「肉」から「霊」へ

 そのひとが彼に、韓国行くか?という。
 行こ、と彼が軽く答えて、
 韓国へ誰と誰とがいつ行くというような具体的な話をしだすと、聞いたよそれ、と彼。
 プサンやで、行くか、と再度言うと、
 背後のそのひとを振り返り、わたしの目を見て、行かない、と言って彼が笑う。
 行かないって、とそのひとまでが何の為にかわたしを振り返り、笑う。 
 いや。
 わかっているのか、わかっていないのか、わかっていないんだろうが、わかっているのなら少しは何かしてよと、わたしは他力本願にも思う。 
 いつか、そのひとが電話で、店を出た彼と話しているのを、わたしは見て、もうその電話を代わって、と強く思ったりしているんだ。
 その遣る瀬無さを、どこか馬鹿げていると思っている。
 感傷的すぎると頭のどこかでちょっとおかしいんだ。
 
 今日のあの一瞬、わたしの目を、
 あんなことが、あんなことで繋ぐ、
 わたしは馬鹿げているというよりも、不思議の念に打たれる。

 あまりにも掴みがたいものを掴みにいく、
 さすがにこんな儚くわかりにくいものを、他人にひけらかそうとは思えないが、
 同時に腑に落ちる思いもしている。
 
 シンギュラリティは近い、を紹介している「エクサスケールの衝撃」という本を借りたら600ページ余りもあるのでちょっと圧倒されるが、
 読み始めるとやばい、おもしろい、なにこれ。

 わたしの、もののわかり方というのはちょっといわく言い難いが、
 頭と肚で連動してわかる、というか、
 そのどっちがどっちとも切り離せないような、
 どっちもだ、というか。
 
 そもそもそれはバシャールに、ダリル・アンカに面談しにいったひとが、とても面白いと紹介していた本なのだが、
 最近店に入った、従業員の女のひとで、
 バシャールとかエイブラハムとか知っていますというひとがいる。
 そのひともどこか浮かれて、こんな話ができるなんて、というんだが、わたしもそうなんだなあとちょっと感慨深い。
 わたしは、ああいうものは、すごく頭がいいというか、冷静というか、理性的っていうか、もう合理的だと思えておもしろいの、というと、
 相手はそうじゃないので、そうなんですねと驚いている。
 
 わたしは合理的なことが好きなんだ。
 ひとと話をするときくらい合理的であれ、と思っている。

 自分一人でいるときにどんなに不合理で超絶ぶっ飛んだ、説明のつかないことを感じるのも思うのもそれは自由だし、自由であるのが本当だ、
 でもひとと話をするのなら、
 相手目線を想像することはエチケットとして、というよりむしろ必然的にそうでなきゃ意味がないと考えている。
 それを滞りなく実行できているかといえば、わたしにもできていたりできていなかったりするところはあるが、
 何を目指して、何の目的で、本来ひとに話をするのか、ということは、
 意識している。
 意識しなきゃいけないんだよ、
 それは容易く惰性に流されてしまう、
 そうなると、なんていうかもう、意味がない。

 過去の繰り返し、過去の再創造、
 同じことだが決めつけた未来を繰り返し再創造するにすぎない行為、
 そんなものに他人を付き合わせ、
 そんなものを他人に付き合わせ、
 している場合じゃないって。

 この、もう、そんな場合じゃない、という考えが、どことなく焦燥ではないが、
 張り詰めたもの、意識的なものが、
「エクサスケールの衝撃」にもあらわれていて、そのドラマチックさにわたしは、惹き込まれて微笑ってしまう。
 
 特異点、という考え方。捉え方。
 なるほどなあってわたしはどこか勘が響いて、感じ入っている。

 頭でも肚でもなくその統合された感覚として。

 もうわかりやすいのでわたしも繰り返しそれを思い出してしまうが、
 友人の、世界一ってそんなんわからんやん、
 こういうものは、彼女だけじゃないんだ。
 誰だって持っている。
 誰だって大なり小なり持っていて、手放すに手放せない感覚として、それがある。

 いやもう、あたりまえのように、わたしにもあるんだ。
 ここを、レイ・カーツワイルは、「生命体から非生命体へ」と表現する。
 これは聖書でいう、「肉」から「霊」へということと、同じものだ。
 
 バシャールが言っていた、
 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけない、
 というのが当意即妙と表現するのがぴったりで、
 ぴったりなものって笑っちゃうんだよな。

 発作的な笑いが起きる。

 わたしは何度か、当たるってそう面白くないんだよな、外れることの方がどう考えても面白いんだっていうことを、店で、バカラの話として、
 言っていたが、
 外れるということがというよりも、そんなにぴったりと外れる、
 例えば1対0、9対8で負ける、というようなさ、
 こんな事態に陥ったとき、もちろん腹も立つが咄嗟にはつい笑ってしまう、ということがある。
 勝つことがどこか予定調和ではないが、
 勝ってもあんまり実はおもしろくない。
 ああ、はい、はい、という感じで、そんなにびっくりしないっていうか。
 でももちろん、それこそ1対0で勝つとか、9対8で勝つ、 
 これもやっぱりびっくりして笑っちゃうんだよな。

 ぴったりとしたそれが来ると、ひとってどこか笑ってしまうんだ。

 AIは賢いんだから人類を支配しようなんて考えるわけないだろ、
 というのは、
 そりゃそうだぜ、とわたしは快哉を感じて、にやっとしちゃう。
 
 どこかで、おまえの、自分の次元を超えたところで理解しようと望まなければ、
 いわばエゴではない感覚でそれを理解したいと望まなければ、
 超えられないものがある。

 そしてたしかにわたしは、ここと戦ってみたりしている。
 わたしが、なんだよな、と思うんだ。

 世界一って、世界一強いって意味ばかりじゃないで、というと、
 そんなんわからんやんってむきになってこられる感じを、笑いながら、
 気を引かれている。
 いや、何がそうもあなたをむきにさせるんだろうって、気になっちゃうの。

 教える、ということは、自分が気づく、ということだ。
 相手に気づいてほしい、とわたしも言いながらどことなく躊躇っていたのは、
 いや、相手もかもしれないがどこかそれは大義名分的なところがあって、
 要するに自分が気づく、ということが相手に教える、ということだ。

 相手が気づくかどうかはそれこそ、お金は当意即妙をやったあとについてくる、というようなものと変わりない。
 そこはいわば副産物的な、結果論的な、なにかにすぎない。

 副産物を取りに行こうっていうのは違うよってことだ。
 副次的なものはあくまで副次的なものにすぎない。
 
 ビックリマンチョコのオマケのシールが流行って、本体であるはずのお菓子は道端で投げ捨てられている光景をわたしは、ちょっと何が起きているのかわからない感じで子どもの頃、目を丸くして、眉を上げて、じっと見ていた、
 そういう感覚にも似ている。
 もったいない、というのは簡単だが、どこかそうではない。
 どこかそうではない、なのにわたしには、
 オマケのシールに夢中にはなれない醒めたところがあって、
 むしろ本体のお菓子を捨ててしまえるまでに、オマケが欲しい、と思えるこの感覚が怖いもの見たさのように知りたかった、ずっと。

 結局、何が言いたいかって、
 全部自分なんだよなってこと。

 ジャッジも批判もただ迂遠にして無為徒労、
 こんなものに振り回されて地に足を着けることをいつまでも怖がっていても何にもならない。


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