泣くことは浄化。どんどん泣こう。
友人と仕事帰り地元まで出かけて話していた。
泣くんだ。
泣くっていいことだよってわたしはいった。
泣くことは浄化だ。
わたしが、喋り倒した。
そんな二時間。
終電で帰るつもりだったけど、もうちょっといいかと思って、結局帰りはタクシー、
タクシーでも初対面の運転手さんに向かって喋り倒した。
降りる際のせりふはこうだ、恋愛してねって。
泣くってのは。
最近、別な友人も泣いていた。
そういえばわたしはひとを泣かせたいと思っていた。
だって、泣くってことは、いいことだから。
でもわたしはそんな際わたしまでつい、泣いちゃいそうになるんだよな。
いや、それこそ泣いたっていいんだけどさ。
わたしはひとの気持ちがわかる。
外側からわかる。
観察しているだけで、そこに注意を向けているだけで、わかる。
というか、エゴがなんであるのかってことが、わかる。
だから、ああ、それはエゴだね、なんて一言で済ませたりしてさ、
じゃあエゴって、なんなんだって、エゴを本当にはわかっていないひとに説明しろといわれたら、ちょっと困るっていう、
なんで困るかって、その質問もエゴから発せられたものだからで、
あなたに、あなたはあなた、となど言っても禅問答のようになってしまう。
エゴは要するにペルソナなんだけどな。
仮面に対してあなたは仮面だ、といっても、通じないんだ。
いや、わたしはエゴをすごく愛している。
恋人を愛するように愛しているんだ。
あるいは、子どもとか親とかを愛するようにさ。
もっといえば、神を愛するように、愛している。
いや、彼がすごいな。
わたしが彼を慕う気持ちによる波及効果がすごい。
わたしは、わたしの過去と未来が幾億通りにも広がっているように、彼の過去や未来も幾億通りにも広がっていると思う。
つまりこうだ、わたしは彼によって自分がすごく刺激されるのを感じている。
この顛末がどこへどう行きつこうともそれらすべてを愛そう、という覚悟、決意がいるってことを、ただ、感じている。
わたしはひとの気持ちがわかる一方で、ひとの言っていることがわからない。
おそらく、言葉に堪能なことが、わからなさを助長している。
枝葉末節にとらわれてしまう。
内にあるものと外にあるものとの間の矛盾にクエスチョンマークが炸裂しちゃう。
ま、そういう意味ではわたしも、発達障害的な何か。
言葉って不思議だよな。
言葉を駆使することによってわかった気になっちゃう、という裏腹な面をいずれ抱えている。
それはどこか、エゴにも似ている。
相手を推し量る必要はない。