賭けずして増やすことはできない。
山手樹一郎が好きだ。
一言でいうなら、その成熟。
幸せとは、という言及を最近読んだ。
幸せ、これは、「なる」んじゃなくて「感じる」ものだとそのひとはいう。
かつてわたしに、「私は幸せになりたい、あなただってそうでしょう」といったひとがいる。
こういう手合いは、実にじっと立ち止まって考えこんでしまう。
違和感がある。
その違和感のもとをたどりたく、動き回るのはやめ、ただ耳を澄ましてみる。
「なる」というのは不思議なことだ。
あるいは「なりたい」というのは、実に奇妙な概念だ。
それはまるで「時間」の概念のように、わたしたちを絡め捉えて離さない。
時間、いわば未来や過去なんていうものはない、あるのは現在/今だけだ、という話をきいたとき、すごく腑に落ちた。
なんてこった、そのとおりだ、ブラーヴォって気持ちになった。
この感動を他人に話すこと、さらに共感を得ることは実に難しい。
過去は変えられないという。
いや、過去は変えられるとわたしは思う。
パラレルワールドについてわたしに質問してきた子がいる。
もし自分がまったく別なパラレルワールドへ行ってしまったら、ここにいる自分は消えるんですか?と聞かれた。
消えないよってわたしは答えた。
そうなんですね、やっぱり、でも、とかなんとか言っていた。
ここにねじれがある。
いやもちろん、このねじれは解けつつある。
わたしはそのねじれをじっと見つめるのが好きだ。
ねじれていたものが、解けていくさまを見つめることが好き。
いま、好きな人がいる。
好きっていうのもヘンっていうか、それって何なんだろうなあと思う。
以前うちに、居候がいたとき、それは下心やなと事あるごとにわたしは言っていて、何なんそれ、と若干、意味不明さに苛立ったように問い尋ねられたこともあるけど、
好きっていうのも、じつに、なんていうか、
下心の親戚みたいなところがあって、
なんか思い出すね。
これは雑談。
こないだ友人と会って、あなたが好きなひとにアピールするとしたらどうやってする?というようなことを聞いていた。
とりあえず好意を持っていること、特別なんだってことを伝えるかな、という。
まあそうですよね、でもそれ一体どうやって?
これ、おもしろいよなあ。
わたしはひとつ想像というか妄想していたシチュエイションがあって、
わたしに好き、愛してる、とやたらに言ってくるひとがいる、それはゲーム中にだ、
勝負事、賭け事中に、
わたしはうんうん、知ってる何回も聞いたなんてふうに受け流していたんだけど、
そこに、いやわたしはKちゃんが好きかな、とぶっこんでみたらどうだろう、なんて想像してみていた。
それをやるなら実際にKちゃんがいるときかな?
そりゃそうじゃない?と友人がいう。
そうかなあ、どうかなあ。
そもそもこんなアプローチはどことなくネタじみていて果たしてどうなんだろうかという気もしていた。
でも今日、本人はいないときに、うん、わたしはKちゃんの方が好き、と言っちゃった。
そうしたら相手は、あんなイケメンと張り合ってないし、などという。
えっそうなん、いやなんかショック、告白してもいないのにふられた気分などと騒いで横の子に話しかけるんだけど、その子は勝負に集中していてそれどころじゃない。
実はその横の子、もわたしはわりと好きで、
それは、買っている、みたいな好きだ。
まあまあかっこいい。
アルセーヌ・ルパンみたいに見える。薄いその口髭が。
わたしが予想外だったのは、愛してるよ、と連呼してくる客が、ふられた気分、嫌いって言われたしテンション下がる、みたいに言って引きずった展開だ。
嫌いとまで言ってないじゃんっていう、そっちのフォローにまわる想定はしていなかったなあというときに、
そのルパンみたいな子が、なんなんですか、あなたたちデキてるんですか、というような合いの手を入れる、これがわたしのフォローしきれないものを代わりにフォローしてくれているような気がして、やっぱあなた出来るね、とわたしは密かに感嘆していた。
でも、言ってしまってよかったかな。
これが仮にネタみたいになったとしても、わたしの気持ちとしてはネタではないし、
少なくとも自分の気持ちの逆を伝えたことにはならない、と思っておこう。
わたしはずっと言ってきたことがあって、
わたしはわたしのことを好きなひとが好き、なんだよね。
特にそれは男の人に関しては、そうだ。
ここはもう鉄板。
わたしはわたしのことを好きじゃないひとに用事はない。
でもこの好きっていうのも実に多彩というかピンキリであって、
憎からず思っている、というようなひとなんかはそれこそ一々相手していたらキリはないという感じにいる。
(わたしと)ご飯行かなあかんな、というような言い方をしてくるひとがいる、
実に下手なんだよなあと思う、
アプローチだけが下手っていうことは、わたしからすればありえない。
アプローチが下手イコール中身もヘタレ。
好きなひとがいるときに、そのひとに対して守りに入るような真似はしちゃいけないんだよ、それ失礼だから。
賭けは汚くやるものじゃない。
守れば賭けに負ける。
ほんとうなの。
というか、守ればそれ賭けじゃないよね。
賭け、というのはおもしろいもので例えばだけどバカラ、
これは張った額が5%差し引かれる問題はまだあるが、大雑把にいって1/2の確率で勝てる、
張った額が没収されるか、張った額が二倍になって戻ってくるかというゲームだ。
これはつまり、たとえば千円でも十万円でもいいんだけど、
賭けますね、そのときに、賭けた額以上を失うってことはないんだ。
賭けた額以上を失うってことはない。
この賭けに負けた時に、賭けた十万円プラスあと十万円とか百万円くださいと言われる可能性のある賭けではない。
これさ、
わたしに借金を申し込んできたひとが先物というか、
損切りで投資した額以上を請求されてしまって支払いに困っているというひとがいて、
こういうのはわたしは、
あってはならないとは言わないが素人が手を出していい筋のものではないと思うんですが、
実際のところ素人が手を出してこそ成り立っているところがあるので、
どうなんだろうなとちょっとアレなんだよな。
その点、バカラはそうじゃない。
ちゃんと得も損も目に見える。
十万賭ければ十万失うか、十万が二十万になって戻ってくるか、
という単純明快、明朗会計な賭け事だ。
賭け事において、賭けた額以上を失うことはないっていうのは、すごく大事な、おさえておかなければならない要素だ。
基本のキだと思う。
バカラは何がおもしろいって、どこまでいっても1/2ってことなんだよな。
考えて勝てるとかはない。
準備して勝てるってことはない。
どこまでいっても1/2の運なんだよ。
知識は何の役にも立たない。
それがおもしろい。
ほんとにね。
知識っていうのは結局過去の遺物なんだよね。
もちろんそれが、それだから悪いわけじゃない、
ただただ過去の遺物だということが事実、それだけ。
なのに、それ以上のことを知識に求めるのが間違いのもとなんだよ。
そういうことが、恋愛に関してもわたしは、
恋愛に限らないが、すべてのことに対して言えると思っている。
経験や体験は本当に自分にとって宝だ、
でもその宝を生かすには、
宝を宝として大事に取っておいては腐らせてしまうようなものだ、という局面は必ずや訪れる。
宝を宝として生かすには、宝を宝として差し出すほかはない。
そしてそこに賭け要素っていうのは必ずやついてまわるんだよ。
賭けずして増やすことは出来ないんだ。
恋愛についてメモろうと思ったのに結局賭けの話になってしまうわたし。