その残骸は彼ではない。

表現することがすべて。

といっても、言いたいことは全部言え、というようなこととは限らず。

もちろんそれでもいいんだけど、

つまり、

 


思いをいかに伝えうるか。ということ以前に、思いそのものをいかに形作るか。

 


もっと根掘り葉掘りいきたい。

 


いきたいんだけど、要は表現がすべて。

 


知っているだけじゃだめ。

 


知っているというだけでは。

 


知っていることをいかに表現するか、昇華するか。

なんだって循環するようにできている。

 


自分のところに溜め込んでおいてもそれは遅かれ早かれ腐って朽ちる、

もちろんそれさえも循環はする。

ともかく、溜め込んだままに永遠に置いておける、ということはない。

置いておけない、それらはいずれ畢竟、循環しはじめる、

あなたの意図に反して、むしろあなたが意図しないうちに、あなたの手を離れて、循環しはじめる。

 


ある日蓋を開けるとそこにはもはや、まだ今はあるというだけの残骸しか、形を留めては、いない。

 


そうしてやっと遅まきに後悔するくらいならば、

それらが残骸となる前に、自らの意図によって生き生きと循環させたかった。

 


まだあるという残骸にふと気づくくらいなら、それが跡形もなくなるまで忘れている方が、そして思い出しもしない方が、いっそ話は簡単だった。

 


残骸に憐憫はいらない。ふさわしくない。

残骸に対して謝罪はいらない、後悔はいらない。似つかわしくない。

残骸はもはやあなたのものではない、あなたの手から放たれて、もう随分たっていた。

 


焦って嘆いて引き止めるような真似はしないことだ。

相手はきっと引き止められやしないのだから。

 


足掻くように引き止める、相手を勝手に憐れんで引き止めてあげるなんていう尊大さは、

二度手間、三度手間、とにかく空回り、いわば無駄。

あるいは鏡の中の自分を自分だと思い込むような、途方もない無為さ。

水に映ったあなたはあなたじゃない、

鏡に映ったあなたはあなたじゃない、

あなたはそっちにはいない、ここにいる。

 


そこにいるはずだと思っていたものが残骸へと化していたときには、

あっしまった、そうか、ごめんね、別れを言えてよかった、ありがとう、またいつかね、と言って気持ちよくお別れするの。

 


死体を揺さぶっても彼の魂は戻らない。

彼は死体ではないからだ。