売春、してみたらいい。

 必要なのは明るい悪だ。
 たくましい悪。
 必然的でさえある悪。

 わたしは売春って概念が好きだ。
 というか、売春はいけないよという考えが嫌いだ。

 自分を安売りしちゃいけないとかも同様、
 安いも高いもない、そもそも値段などつけられない、売り物じゃないと思うんだ。

 高く売ろうとあくせくするくらいなら二束三文で安く売った方が潔いと思う。

 だってどう転んだところで所詮、売り物じゃないんだから。
 
 あなたがもし、お金で女性とのセックスを「買った」ことがあるのなら、
 自分の娘がセックスを誰か通りすがりの男に「売った」としても、受け容れてしかるべきだとわたしは思う。
 自分の母親でもね。
 
 わたしが嫌いなのは正義感だ。
 嫌いというよりむしろ、なんでそんな無駄なものがあるんだ、馬鹿げている、という気持ちだ。まあ要するに嫌いなんだ。

 正義感ってなんか、たまらないよな。
 裸足で逃げ出したくなる。

 よく酒を飲まないひとが、酔っ払いは嫌いだっていうじゃない?
 それに似ている。
 正義感は自分に酔っている。
 ただのそれだけ。
 わたしはお酒は飲むけど、正義感という銘柄はやらない。
 素面でいたほうがマシだ。

 いやもっと単純にいうなら、女を聖女と娼婦に分ける考えが実に陳腐でうんざりするってこと。
 自分の母親が、娘が、妻が、売春をして何がいけないだろう?

 なーんにもイケなくはない。
 
 
 わたしは売春をしたことがある。
 それをどうしてもやってみたかったというか、やらなくてはというか、
 やった方が早いというか、
 それでやってみた結果、
 これだって仕事なんだという意識が芽生えただけだった。
 コンビニでアルバイト、は、したことがないけどたとえばマクドナルド、飲食店のウェイトレス、弁当屋での発注や在庫管理と何ら変わりなく、
 仕事なんだから効率やホスピタリティ、いわば顧客満足度を上げて感謝されてナンボという、根底に流れるものは同じだと思った。

 もちろん、セックスにまつわることは実にハードルが高い。
 それはいわば、アイデンティティというか、自我というか、エゴというか、
 そうしたものがまったくもって危険にさらされる経験でもあることは、端的にいって否めないかな。

 わたしは特別な愛を信じていない。
 区分けされた愛、個別の愛、身内意識じみた愛を信じていない。
 愛はある。
 愛は空気みたいなものだ。
 それがなきゃ生きられないが、それを獲得するために四苦八苦しなければならないというものではない。
 空気がなきゃ生きられない、でもだからって、もしかすると空気がなくなるかもしれない時に備えて空気を取っておこう、というようなものではないんだ。

 空気は恩恵だ。でも空気を取っておくってことはできない。
 愛とは恩恵だ。でも愛を取っておくってことはできないんだ。