ディーラーはただの接客業。

 友人とこないだ玉川で話したとき、
 ディーラーは数字をあげることが仕事でしょ?という。
 違います。
 こういうところだよな。ほんとに。
 感心してしまった。

 数字はもちろん結果的に上がるけど、べつにわたしが上げなくてもひとが上げるの、
 ひとが上げなくてもわたしが上げるの。
 以前働いていた店が崩壊の憂き目に遭ったときにもよく思ったことだが、
 数字数字とばかり言ってるからあかんねんと。
 勝負事なんか、いわば時の運というか、それこそ左右できないものだ。
 そうじゃない、といえるものもいっぱいあるでしょう、でも究極的にはそんなものは時の運とでもいうほかはない。
 まして、バカラなんか、運以外の何でもない。
 そりゃ色々できることはある、というか、できるように見えることはある。
 イカサマなんて手段もある。
 でもイカサマをしたら意味がない。

 努力すべきは数字を上げることじゃなくて、ホスピタリティをもって接客することなの。
 勝負がどっちに転ぶかは誰にもわからない、わからないことをわかるものにしようとして必死こいてもそれは徒労に終わるだけなの。
 これは賭ける側にも言えることだから、まったく身も蓋もないけど。
 
 いやだから身も蓋もこうしてつけているつもりなんだけど、まだまだですわ。

 彼女は、ディーラーは数字を上げることが仕事だと思っている。
 おそらく、数字を上げれば得意がって、数字の上がらない他のディーラーを気合が足りないとか努力(!)が足りないとか思うのだろう。
 まあこれはちょっと悪意ある誇張かもしれないが、
 まったく的外れだとも思わない。
 彼女には、自分が上げなくても他のひとが上げる、他のひとが上げなくても自分が上げる、それでいいんだってことがわからないから。

 それは何かっていうと、我/エゴなんだよ。
 我が邪魔をして、それをわからなくさせている。
 なにもしなくていいっていう話じゃない。
 努力の方向がちがうよって。
 勝負の行方や数字を上げることに集中するんじゃなくて、ただ接客することに専念すればいい、それが仕事をするってこと。

 わたしは、彼女にも言ったけど、何を描けばいいですか?と聞いちゃうアンディ・ウォーホルってすごいと思うんだ。
 ウォーホール?と聞きなおされて、だからそういうとこや、と突っ込まなかったわたし、大人。
 わたしは最初からわりと大人なんだけど、大人でもやっぱり、目の前にひとがいると、思うに任せないことがもちろんたくさんあって、それが、おもしろいよね。
 

「ハッピーリッチな思考法」というごくまっとうな本を読んでいたら、
 専業主婦時代は、ちょっと髪の長いひとを見たら「わたしの方が長いし」、と思っていたとあって、
 ちょっとウケました。
 そして、なんか深く納得したのは、ああ、コンプレックスって必要やなってこと。
 コンプレックスがあるからレバレッジが効くんだよな。
 
 ああ、なんかさ、
 わたしも最近もういいかと痩せている、自分で自分の身体を気に入っていた頃に戻しているんだけど、それまではすごい難しい方法で痩せようとしていたの。
 ちょっと高度過ぎる痩せ方、つまり内から外を変えようとしていたわけ。
 でももう、方法はなんでもいいわ、とにかく痩せよう、と思って、
 取り入れたのがマクロな食事改善と筋トレとヨガ。
 わたしはですが、激しい運動によって心拍数が上がることが苦手極まりないので、それはやらない。でも、やらなくてももちろん痩せる。
 わたしはいずれ人間はものを食べなくても生きられるということを信じているし、
 信じているというより、そりゃそうだろうというか、知っているというか。
 でも今すぐではないし、一年後とか十年後とかいう話でもない、
 なら、もう、いますぐ通じるやり方で痩せるのが一番早いよな、と思ってそうすることにした。
 
 お金を稼ぐっていうのも一緒なんだろうな。
 欲を出すっていうのは本当に悪いことじゃないし、コンプレックスがあるからレバレッジが効く、
 わたしはコンプレックスというのがあまりなくて、
 そこが「問題」なんだよな。
 薄々気づいてはいたけど。

 それでいうともう、その友人とか羨ましいなっていう話になってくる。
 羨ましいは、ちょっとおかわりしすぎたけど。
 彼のこともそうだけど、彼女のことも、要するにすべてのひとのことは、
 こっちの考え方を変えたら、変わるようなこと、なんだよな。
 と、また内から外を変えようとするわたし。
 でもそこはもう、そうなんだもんなあ。

 わたしが彼を真摯に好き、というだけで、もう彼もわたしを好きっていうのはすごくありうる話というか、当然なんだよ。