自分の描いたシナリオのあまりな不備さに立ち往生するっていう。

 吉川英治が描くところの、本位田又八を笑えない気分だった。
 武蔵と五年ぶりに再会して忌憚なく話し、涙を流し、おれはやり直すと誓った、そのあとに、
 佐々木小次郎からおまえは武蔵の偽善に騙されているだけだと言われ、
 そんなことはないと突っぱねるも、
 武蔵と、お通が仲良く歩いている姿を見て、やっぱりおれは騙されていたんだと、
 嫉妬と憎悪にかられる気持ち、
 あの弱さ、
 あのどうしようもない弱さを、他人事のようには、笑えない。
 笑えない、ということに悄然としている。

 呆然としている。

 なるほど、こんなこともやってくる。
 なじりたい、泣きたい、そうしたいのならば、そうするのがいい。
 わたしにそう出来ないわけなどあるだろうか。
 ないだろう。

 でもどこか。
 負けるのを嫌がる自分がいる。

 ずっとそうなんだ、
 どうしたって他を恃めない自分がいる。
 
 卑しいものに成り下がるのは嫌だと、自分を恃む気持ち、
 卑屈さを手の中に転がして食べずに捨ててしまう。
 これは毒にしかならないものだと、一人決めして、食べないままに捨ててしまうような、
 どこか、
 恐れのような何か。

 堕ちられないことをどこか、敗北感に響かせて、打ちのめされている。
 
 あんなふうに簡単に堕ちてしまえるものをどこか、
 仰天する思い、羨望する思い。
 堕ちればいいのに、そこは単に地面にすぎないものなのに。

 そこは単に母なる地球の地表、力強くある大地にすぎない。
 わたしは母でさえ他人にしてしまって、
 そこを、そこでさえも、どうしたって自分とは切り離していたい。

 木の股から生まれたような自分でありたがっている。

 わたしが主観的であるのはどこか、演技的な何かであって、
 見せかけの何かにすぎないところがあって、
 そう思ってもらいたいような何かでしかない。
 本当は主観的である自分を、他人の目にさらすことをどこか忌み嫌い、恐れ、そうでしかない自分を、自分一人の前にしか晒せない。

 脆弱なエゴは、本来透明でしかないガラスに、せっせとマジックミラーを作る。
 わたしは自分が磨きに磨いたそれ、どこにも曇りはない、どこにもマジックミラーは作らないようにしたガラスを通して、
 外の世界を何気なく、または、つぶさに眺めれば、
 至る所にマジックミラーがあって、
 こちらからはあちらが見えるが、あちらからはこちらは見えていない、
 という事態にどこか、

 気の退けるような思いを、どこか、
 見てはならないものを一方的に見ているかのようなばつの悪い思いを、

 どこかしら後ろめたいような思いを。

 でも、それはわたしのせいじゃない、と言いたいような気持ち、
 わたしが曇らせたわけじゃない、と、
 どこかどこへも持ってゆけないような気持ちを、
 ずっと抱えたまま、立ち往生していたりした。

 いや、いまも、まさに。

 こんなことがわたしの弱点だ。

      
  
  
 こんな、いわば、らくだが針の穴を通るような何かが、
 わたしの弱点であり、
 摘まむに摘まめないような、
 あまりに小さなものをつい見逃しては、不意に当身をくらうような、掴めない何か。

 そう、こんな物言いも含めて、どこかしら、

 あたりまえすぎてわからないような何か。


 具体的にいえば、
 30万を返してもらいたい、それをあなたは返さなければならない、と言わないのは自分の弱さだろう、

 死床にある相手に20万を貸してと頼まれて貸さない自分が、30万を返してもらわないのはどこか自分の横着さなのではないか、と思う相手に、

 久しぶりに会って、

 どこか律儀さから、馬鹿さ加減から、会わなければいけないような気がしてならなかった、相手から、
 そういえば前にもそんなことを言っていたな、というような話、
 わたしという人間は、誰とでもセックスをする。

 ということを他人の口から聞かされたんだと言う。


 いや。
 こういえば、そこにある面、何の間違いもない。
 いや、わたしはする。

 自分が許可したものとはする。
 それがどうした、と思っている。
 目が合うこともセックスをすることも、同じだろ、何が違うんだ、と思っている自分がいるんだ。

 ここを自然に、あたりまえのように無頓着にしている、というよりも、
 そこのところにわざと挑んでいる自分がいる。
 何気ない隙でさえ自分の一部にしようとしている。

 単に地面であるところに落ちたがっている。
 そこは奈落ではない、永遠に落ち続けるような正体の知れない空洞ではない、たしかに底がある、
 というものへ落ちたがっている。

 
 そのひとが、厨房の人間から聞いた話だが、あの娘は誰をでも誘い、誰とでも誘われればセックスをするらしい、という話を、
 繋がりのある客に話し、
 そのお客から、そのひとは聞いた、という実に迂遠、
 実に身近、世間は狭い、
 こんな話を聞いて、わたしはどこか気持ちが悪い。
 錯綜し、縺れ、本題を見失わせる、
 そもそも直接いま、わたしと話をしているおまえは、いったい何の目処があり、
 何の意図があってそんな話を聞かせてくるのか、と思う。

 厨房の人間はわたしを悪く言うような人間だ、信用するな、

 と示唆してくるおまえ。

 目の前の相手を気持ち悪く思うこと自体に、わたしは気分が悪くなっている。

 どんなことでも、思いが形づくるものを、
 その力強い何かを、
 下ろしにかかる、
 何でもないものだとは言いかねる気持ちを、気兼ねを、
 わたしはこんなところに、持っていく。


 相手は何をどんなふうにも都合良く、また都合悪く、
 受け取るものだ。

 

 自分をどこかよそへ預けて、鵺のように、
 自分ではない他人のことを語る気持ち、
 それによって自己を表わす、どこかしら狡猾さ、どこかしら恐れ。
 そんなものを持っている。

 ここに正義感でも加われば、それこそ最悪なんだがな、とわたしは、
 自棄気味に思っていたりする。
 投げ出したくなっている。
 あまりに纏わりつくそれらを、一掃したくなっている。

 どこか、コールタールのような、それ。


 いや、わたしは戦う。
 おまえとじゃない、誰か、どこの誰とも知れないような目の前の相手とではなく、
 明後日くるような相手とではなく、
 己れ自身とだけ。

 

 感謝が大事なんだと母に言った。
 わたしはどこかリスクを求めている。
 それはどうしたってリスクであり、マイナスであり、
 自分に害をなすものである、
 そういうものをわたしは引き受けがちな、むしろ引き受けたがるところがある。
 おまえがどこまでわたしを下ろせるものか、やってみな、と受けてしまうところがある。

 なんでのんちゃんがそんな相手に感謝しなくてはならないのか、と母が憤る。
 わたしはたしかに、それを嬉しいんだ、ありがたがっている。
 こうでこそ親だ、母だ、そう思っている。
 わたしをどこまでも世の害悪から守りたがる母を、

 わたしはそれこそ、あんな雲助みたいな相手より、母に感謝している。
 でも、わたしは雲助に感謝したいところまで行きたいんだ、お願いだ。

 母であるあなたがそれを無理でも、わたしはそれを無理にはしたくはないんだ。

 わたしを信じてほしいんだ。

 あなたを超えてわたしを信じてほしい。

 
  
 色んなことがいっぺんにやってきて、
 一度に絡みついてきて、
 挑みかかってきて、
 わたしが挑まれたがっていたくせに、
 わたしは、ほとんど呆然としている、それだけのところがある。


 自分の描いたシナリオのあまりの不備さに、自分がどうしようもなく立ち往生している、といったような何か。

 明確にしておかなければ、という気持ちでいう。

 わたしが、わたしの心を決める。
 
 他はない。


 どこへ、何をしに、やってきたんだろう?
 そうふと思えばどこか、
 
 笑うことも、まして怒ることもできないような、
 どこかしらどんな感情でさえ白々しいような、

 自分が交わり方を知らない人間でしかないと、思い知らされるような何かを抱えて、悄然としてみせたりなど。