持たなきゃ失うこともない。
恋さえ追い風にしようとしている。
努力する必要はありません、というのはわかる。
でもここは前後の文脈というか、語彙のもつ限界が混乱させるものだという気がする。
つまり、努力が悪いわけじゃない。
それを、努力と呼ぶとして、だが。
と、いうようなね。
ここには重力がある。
ということだと、おもう。
重力から完全に自由になっちゃったら地球から飛び出てしまうよね。知らんけど。
そういうことだとしましょうや。
地球にいるという選択をするのなら、重力の影響は浴びざるを得ない。
そしてたしかに重力が悪者だなどということは、できないよね。
存在する、ということが、いわばもうそれだけで、重力との関係を断つというようなわけにはいかないのだし、
日焼けしたくないから太陽が嫌いだって言ったって太陽なかったら死んじゃうじゃんというか。
重力もそれと同じで、それはもうあるんだから、それをいかに自分のなかに取り込むか、どう活用するか、ということなんだとおもう。
感情なんてなくなってしまえばいい、と言ったひとがいる。
わたしは、ちょっと言葉を失ってしまった。
いや。
えっ?いや。
苦しい思いはしたくない、悲しい思いはしたくない、それはわかる。
でも、感情がなくなればそれらもなくなる、というのは、まあ、なんだろう、違いますやん。
感情って単に副産物だ。
財布を落として笑っているひともいれば泣くひともいれば、怒るひともいるわけで。
なぜそうした違いが出てくるかといえば、起きたその物事を自分がどう受け取っているか、
そしてどう受け取るのか、ということは、自分自身がコントロールできることだ、本来は。
あなたの思考は、あなたのものではない、というのも、わかる。
つまり、不幸なひとは他人の人生を生きようとしている。
という言い方もできる。
あなたが自分の考えたことだと思っている内容とは実際のところ、他人が考えたことをミラーニューロンのふるまいで、自分の考えのように思い込んでしまっているのだ。
という言い方もできよう。
目に見えないネットワークはたしかにある。
水の例えは、わかりやすくて好き。
水は、気体、液体、固体になる。
液体までは目に見えるが、気体になっちゃうと目には見えない。
目に見えないからそれは無いと思うのは実際のところ、短絡的にすぎる。
感情も、目には見えないが、実感としては「目に見える」といっていいほど、確かなものだ。
でも、もっと見えにくいものがある。
それが受け取り方であり、考え方であり、信念体系のようなもの。
感情は結果だ。
感情に先立つものがある。
財布を落としたら最悪だ、と思っていたら、財布を落とせば最悪だ、となる。
でも財布を落とすこと自体はニュートラルで、最悪でも最高でもべつにない。
えっでも財布を落としたら最悪じゃん、とかいう堂々巡りはやめましょ、というか、やめな。
人生万事塞翁が馬。
あなたは種をまいた。
種をまくってことはなかなか目には見えない。
それでそんなことはなかったことにしてしまっている。
なかったことにしてしまっている、というとまるで意図的だが、
そう、たしかに意図さえもない。
その意図を自覚的にするってことはなかなか相当できない。
別にそれはできなくてもいいの。
そこは気にするな。
肝心なのは、種をまいたってこと。
種をまけるのだと「知る」ってこと。
自分には種をまく能力があるという可能性を知ることだ。
実感できなくてもいい。
で、種をまいたからには芽が出て、花が咲き実がなる。
自分にも他人にも「目に見える」ようになるのは、花が咲いたころ。
でもそれ以前のことがある。
財布を落としたのも結果なら、それに伴う感情はもっとあとの結果なの。
感情なんてなくなればいい、というのは、財布なんて最初からなければよかった、というようなもの。
いや、財布があるってこと自体が悪いわけじゃないだろってこと。
でも、わたくしにもある。
わたしは鍵をなくして家に入れないということほど馬鹿馬鹿しいことはないと思っていて、鍵をそもそもかけないし、持たない。
これはどこか、お金を持つことにも似ている気がする。
持たなきゃ失うこともない。
じゃあそもそも持たなきゃいいじゃん。
さあ、どうだろうな、そこは。