不自由さは自分が作った檻。鍵を持っているのは自分だけ。
女3人で韓国へ。
関西空港で待ち合わせをしたが、わたしは日根野駅で切り離された車輌の、関空行きではなく和歌山行きへ乗ったまま、通り過ぎてしまい引き返すはめになるし、(なんとか間に合いました、ホントすいません)
もう一人の子は、
「両親が空港へ来ていて行けなくなりました」
とか、わけのわからないことをいう。
両親が来ていて?何それ、お見送り?
「いえ、来ないでって言っていたのに勝手に来るんです、前にもあったんです、それでもう頭にきて、じゃあもう行かないってなって。」
いやあ、わからん。
わかるけどわからん、いやわからん。
「普通それだけ、こっちが嫌がっていることをします?
頭に来ないですか?」
この「普通」ってのが実に厄介ですよね。
わたしの普通はあなたの普通ではないし逆もまたそう。
でもたしかに、重なる、共感できることはある。
たとえば、家のポストに鳩の死骸とか放り込まれていたら誰だって不気味だし怖いし気分が悪いってなる、
まあそうだよね。
こういう例えを出せばたしかにそこをマイナスからプラスへと切り替えるのは、なかなか大変なことだよなあと思う。
でもたぶん、そこじゃない。
大変なんだからマイナスに受け取ってしまってもしょうがないよね、という話じゃないはずなんだよ。
自分の力だけじゃどうにもできないことがあるんだと強調するような側面に、光を当てるメリット/デメリットを考えてみる。
というか、自分の力だけではどうにもならないことを、どうにもならないって嘆くんじゃなくて、腹を立てるんじゃなくて、ともかくそうなんだと受け容れる。
そして、ならば自分の力だけで変えられることは何だろう、自分がこの困難な局面において変えられることは何があるんだろうって、
そっちに意識を向ける。
たしかに、どうにもならないことについて、どうにもならないことを拒みながらいつまでも何とかならないものだろうか、
といつか天気が変わるのを待つように悶々とジリジリ待っていても、足掻いても、まあなんだろう、気の長い話だよね、それってともかく。
もちろん、あなたが、彼が、彼女が、それでいいなら、まったくそれでもいいんだ。
それでもいいんです。
実際、時は決して止まらない。
変わらないものは何もない。
他人たとえば親の、行動をあなたがコントロールすることはできない。
あなたにコントロールできるのは、親の行動によってあなたが抱きうる感情をも含めた、受け取り方だけ。
わたしがあれこれ他人の心情を予測しても意味がない。
少なくとも他人にとって意味あるものにすることはできない。
わたしにとっては意義あることかもしれないが。
言葉では言い表せないものがいまだある。
それはいつまで待とうとも、どう言葉がけしようとも結局、彼女が彼女自身の言葉で表現する時がこなければ、まったく意味をなさないんだ。
言葉尻をつかまえれば、いつだって空回りの遠回りをするだけ。
面白いよなあとそれこそ他人事だけに思う。まるで、
なんていうか、自作自演じゃないかと、
枠の外から見ればそう見えるんだ。
「だって腹が立ちませんか?
わたしはそれをされるのは絶対に嫌だってあれほど断ったのに、こっちの意向をまるで蔑ろにして、いったいどういうつもりなんだって思いません?」
いや思わない。
多少は咄嗟には思うよそれは。でもケツから言えばまあ、思わない。
腹が立つだけ損、というか無益だと思う。
あなたに変えられるのは自分だけ、相手の行動を変えることはできない。
「えええ、そうですか?
わたしは気になっちゃう。」
この途切れることなく、ふりだしへと戻るメビウスの輪ときたら!:-/
この輪は、自分自身の手によってしか決して断ち切ることはできない。
足掻くのもいい。
足掻いただけ、苦しみを知っただけ、
同じように苦しんでいるひとに寄り添うことができるからね。
そうした価値だけはある。
そうした価値だけがある。
でも寄り添って共倒れしないということには実際たいへんな技倆がいる。
相当な器量がいる。
あなたにそんな覚悟があるのなら、明かりの見えない絶望にも希望を見出すことはできる、きっと。
覚悟さえあれば、つまり何があっても自分は希望しか見ないんだと思い決めているのならば。
そうではないのなら、やめときな。
他人の、それが例え親であれ面倒を看るより前に自分の埃を払った方がいい。
他人に対する心配/配慮を口実にして自分自身から目をそらすのは、うまくない、不味い。食えない。