場することだ。
期待する、というと期待なんかしていないしってなるかもしれないね。
先入観といってもいいかもしれない。
でもここはわたしは、期待する、の方がしっくりとくる。
先入観とは捉われであり、期待である。
期待ってじゃあそもそもどういうことだろうか。
こうであればいいな、こうであれば素晴らしいのに。
もっと硬直すると、
こうでなければならないのに、こうであるべきなのに、という気持ち。
これだってつまるところ、期待なんだと思うのです。
期待っていうと、ちょっとふわふわした、実現可能か不可能かは棚上げするようなニュアンスもあるが、
それの行き過ぎた感じとして、硬直した、
いわば過度な期待というのは、
それ以外は認めない、それ以外は誤りであり過ち(過ちって過ぎたることだね)であるという、ぜえったいにそうっていう決めつけにも発展しうるよね。
ここは相手を従わせるとか支配するとかではなく、むしろ追い詰められた感じとして、絶対そうなんだからって思ってしまうこともある。
むしろ、従わなきゃならない、という感じとして。
面倒くさくなったわけじゃないが一言でいうと、そんなこと、従わなきゃならないなんてありえないんだけどね。
ここは発想を転換させて、従わなきゃならないと感じたのはそもそも自分なんだと、
もっと言えば従った方がいいメリットを見出したのは、受け取ったのは自分なんだと、もう潔く認める方が、
ただ、自由になれる。
従わなきゃならない、じゃなくて、
従いたかったんだと。
こうなると硬直がややほぐれる感じがある。
自分を出す、のは悪いことなんかじゃない。
自分をまるで悪いもののように秘めて匿す方が、いっそ悪いってこともあるんだ。
ものすごく例えが不適切かもしれないが、
AV女優または風俗に勤めるひとがそうなったのは、なにかしらそうせざるを得ない理由があった、
親の借金を返すとかですね、
大義名分があると、なんだかほっとするというか、それならばやむを得ないとかむしろ同情するとか、そういう気持ちになること、が
あるとしましょうや。
いや、わたしはこれが好きだからこの仕事をしているの、と本人から言われると、なんだか居心地の悪い思いがする、というようなことが、
あるとしましょうよ。
こういうのって、その居心地の悪いような、あるいはそんなの嘘だろうと思う人自身の羞恥心が元にあると、
わたしは思う。
自分がそうしたいからそうした、だって?嘘に決まっている。
とかいう動揺。あるいは猜疑心。
もう率直にいって、あなたならば決してしない選択であり、
決して「自分が望んだ」とは受け入れられないこと、というただのそれだけだとわたしは思う。
羞恥心というのは、罪悪感にも似て実に不思議なものだなあと思う。
自分がそうしたいからそうしたの、というのは、
赤いシャツより白いシャツの方が好きなの、とかなら皆ためらわずに言えるんだ。
つまり、どっちでもいいというか、そうまで他人に受け入れがたいと思わせない選択ならば、
自分の意思でそうした、ということは表明しやすいんだよね。
もっと不適切かもしれないが例えば病気とかね。
なりたくてなったわけじゃない、と言うよね。
なりたくてなったんだ、というのって、
なんだか、とんでもないんだな。
とんでもなく不謹慎というか。
とんでもなく共感されないというか。
もちろんそんなふうにまで、
言いたいことを実は言えないでいる、というほど誰しも自覚があるかないかといえば、
たいていはない。
自覚があるのならもう問題の、それが問題としてだが、九割は片付いているんだよね。
本当に問題なのは、
「それは自分の望んだことではない」
という受け止め方にある。
もう何が問題かって、
そんな不自由なことってないじゃん。
それがたとえ、不治の病なのだとしてもね。
いつまでもこんなはずじゃなかった、
こんなこと望んでなどいなかった、
取り返しのつかないことが起きてしまったなんて、
受け容れがたさに硬直していても、進展はない。
受け容れてごらん。
開き直りでもいいんだ。
自暴自棄でもいっそ構わないんだよ。
ともかく自分のおかれた状況を、毒をあおる気持ちでのみこんでみるの。
すぐには死なないし、
死んだところでなんてことはない。
本当だ。
嘘だ、というなら、死んでごらん。
さ、思い切って死んでしまえばいい。
わたしは死なないよ。
一応三百歳までは生きようと思っているの。
生きられないなどというわけがあるか、と思っている。
わたしだけじゃなくて、あなたも。
それに何も死ぬこたあない、というのがわたしの信条でもある。
死ぬ勇気まではない?
もし本当に死ぬ勇気というのが最大の勇気ならば、生きぬく勇気なんて、たかが知れているとも言えるよね。
あなたの置かれた環境を天国にも地獄にもするのは、あなた以外の誰でもない。
このことをまず、のみこんでごらん。
なにも天国がよくて地獄は悪いなんて言うつもりはない。
どっちだって構いやしない。
どうだっていいよ、そんなの。
肝心なことは、あなたが天国にいるか地獄にいるかじゃない、
そのいずれにせよ「あなたが選んだ」
という意識の自覚があるかないか、
それだけ。
あなたは何だって選べるんだ。
今この瞬間。