youtubeにエキサイト。

 最近youtuberなわたし。
 もっぱら観るほうで。

 わりと自分があびる情報量ってすごい多いと思っていて、TVは観ないんだけども、
 観ないわりに、まあまあの量の情報をあびる
 その中で、あれ?真逆のことを「良い」と言ってるなあと気づくこととかある。
 戸惑うことがある。
 どっちなんだろう?ってなりますよね。

 これは、
 結局のところ自分の感覚を磨くほかは解消できない戸惑いです。
 わたしには良いけどあなたには悪い、ということがまあ、もう、なんだろうキリはないほど本当にたくさんあるよね。
 ほどほど良い、とか、まあなんか知らないけど良さげ、とか、そういうんじゃなくて、
 自分がものすごく良いと思った=感動したというレベル、
 感動ってすごいエネルギーなのよ。
 感動するくらい良いと思った情報を、鵜呑みにしろとまで言わないがともかく、否定はしないこと。

 だいたい感動って瞬間的にやってくる。
 で、よくよく考えれば、待てよでも、とこういう思考をしているときって、
 他人の思考目線で考えているんだよ。
 言い換えれば、これって自分は良くても他人から果たして受け容れられるんだろうか?という検討をはじめている。

 こういうのは本当に不思議で、

 ふいにいま思い出したのが、「暴君マインドになればお金も恋も思うがまま」みたいなタイトルの本で、
 これは、わたしには良かったですし、身近な女の人には薦めたいなあと感動した内容だった。
 男と女って、
 わたしは、そもそもそれ以前に人間だからと思っていたし、いまももちろん思っているんだけど、
 でもなんていうか、これを利用しない手はないというか、
 
 たとえば「親の七光りも利用できないなんて(by斎藤一人)」というのにも似ている。
 男も女も人間って、そりゃ人間っていう抽象度の方が高いのは間違いないんだけど、
 でもじゃあ抽象度を下げて、自分が女か男かって、
 そういう要素を活かすことだって、それはもう楽しいからアリ、面白いからアリなんだと思う。
 わたしはやっぱり化粧って好きなんです。
 それはいわば、絵を描くように好き。
 
 絵にももちろん色々あるし、化粧にも色々ある。
 嫌いな絵もあれば嫌いな化粧もある。
 でも好きな絵もあれば好きな化粧もある。
 だから、化粧一つ取ったって、
 なにも人の目にどう映るだろうってことを後ろ向きに考える必要はないというか。

 後ろ向きにっていうのは、自分の化粧は他人の評価からして何点取れるんだろうっていう、
 自分の好き・嫌いから離れてしまうようなスタンス、やり方っていうのは、
 それ自体が要するに自分自身のスタイルを愛すること、からは確実に減点行為だ。

 男・女という分け隔てより、人間の方が抽象度は高い。
 これはまるで、地球には重力が地球なりに働いているけど、月だったら地球と同じような重力じゃない、
 でもいまわたしたちがいるのは月じゃなくて地球だよねっていう、
 
 もちろん月の重力に惹かれながら地球に生きるひとがいることだってアリだし、それはそれで素晴らしいって思っている。
 男に生まれたけど女になりたいんだっていう人には、逆でもさ、わたしは、全員に対してではないが尊敬の念を覚える。
  
 だから向き不向きというか、
 そこじゃないカルマってのが皆、ちがうと思うの。

 わたしは実際、「女だけど男」って人とも暮らしたけど、
 つくづくつき合うにつれ、次第に飽きてきて、
 どっちだっていいじゃんってのが自分の本音だと気づいた。
 あるいはまた、わたしは自分が女で不足はないやってことにも、気づいた。
 わたしは、身体が女ならともかくもう女でいい。
 そこにいわばカルマというか、こだわりというか、クリアすべきものはない。
 あたりまえだが、そしてもちろん、だから皆こだわるなよって話でもない。

 わたしとしては、ホントそこ、どうでもいいってことに気づいた。
 どうでもいいと常々思っていたけど、やっぱりどうでもいいってことに気づかせてくれた経験をした。

 以前はよく行った居酒屋で昨日、常連の客と、
 わたしが保証人になった話なんかをしていて、男と女の関係になったからなのか、と聞かれ、
 そういうのじゃないって、
 わたしは、
 だから男とか女とかそういうのはどうでもいいと思っていた。
 セックスしたかしていないか、それも超どうでもいい。
 握手したことがあるかないか、目を見交わしたことがあるかないか、あるいは職場で一緒になったことがあるかないか、電車で一緒になったことがあるかないか、
 という程度のものと要するに変わりはしないと思っている。

 もちろん握手したことがあるか、目を見交わしたことがあるか、道端でばったり出会ったことがあったかどうか、セックスしたことがあるか、
 ということは、「なにもない」ことに比べれば「なにかはある」それは確かだし、
 単にそれだけのことだ。

 わたしは目が合うこともセックスをすることも同じだって思っている。

 単に目が合うひとのほうが遥かに数は多いかもしれないけど、そんな多寡はただただ関係がない。

 どうでもいいんだよ。


 で、戻ると、
 わたしは皆自分のしたいことをすれば世の中がよく回る、と思っていたけれど、
 それってもしかすると、自分が「女」だったからなのかな、と
 いう視点を提案してくれたところが、前掲の本の良かった点。

 わたしは女のひとと話をするし、したいんだよね。
 女と男とじゃどっちがわかりあえるか、といえばそりゃ女だろと思っているの。
 それに、もしアドバイスをするのなら、
 男に対しては的外れになってしまうかもしれないが、女に対してはそうでもないんじゃないかって、
 そういうことにあらためて気づかせてくれた点でも、あの本はよかったなあと思う。

 あ、あと恋愛ね、
 わたし恋愛はできないんだ。
 パンフレットはもらったことがあるし、真似事もしたことはある。
 でも、
 できないの。
 どっかで針が降りきれてしまって、ゼロに戻っちゃう。
 そしてこのゼロが実に心地よいの。
 
 ゼロが心地よい、ということの「弊害」についてわかるひと、いるかなあ。

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