いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか?

 たとえば、皆誰もが神であることなど、
 合理的に考えればそう遅くもなく辿りつけそうな結論だとわたしは思う。
 
 とにかく、皆がやってるから自分もそれをする、とかいうのは無理なので、
 皆が疑わないから自分も疑わないとか、
 いや、無理やん。
 なんでなん。
 もしそれでいいのならいったい自分はなんのために在るのか。

 こんな突飛なことを言えば笑われるだろう、怒られるだろう、馬鹿にされるだろうということが怖い、
 というのも、自分の心をよくのぞきこめば、
 自分がひとを笑いたいとき、怒りたいとき、馬鹿にしたいとき、自分の心に何が起きているのか、ということをつぶさに観察すれば、
 相手がそうした振舞いをしてきたところで、何が怖く、何が不都合だろうかと思う。

 自分をわからないものにしておくから、他人もまたわからないままになってしまう。
 自分のことはわからないが他人のことならわかる、と言っているようでは、とてもわかっているとは言えないと思うんだ。
 そんなものは自省なき空わかりであって、逆にもう、そんな物分かりはどぶの肥やしにしてしまって構わない。

 だからってとある友人のように、そんなものは自分のも他人のもわからないものなんだ、と開き直ってしまうのもどうかと思われる。
 それはどこか怖がりすぎている、もっといえば、どこか横着だ。
 そんな態度で時間を止めるのは頂けない。
 
 どこかとても気の強いところがまだ、わたしにある。
 汝は強すぎる、もっと弱くあれ、と言われた宮本武蔵が、いったいどういうことかと頭から離れない、しぶしぶのような気持ちは、
 だから、わかる気がする。
 
 喧嘩したいわけじゃない、でも喧嘩は嫌いじゃないとやっちゃうような。
 どこか好戦的な気配を捨てきれずにいる。
 それはきっと恐れからなんだ、
 それを愛と呼ぶのはわたしの規範に反する。

 わたしは喧嘩するほど仲が良いってのは信じていない。
 親しき仲にも礼儀あり、の方だ。

 わたしは、結婚をどこか信用していないところがあった、と二十年来の付き合いある美容師さんにいう。
 そんなもので安心が得られるものかと思っていた。
 彼女は、自分は一人では寂しい、自分の居場所が欲しいという気持ちがあったから、結婚したいと思っていたという。
 
 わたしはその寂しい、がわからない。
 ここに大地があって、空があって、水があり、花が咲き、鳥が飛び、自分がいる。
 何も寂しくはない。
 わたしはどこか、とても人恋しい性分も自覚しているが、それは面白いことは多い方がいい、というくらいの気持ちだ。
 
 彼がいい、と心に決めてわかったのは、
 それまでにも自覚はあったが、来る者を拒む理由がないというだけで、要するに妥協をしてきたにすぎない、自分の行いだ。
 他に方法が見つからなかった。
 他に片付け方を思いつかなかった。
 どこか当惑も感じながら、それが妥協であることをわかりながら、
 こんなものでもありがたがっている方が、おもしろがっている方が、それらを片っ端から蹴って捨てるよりかは自分の心が乱されない、そんな理由で、いままでやってきた。
 そして一度は試したものを、もういらない、もう時期は過ぎたとお別れする。

 でも、彼と心を決めると、霧が晴れたように、笑いだしたくなるほどに、
 心が軽い。
 誰がなんといって門戸を叩こうが、一々出たものか居留守を決めたものかと迷うことなくあっさりとただ憂えるところなく満面の笑みを湛えて出ることができ、
 相手が仮にどんな厚かましい、どんな切羽詰まった事情を開示してこようが一切考える余地はなく、そこは彼にあげたもの、と後ろめたさなく、朗らかに言うことができる。
 こんな楽なことがあるだろうか。
 わたしはたしかに、知らなかった。
 
 わたしは追わないし、負わない。
 わたしは孤独を知っているしそれを愛している。
 わたしはいつでも一人になれる。
 わたしはあらかじめ一人でいて泰然とあれる。
 もっといえば、わたしが一人となど言うことなんか所詮高が知れているところがある。
 いったい誰が何をどうやって一人になどなれるものか、と思っているんだ。
 なれないよ。
 だから一人を恐れるひとをどこかわたしは可笑しく感じてしまうんだ。
 失ってはならないものなど何一つとしてない。
 
 でもわたしはどこかで人から来るものに煮詰まってしまって、飽きてしまって、もうたくさんだ、という思いから、
 自分と同じくらいのものを求める気持ちになっていた。
 そうしたら、いつがそうとは知れず、彼がそこにいたんだ。

 美容師さんのお母さんがお金に頼りがない、という話から、
 わたしはわたしの心配には及ばない、という気持ちを親や祖母に対して、どこか持て余し気味に抱えてきたけど、
 世の中には子の心配をする親じゃなくて、
 子に心配させる親もいるんだものな、と思う。

 心配は自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 わたしはそこにどうしても譲れない気持ちがある。
 それをなぜ愛と言わないのか、それをなぜあなたなら大丈夫だと言えないのか、それをなぜ心配だなどと言ってしまうのか。

 不安とは、どこまでいっても、自分のものだ。
 相手のものじゃない。
 相手のせいにできる類のものじゃない。
 相手のせいにしているようでは、自分が自分の邪魔をしている。

 自分で自分の邪魔をしているのにすぎない。

 自分を愛することを慢心や過ぎたるものと捉えてしまうような病気/風潮からは、どこかで決別しなければならない。
 自分から決別しなければならない。
 相手の出方を待っていても無駄なんだ。
 相手、そんなものは詰まるところ、いやしない。

 どこかですべてが、あべこべだ。
 
 いったい彼とどうなるの?と言われたらわたしはちょっと困ってしまうんだ。
 わからない。

 と笑い飛ばしてしまう。
 どうなりたいの?と言われたらどこかまだ。

 そんなことなんでおまえに言わなあかんねん、とちょっと眉尻をあげてしまうところがある。
 おまえに言うくらいならとっくに、わたしは、もう。