センスはプライスレス。
ドイツのブランド「KARE」という家具・インテリアのお店へはじめて行って、テンションがあがった。
ひさびさにわたしも自分が好きなものを作りたいなと欲が刺激されたというか。
そう、センスってタダなんだよな。
言い換えると、センスってプライスレス、お金では買えない。
センスの良い服、センスの良い部屋をコーディネイトしてもらうことはできるけど、
他人が良いと思うものは、自分が良いと思うものと必ずしも一致しないし、しなくて当たり前だから、
やっぱりどこかで自分のセンスを磨く必要にかられると思う。
自分のセンスはどこにも売っていない。
センスは選択。
自分の選択を信じるためには、まず自分がここちよいもの、好きなものに気づかなきゃならないんだけど、
他人が良いものじゃなくて自分が良いもの。
ここを直視するのが気はずかしかったり、内心気づいていてもそれを他人に知られるのは否定されたときに嫌だなと怖がってしまったりするのは、
こういう恐れは、まずもうなんでそれが怖いのかなって自分自身にたずねてみるしかない。
たぶん誰だって怖いんだと思う。
わたしだってすべてのことに自信満々で怖いものなどない、わけじゃないし、
もしそうなら逆に学びがない。
自分の怖さ、あるいは照れくささを見つめて乗り越えないことの何がいわば問題かって、否定されるのが怖いときに、相手の反応をコントロールしようとすることがある。
相手の自由を奪おうとすることがある。
それを悪いことをしている、という後ろめたさなしにやってしまうことがある。
いや実際には悪い・良いじゃなくて単に不可能なんだけど、だからもちろんそもそも後ろめたさを感じる必然もないんだけど。
そうね、悪いわけじゃないな。
相手がどう感じるか、どういう思いを抱くかを支配することは単に不可能なんだけど、
わりと、いや、支配できるはずだと固く信じているひとが、いるんですね。
これがさあ。
いやたぶんわたしも、頭では理解していてもどこかで無自覚に握りしめているものがあるので、それを見つけたくて他人を見ている。
まあ他人を見ていても見つからないんだけど。
一番手っ取り早いのは、わたしが思うには自分がピンチに陥ることなんだよね。
たとえば、自分より幼稚だなあとあきれてしまうような他人がおそらく誰にでもいると思うんだけど、
なんでそんなに不注意なのかとか、なんでそんなに視野が狭いのかとか、なんでこんな簡単なことができないのかとか、そういう類のこと。
これが落とし穴という名のチャンスであって、
このチャンスが見えなくて生かせないのは、ただもう自分からすればできてあたりまえなのに相手はできないと馬鹿にしたり否定するような、あるいはマシに見えるかもしれないけどもっとアレなのは、一方的に導いてやろうという、善かれと思ってどうにも傲慢な態度で接してしまうこと。
これが何となくよくない、というかぶっちゃけリーズナブルではないってことは、皆たぶん知っているんだけど、
経験してきているんだけど、
近いことってやっぱりわからないんだよな。
灯台下昏し的な。
海を隔てた遠い国の出来事なら、あるいはまたニュースになるような自分と関わりの低い事件に対してなら冷静な判断ができても、
物を盗るのはよくないとか、
人を騙すのはよくないとか、
殺しちゃだめだろ、とかですね。
自分にとって差し迫った危機ではないことだと誰でも皆、他者の危機的状況についてそれこそあきれるほど不感症になりがちで、
これはもはや、身体的制約といっても過言ではない。
まあ、エゴだな、エゴでもいいけど。
いざ自分が殺されそうになったら、殺すのはだめだけど殺されるのはいやだったから殺すのは仕方がないとか平気で意見を翻しちゃう。
いや黙って殺されろってわけじゃないけど。
そうやって他人事ならば眉をひそめながら、あきれながら、
自分では人の物を盗り、人を騙していることがある。
気づかないんだよ。
いいえ、わたしは人のものを盗んだり、人を騙したりなどしたことないよって心外なひと、
そうかもしれない、でももっと言えば、自分自身から奪っているものがあり、自分自身を騙していることには、気づかない。
他人は自分の鏡という。
これは本当で、自分があって他人がある。
自分があるから、自分を照射した他人から返ってくるものがある。
だから批判は、何も生まない。
批判的な気持ちは抱くよ、咄嗟に、おそらく誰だって。
でも批判を批判のまま腐らせておいても何も生まない。
せっかく種をまいて、芽が出て、いよいよ花が咲くという頃に、こんな花は醜いと嫌って切り捨ててしまうようなものだ。
それは自分自身から奪い、自分自身を欺くような行いだ。
つまり他人はなんであんなことをするんだろうって嫌な気持ちになったとしても、
相手を変えるべきだというのは、鏡に映った自分の姿にケチをつけて、鏡の方を変えてやろうというほどの行いでしかない。
鏡に映る自分の姿を受け容れて我慢しなさいって言ってるんじゃないんだよ。
鏡が嘘をついてるわけじゃない。
鏡が不正確に自分を映し出しているわけじゃない。
鏡に手を伸ばして映る姿を変えるのは不可能だしナンセンスだ。
他人を変える、つまり鏡に映った自分がどう見えるかを変えるのは簡単だ、
鏡に映った自分が愕然とするほど姿勢が悪いなら、自分が姿勢を正せばいい。
他人に対しても世界に対してもまったくおなじことがいえる。
ふと鏡を見たら寝癖がついているときに、鏡に手を伸ばすひとはいない。
でも他人のことに関しては、他人の方が変わるべきだと思ってしまう。
それって結局どういうことかといえば、
自分は存在していないってことを信じているのにも等しい。
自分はこの現実に対して無力だと宣言しているのと同じことだ。
自分が変わればいい、これを自分が我慢すればいいんでしょ、と捉えるひとはまだ、自分が何を望んでいるのかを見つめることを拒んでいるだけ。
世界が、他人が、親が、伴侶が、自分の望まない姿であることを我慢するんじゃないの。
我慢をしないことは、
鏡を破壊することではないし、鏡に目をつぶるってことではない。
我慢をしないっていうのは、他人がたしかに存在して見えるように「自分もまた存在している」というこの現実を直視することだ。
ちょっと前に読んだ「筋トレは最強」のひとの本で、
「自分の娘にされて嫌なことは、娘じゃない女性に対してもするな」という一文があり、
たしかにそうなんだよなあと思いつつ心に残っていたのが、ふといま腑に落ちたのは、
「自分の父親にされて嫌なことをしてくる男性を受け容れるな」ということでもあるなと突然だけど、ひらめいた。
セックスは?とか思っちゃうけど。
まあまあ、まぜっかえすのはやめよう。いや、
まぜっかえしているのかなこれは。
セックスはなんていうか、めちゃくちゃ単刀直入な問題だよね。実際。
それはいわば、自分が男か女かそんなこと考えたことも見たことも聞いたこともない、男って何?女って何?なんていうやつはまあ「普通」いないでしょっていうほど、
無視しえないというか、
相当客観的にはなれない、関わってくる話だよね。
いや自分は性経験がなくて、とか関係ない。
関係ないですから。
親子の関係とかもそうだな。
たとえば自分の親を顔も知らないというひとだって、どこの誰とも知れない、生きているか死んでいるかも知らない、でも親があって自分がここにいるんだってことは、
肯定的か否定的にかはともかく、受け容れているように。
親とか男女とかっていうのはなんだろう、結局読んでいないヌーソロジーに出てきた四つの対立というか、対立ってべつに諍いと限ったわけじゃないが。
二つじゃなくて四つっていう、
そういうものを思い出すな。
つまりこういうことだ、
自分の娘が他の男とセックスすることを、
許さない父親なんてむしろほぼいないと思うのだが、
もしそうなら、許さないと言われて、それをわかりましたと諾く娘ばかりなら、かといって父親とももちろんしない娘ばかりじゃ、人類滅亡しているし、
他の男とセックスしてもいいんだけど、
それには「条件」がある。
という感じはわたしの感じだけど。
条件がある。
誰にでもある。
でもそんなの関係ないんだけどな。
いや、わたしのお父さんじゃない。
お父さんはむしろ違う、条件を少なくとも言葉にまで表したことはかつてない。態度とか己自身の在り方としてはわからないが。
でもわたしが、世界とむきあう、世界へと乗り出すにつれて自分の父親以外の言葉という情報も浴びてきたことはたしかで、
それはいわば、親の顔さえ知らなくても、親という概念は持ちうるという、
いうならば、それらに対して「反発」したくなる気持ちになる経験をしてきたことが、
自分を戸惑わせるってことは、
ありますよね。
うん、あるわ。
反発ね。
自分を正当化する必要はない、に尽きるんだけどね。
さっき書いていて、親子のあたりで、いやでもイエス・キリストの事情が頭に浮かんで、
処女懐妊ってなんだそりゃチートかよ、とかつて突っ込んでいたことをも、
なんか思い出した。
まとまりないけど、戻ると、
コーディネーターに自分の家のインテリアを任せる、
それも全然アリなんだけど、
あくまでそういうのって補助輪なんだよな。
そしてたしかに、たしかに補助輪が悪いわけではない。むしろそれはあればいい。
というのは、最近、パーソナルカラーに興味をもって、よっしゃ診断してもらおうってときに、
そういうのは信じていなくて、
そういうものにお金はかけたくなくて、
というひとがいてですね、
なんだろうなそれはさ、
富士山にハシゴを持っていけば日本一以上になれるんだよっていうことに真っ向からそんなことはしたくないんだって、
なんでも自力でやりたいんだ、
はしごを持っていくなんてチートなんだみたいな、ズルなんだみたいなさ、気が引けるというかね、
だって誰もそんなことしていないじゃんって、
この、もう、これ。
本当は誰も、誰一人としてそんなことをしていないわけじゃない。
ただあなたのまわりにはいないか、いても積極的に受け容れられてはいない、好評価を得ていない、むしろ、
というだけだったりする。
でもこういう抵抗や恥じらいっていうのはやっぱり、
じゃあ周りが変われば自分も変われるんだっていうのと同じだよね。
親の良い子ちゃんでいたいんだっていうのと何ら変わりないというかね。
世間から後ろ指さされるようなことはするな、みたいなね。
世間は、後ろ指なんかささないから。
それ、単にあなたの「感じ」だから。
いやだって親が、友だちが、子どもが、いわばありとあらゆる付き合いが、何と言うか。
彼らは何だって言う。
彼らは何だって言うよ。
それらは単に彼らの「自由」だから。
いわば彼らには彼ら自身の事情がある。
でもあなたにはあなた自身の事情がある。
だれもさ、
ほんとうに思うけど、
自分自身の事情に注意をはらわないひとのことなど、自分自身を信じていないひとのことなど、信用したりはしない。
価値を置いたりはしない。
少なくともわたしはそうだ。
誰が自分より迫りくる事態に怯えているひと、恐れているひとが正当化してくる主張を、自身の率直な感覚を差し置いてまで尊重したりできるだろうか。
あなたは単に、落ち着きな、とだけ言うか思うだろう。
自分が自分を信じている以上に他人からの信用を得ることはできない。
できません。できたら騙しだよ。
騙してもいいけど、それは騙しているだけなの。
相手だけじゃない、おのれ自身のことも。
そこを履き違えるのは、
履き違えることは誰にでもあるけど、履き違えたまま歩むうちにおそらく感じるであろう違和感を無視し続けるってことは、
まあ。いずれ遅かれ早かれ無理じゃないですやろうか。
違和感を信じたほうがいい。
違和感のもとを突き止めたほうがいい。
自分の内面から湧き出てくる声に耳を傾けて、集中して、ほかの誰にも邪魔させたりせずに。
それらにいちいち反論したりせずに。
鏡に手を伸ばして寝癖を直すことはできないから。