月にいったい何がある。

 相談しているんじゃないよな、と思う。 
 応援を頼んでいる。
 応援というのは、もう、いつかはわからなくても、そうなるんだろうな、という予想をもってこの現実をみる、ということだ。

 自分を知らない。
 現実を知らない。
 
 相手にあって、自分にないもの、
 自分にあって、相手にないもの、わたしにそれが見えたところで、
 因果関係を上手に語れるストーリーがなきゃ、
 相手の腑に落ちることはなく、
 
 いやもっと言うならどこか、完全に腑に落ちきれていない自分が、相手を説得することはない。

 決めるのは自分であって、他ではない、それがたとえ。
 ここの覚悟がいる、
 それをわたしは、99%の次を100%にせず、99,1%、99,91%などと、どんどん無限に刻んでいる。
 
 友人がいう、夫にも自分にもある、恥ずかしいからやらない、というところを、子どもにはやってもらいたい、
 自分がやらないのに子どもにはやれって、そんなん無理やろう、とわたし。
 口で言ったところで、せんがない。
 そんなものはなんでもない。
 言葉以外、せりふ以外のところにある真実を子どもが見抜かないわけがない。
 見抜いているとは知らずに見抜くんだ。
 子どもだけじゃない、誰でも。

 それで説明しがたい矛盾や葛藤に立ち往生することになる。

 子どもにだけやれって、それは無理だし、
 無理を通り越してどこかしら横着だ。
 いわばそれは、
 どこかで線を振れて、支配被支配をあたりまえに受け容れる何か、
 あたりまえに受け容れさせようとする何か、
 わたしは、そこを不憫だと言ったんだ。

 皆、自分の目でものを見て、ものを言う。
 目がエゴだというのは的確だ。
 目でものを見るが、目それ自体は自分の目を見ることはできない。
 いったいじゃあ、ものを見ているのは誰なのか、というところだ。

 エゴは目のようなもの、
 目で見ている、たしかに目で見ている、
 目が見ている、そうではない。
 目で見ている、目は自分の目を見ることができない。
 エゴではエゴを捉えることができない。

 エゴは自分の一部でしかない、
 エゴを通してものを見ている自分自身に気づく必要がある。
 
 実際のところ見たいと決めたものを、エゴを通して見るわけで、
 エゴが見たからそれがある、というのは逆さまで、支離滅裂だ。
 
 そこにりんごがあるから、りんごを識別するわけじゃない。
 りんごという認識があるから、そこにりんごを見ることができる。

 こんなことは禅でも哲学でもない、ただのあたりまえだ。
 

 女は嫌いだが、わたしは男だからいいんだと女のお客に言われたことがある。
 わたしは実に男らしさを育てているところがある。
 でも、自分は女やで、と従業員のおじいさんがいう。
 わかっている、
 わたしは自分の中の男らしさを育てることによって、男になるわけじゃない、より一層自分の女を際立たせているだけだ。
 誰が男のようなものになりたがるんだ。
 わたしは女だ。
 
 センスは大事、と友人にいうと同意して、
 彼はと聞かれ、いや彼は、とわたしは詰まり、
 いや、センスとか求めていない、
 わたしが求めているのは彼の行き腰。
 賢さはどこか、必ず臆病さを連れてくる。
 賢さはどこまでも数字を刻む。

 自分を見るように相手を見る、これは間違える。
 よく自分のされたくないことはひとにもするな、というが、
 これはどことなくおかしい。
 自分とひととは同じ感性なわけではない。
 
 女性もポルノを見る、それは男の裸に興奮するからか、と聞くのは馬鹿げている。
 いや、そういうひとがいたって構わないが、
 自分をくるっと反転させて相手を見る、そこはそうじゃないだろ、と呆れてしまうような馬鹿馬鹿しさがある。
 横着というよりもはや、ただの幼稚さがある。

 いやもう、そうなんだよな。
 横着というより、稚拙なんだな。

 
 自分と同等のものを引き寄せる。
 自分が響かせたいものを、引き寄せるんだ。

 ある種、男にはどうしても拭いきれない劣等感がある。
 女にはないものがある。
 そこを、男を真似て劣等感を抱き、男のどこか怯えたそれに響いて、同情しているようでは、お話にならない。
 そんな話じゃなかったはずだ、という違和感がある。
 違和感、というかもう、それは過ち、歪さにすぎない。

 
 相手を自分とおなじくらいのものだろう、と見るのは、どこかぞっとするような怖さ、危なっかしさがある。
 わたしはそれが怖い。
 いや、同じなわけがない。
 
 同じだと決めつけるから、横着または稚拙なものにとどまっているから、晴天の霹靂のように突然、出し抜かれる。
 そして自分の横着にはまだ気づかずに、相手がずるいことをしたんだろう、などと思う、こんなことは実に愚かしい。
 あるいはまた、相手が生来もっているものは自分には備わっていないと決めつけて、自分が満たされない場所を、ここが安全なんだと信じて梃子でも動こうとしない。
 好きにすればいい話だが、わたしはどこか上げた眉を下げられずに、それを気にしている。

 わたしは自分の嘘、自分のごまかしを徹底的に暴いてまわる。 
 そうじゃなきゃ、だって、
 勝てないじゃん、
 わたしは勝ちたいんだ、この現実に。

 こうした勝ち気さにも響いている。
 わたしが響かせたがっている。
  
3:04 2019/10/18
 わたしは、勝ちたいんだ、そして、
 勝ちたいと宣言できるひとの、少なさを思う。

 わたしは、勝ちたい。
 誰に、とかじゃない、この現実に、
 この自分が作り上げた現実に勝ちたいんだ。

 自分がすべてを作った、
 自分が全部お膳立てをした、
 なのにそこに負ける、そんな選択肢はただ、ないだろうって思うんだ。

 照れが下ろしにかかる、こんなものは何でもない。
 
 子どもにネガティブな暗示を与える、こんなことはたとえ親といえども許される行いではない、とナポレオン・ヒルがいう。
 わたしはまったく同感だ、
 まったく同感だ、
 そしてたしかに子どもは自由だ。
 親だって自由だ。

 いかに上手に下りられるかということを考えているあなただから、
 9から0しか引く気はない、という答えを、
 そうじゃない、
 9から2、俗にクンニ、わたしは好きだ、癖になっているのとなど、
 馬鹿げた戯れに応じるのが正解、なんて言ってのける。
 いや、おまえ、わたしは、
 そこを蔑む気はない、蔑む気がある、
 役が違う、
 というより、全うすべきものが違う、
 男が演じる女みたいなものなら、それもいい、
 わたしは違う、わたしは男じゃない。
 
 わたしは実に男らしさを育てている、でも、
 それは、自分が男になりたがっている、そんなものではない。
 わたしの相手を想定しているんだ。

 自分の中の男らしさを育てることによって、自分がそれよりも女だというそこを表わしたい、それだけだ。

 わたしには強烈な男気、
 男を全員下ろしたがっているような強気、勝ち気がある。
 それは、男をただいわば、
 ふるいにかけたがっている、それだけのところがある。

 そして最後の最後には、
 
 今朝ふとまた、竹取物語を思い出した、
 帝の求愛にまで応じず月へと帰った、
 あの実に尻きれとんぼな話を。


 月にいったい何がある。


 わたしはたしかに今にでも月へ帰りたい、
 月へ帰りたいんだ。
 そしていつでも帰れるんだからまだここにいる、それだけだと言い聞かせているところがある。

 わたしはいつでもそこへ帰れる。
 でも帰ったところで。


 わたしのその王宮へ帰ったところで。

 
 わたしは負ける気なものに腹が立つんだ。
 勝ち気でいけよ馬鹿、と怒ってしまう、それは、
 どこかしら男らしさを残した何かではある。

 美しくなければ、
 勝つ気構えがなければ、
 それらをどう取り繕おうと、所詮なんでもない。
 
 言い訳ばかり上手くなったところで、何でもないだろう。
 
 なんでもないだろ?

 おまえ、いったい、何をしにきたの?と思ってしまうんだ。

 思ってあげたくなってしまうんだ、まだ。

 

 いわばまだ、そうやって。
 99%の次は100%じゃない、とやっちゃうような何か。
 99%の次は、99,1%だと。
 刻むような、永遠に刻むような、
 永遠に今へと至る道を刻んで辿りつきたくないような何か。


 いや、わたしが不甲斐ない。