「自分」の話をし過ぎる人。

 さっきYoutubeを観てたら、「人に好かれる会話術」というのをやっていて、
 一に、「単純接触効果」。
 二に、「フォローアップクエスチョン」。

 単純接触効果とは「会う頻度」「見る頻度」もっと踏み込むと「雑談の頻度」のこと。
 皆さん、職場で、あるいは片思いの相手と雑談してますかー?
 まあ片思いはわたしが旬なだけなのでおいておくとして、
 雑談が大事だと。
 たとえば営業職のひとが取引先相手、あるいはまだ取引の成立していない相手に営業をかけているとして、
 ちゃんと雑談していますか?
 で、ここで雑談って何かというと、要するに「相手の話を聞く」「相手の話を広げてあげる」「相手が困っていることについてクローズアップしていく」ということで、
 決して「自分の話題」を持ち出すことではない。

 なるほど。
 そうなんですよね。
 いやほんとに。
 あたりまえだろ、みたいな。
 でもこれ意外とできていない。

「我」とも関わってくるね。
 
 スカイプで自称及び他称・発達障害の友人とやりとりしていると、発達障害っていうのはいったんこっちへ置いておいて、
 凹みやすいとか、自分は「人並な能力がない」とかですね、
 もうさ。あのさ、
 発達障害
 そんなもんと遊ぶのはやめな、とわたしは言いたい。
 まるで自分の娘や息子が、小さい頃は可愛かったのに、思春期になって不良みたいなのと交流しだすのを見て、やめておきなさいと眉を顰める親のような気持ちとしかいいようがない。

 親になったことはないんだけどね。
 発達障害とされる具体的な行動や傾向そのものが悪い、といっているわけじゃない。
 発達障害という概念、そのくくりが、もうややこしいからやめときなって。
 そんな概念の世界とは手を切りな。

 関係ないから。
 発達障害のせいで成功しない、幸福ではない、不足している、なんていうことはありえないから。
 というわけで、わたしはその部分は無視して話をすすめるけど、
 
 まあまあくだんの彼女には「自分の話」が多い。
 最近読んだ本で、「・・・
 なんだっけタイトル、「多元パラレル自分宇宙」かな、
 ドクター・ドルフィンの本で、
 究極的には宇宙には自分しかいませんから、
 というくだりがあって、
 ほんとうにそうなんだよなあ、そうなんだけどなあと思った。
「けど」が何に懸かるかというとですね。
 
 いや言葉ってむずかしいよな。
 単にわたしが「言葉下手」なだけかもしれないけど。

 自己愛って言葉があるじゃないですか。
 これも、まあだからあれだよな、結局、過剰は無用、
 過ぎたるは及ばざるがごとし、なんだよな。
 で、じゃあ何が、どこが適切なのかっていうともうこれは、
「こうです」というポイントを実に明確に適切に示せるひとはすごい。
 でもわたしはそうじゃないので、「自分の感覚を研ぎ澄ませること」というような曖昧な表現しか思いつかないよな。

 自分を愛すること、受け容れることはもう絶対的に必要なんだけど、
 もうそれがいうならば、この世にある究極の「答え」だから。
 うん、でもそれって例えば、「E=mc2」みたいなもので、
 それを見て膝を打ってそうだったのか!てなる人はごく稀だよね。
 ていうかそれに関してはわたしも、ならない。
 物理の知識以前にアルファベットを知らない、数式を知らない、イコールがわからない、ということだってありうるわけでさ。

 宇宙には自分しかいない、
 というのも同じようなことでさ。

 は?何言ってんの大丈夫?意味わからないんだけど。
 てなる人が、おそらく。まあ控え目にいって半数くらいは。
 これはドクター・ドルフィンも言っていたけどそういう人っていうのはひじょうに頑固なんだよね。
 読んで字のごとく、頑なに固まっちゃっている。
 いわばこの地球の重力、

 わざわざ意識することさえもない「あたりまえ」に捉われてしまってね。

 で、戻ると、「自分の話題を出さない」
 これは、色んなレクチュアがあらゆる分野、特にコミュニケーション分野についても多く出されているので、
 情報には事欠かないはずだ。
  
 他人と会話するにおいて、自己紹介は必要ない。
 もうね、わざわざわかりにくい、とらえにくい、簡単に嘘のつける言葉による自己紹介をしなくても、「見た」だけで相手は情報を受け取っていますから、大丈夫です。
 ひとは見た目が九割なんて言いますよね。
 まったく同感。

 人を見た目で判断しちゃいけない、なんていうことに深く納得するひとっていうのは、
 だいたいその人自身が嘘吐きなんだよ。
 自覚的か無自覚かはおいといて。

 嘘吐きっていうか、いやまあもう嘘吐きでいいんだけど、あえて表現を選びなおすなら、
 言葉に依存しすぎなんだよね。
 言葉を信頼しすぎ。

 言葉で相手を説得できるとか、言葉で自分をなだめられるとか、
 コミュニケーションの手段は言葉が九割だと思いすぎるというか。

 いや。
 言っていてちょっと恥ずかしくなったのは、わたしにもそういうきらいがある。
 はい、あります。

 でね、知識としてまずはそうなんだ、くらいに聞いてもらうとして、
 自分の話っていうのは本当に意識してぎりぎりまでセーブするくらいがちょうどいい、というひとがおそらく大半なんだと思います。
 ものすごくシャイな人とかいるじゃん。
 いや実はわたしも、他人が同意するかどうかはともかくそうだと思っているんだけどさ、
 と、こうやって自分の話を折り込んでいく、というね、もう。

 シャイなひとにもっとオープンになって、というのは全然間違っちゃいないアドバイスなんだけど、
 実際のところ、シャイなひとほど、言葉によらない自分自身の情報を開示している、という面はある。

 なんせ口数が少ないから、感じ、とか態度、とかで相手を判断するしかない、というところがある。
 それはそれで、ひるがえって、おまえホントにシャイなのそれ?というような。

 言い換えると逆に、口数の多い、おしゃべりなひとほど実はシャイなんだ、ということはあるよね。

 はい、それで、その「コミュニケーションが足りない」と職場でダメを出されている友人に提案したい。
 コミュニケーションっていうのは、もちろん相互交流なんだけど、
 ありていに言うならば、相手の話を聞いてナンボ。

 聞く、つっても、ハイハイ聞こえてますって~、じゃないで。
 相手の話に心を開いてナンボ。
 それは悪い意味で胡麻をする、とかじゃないんだって。
 また自分を押し殺す、というようなことでもないんだってば。
 
 こういうのはさ、なんでもそうだけど、また話が横へそれるようだけど、
 ちょうど梅雨なので旬でよろしいかと。たとえば、
 雨が降る。
 これは単に事実。
 それを、ああ、雨が降ってジメジメしてうっとうしいなあ、と感じるか、
 雨が降って、空気が潤って瑞々しく、水の反射によってあらゆるものがキラキラして美しいな、と感じるか、
 結局は、「自分の感じ」がすべてなんだよね。
 胡麻をする、というのも本来、胡麻は身体に良いものだし、すれば丸ごとより消化吸収が早いし、相手の健康を思って胡麻をする、これは「悪い」とか「邪ま」などと決まった話じゃないんです。

 自分をごまかすやつがわたしは一番悪いと思う。
 なんか一気に結論しちゃうけど。

 自分の話をし過ぎる人っていうのは、自分のことを好きなんじゃなくて、好きになってもらおうとして一生懸命なだけなんだよね。

 ていうかさ、これは、皆ほんとうにそうなんだよね。
 だから、逆に、自分の話ばっかりしてウザイなあ飽きたよどうでもいいよ、
 というような人と対面しているとして、
 ウザイなあ、じゃなくてそんなにもこの人は自分に好かれたいんだな、というふうに目の前の出来事を捉え直してみる。

 これがおそらく、受け取らなくてもいい石を受け取った際に、その石を裏返して光に変えていけばいい、ということにちょうどピッタリ繋がると思う。

 自分の話をし過ぎる人っていうのは、ともかく不安なんだよ。
 これは何もリアルにおしゃべりする、会話する、というようなことでなくても、
 自分の心の中だけでも会話というか対話がありますね。

 いや、あなたはそう受け取ったかもしれないけど自分としては本当はそうじゃないんだ、と延々発展しない自己正当化に明け暮れるモノローグを繰り返していたりね。

「守るな」と言いたいな。

 自己防衛はするな、と言いたい。

 

 攻撃は最大の防御なりってのはまったく真なりと思うね。

 つまり防御、それは攻撃なんだよ。