告別式、祝いの日。

恋とは必要以上に、

この現実以上に、相手に力を与えること。

たしかに恋とは最終的な病、

そう思う。

 


これを恋と呼ぶのなら、

それもいい、ほかに何と呼べばいいのか思いつかない、ねえ、いったいわたしはどうしてこんなことを、あんたには。

とオードリがどこか躊躇いを残して、カースティンに言い、言葉を途切らせる。

 


いや、そうだとわたしは言う。

それは恋に他ならないものだと。

 

 

 

店の若い子、あの鉄砲も持たずに戦場に行ってしまいそうな子が、

上のひとに戯れを投げかけられ、

何か返してよと迫られ、

いや、とだけ言う。

返す言葉がないことを、ないままに、何も言わないその子の、

賢さをみて、わたしは心で笑っている。

 


こんな賢さを失って、

ひとは愚かなお喋りでも無音を恐れ、無音を埋める。

 


恋は病に他ならないものだ。

必要以上に、相手に力を与える。

こんな現実以上に、相手を大きく力強くして、自分に与える影響力を妄想的に多大にする。

 


恋はいい、

イリュージョンのような現実に、現実らしさを与えてくれる。

より強烈な色彩をもって、この現実が迫ってくる感覚を付与してくれる。

 


なんだって病にすぎないところがある。

 


他者や、環境や、時代、

そんなもののせいにして自分を翻弄させうるひと、

どこか、他人という存在や、環境や、時代に恋をしているようだ。

 


恋はいいものだ。

病はいいものだ。

 


もう、わたしの耳にはそんなふうに聞こえてくる。

 


高校生のときに意識していたものは、

恋だった、

あれは恋に他ならないものだった。

 


強烈な憧れ。

 


わたしはどこか引け目に感じる自分を愧じて、それがために、口を聞きたくても何も話すことがなくなっていた。

 


あの恋は、彼女の口から、

わたしのことを、

精神の貴族だと、表する言葉をもって、

成就し、報われた。

 


わたしは嬉しいともありがとうとも言わなかった、何も言わず、

自分が報われたことを知っただけだ。

 


恋は報われることもある。

それはとても言葉では言い表せない。

それは、ただ知る、という状態にとどまって、自分をどこにも行かせない。

それは自分をどこにも行かせないような何かだ。

 


この恋の息の根が止まることを、

待っているとは思わずに待っていた。

それは死に絶え、もう息をしていない。

今日はお葬式、告別式。

 


しんだこと

かんしゃ

しているよ

 


甥っ子が祖母の棺桶に入れたメッセージ。

 


賢いねってわたしは嬉しくなって叫んだ。

 


そう、それは死に絶えて亡くなり、

わたしはそのことに感謝している。

そのことを祝っているんだ。

 


告別式、それは祝いの日だ。

 


わたしはこれが恋であることを、

他愛もなく恋でしかない、そんなことをやめて、

駒を進める。

 


詐欺師みたいなものになりたいんだ。

騙すの騙されるのって、

 


いわば、いじめはいじめられる方が悪いって考え?と迫られることの、

もういいそれ、飽きた、

あの続きだ。

 


悪いかって悪いに決まっているだろ。

自己責任だ。

 


同じ価値観、同じ恐れを抱くコインの両面を、立場を異にしてお互いに担当し合っている、

それだけだ。

 


悪いに決まっているだろ、

あのときそう言い放ってしまえるわたしなら、あのひとは死にきれず、そんなコインをもう、ただ地面に落としたかもしれない。

 


それがどんなコインであれ、

どこか娯楽的に、

わたしはそれを提供する者でありたい。

それは娯楽、エンターテインメントにすぎない。

良いも悪いもない。

 


騙すのが一番悪いけど、騙されるのも悪い、

いや、一番も二番もあるものか、

一緒だ。

そんな甘いことを言っているから、

こんなコインを買うばかりで、

売ることをどこか恐れ、

創造し、提供することが出来ない。

 


与えられる期待ばかりで、失う恐れから与えられない。