続・小町おもしろい、あるいは、

 小町がおもしろいついでに、
 今日も小町ざんまい、「ベラスケス」の本はそっちのけで期限が切れていたので返して、あらたに「ロートレック」と「ウォーホル」(いずれも「TASCHEN刊」)を借りたがまた小町。
「義母が家にきました」だったかな、夫の母親と同居する話で、
 このトピックをたてたひとは実に冷静で、どことなく自分に似ているという親近感をもつ。
 彼女の課題って何なんだろうな、と思う。
 わたしは、自分の課題とは「ひとは一人では生きられない」ということかな、と思うんだ。
 わたしは子供がいないどころか、結婚もしていないので「義母」とやらが家に転がり込む、失礼招き入れる、来て頂く、という状況はまずありえないのだけど、
 
「誰か(ストレンジャー)」の存在が日常に入り込んできたことによる異物感、苦痛、ストレス、それまでの平穏が乱される、
 という、状況認識とまで抽象化すると、まあ、想像できなくもない。
 
 わたしが彼女に親近感をもつのは、彼女が、自分はひとりでも生きられるようにする、ということに実に固執するというか、
 そこを極めたいというか、
「他人に負担をかけたくない」というか、
 そういう気持ちってたしかに、わからなくはないと思うから。
 そして、この義母が、「妻として、母として、祖母として」常に誰かをサポートしサポートされる存在として、「自分」「一人」という立場を経験せずして生きていた、ということが「合わない」もっと言えば「嫌悪」を感ずる、という気持ち、まあわかります。
 
 なんでこんなものがやってくるんだ?!という感覚って、なんかわかります。
 今日、そういえばすっかり忘れていたけど、以前ちょっと親しくした男の、店舗に必要な備品のリースの名義人、保証人になっていた、代金立替会社から期日過ぎています、お金振り込んでくださいっていう通知を受け取って、
 いやいやもうこれまたか、
 とうんざり且つひやひやするのと似ています。
 わたしは自分が借金はしないって思っている。
 家のローンなんて組みたくない。家を買うなら一括で買いたい。そこではじめて、ローンの方がお金が浮きますよとかいう話に一応は耳を傾けてもいい、が、
 架空の金を借りてまで家を購入するなら、現金払いの借家に住んでいたい。
 ともかく借金はめんどくさいからいやなんだぜ、と思っている。
 ところがそのかわりに、自分としては直接借りないかわりに、借金の肩代わりを最悪の場合しますよという立場に身を置くことには軽はずみに、あるいは、拒絶しかねることとして、同意したりしている。
 
 全部要するにマッチポンプなんだよと思うわけ。
 自分じゃない、自分じゃないと言いながら、そうした立場や意思を取り繕いながらも、
 それが「必要」なことだったら、めぐりめぐって自分のところへ必ず還ってくる。

「いやな予感ほど的中する」みたいなもの。
「いや」なことは「必要」なこと。
 自分が肩代わりしているような体裁だが、実は他人に肩代わりさせているようなもの。
 そのツケは必ず自分に還ってきます。
 
 このやけに「返信」が丁寧かつ、冷静というか親身というか謙虚、いや謙虚とは思わないが、
 ここへちょっと参加したいような気もしつつ、しないのだが、
 この小町の、相談者と自分は類似している、という気持ちに気づいたのは確か。

 そこで唐突のようだが、「引き寄せの法則」についてちょっと自分なりの理解を示してみたい。
 わたしはこれを、まあ時系列は忘れたけど、「エイブラハム」によってはじめて思い出した、というか印象づけられた。
 それで、友人の一人に、引き寄せるんだよってな話をしているときに、
 ああ、引き寄せね、あればいいよね、というレスポンスをもらって、
 いやいやいや、違うよ。
 あればいいね、じゃない。
 それはすでにある。これまでもあったし、たったいまもある。

 アラジンの魔法のランプの精、の子孫だったらいいのになあ、とかじゃない。
 
 あなたは、わたしもだが、いまこのときも着々と「引き寄せの法則」によって現実を構築している。
 引き返せない。


 わたしは、人生において「取り返しのつかないことはない」というのが信条だ。
 嘆いたり絶望したり落ち込んだりしているひとにはきっと伝えたいと思う。
 また、自分がそうした状況に陥っても思い出したいと切実に意思していることだ。
 
 引き返せない。というのは、
 過去には戻れないということだ。
 そして、今から先は決まってはいない、ということ。
 
 引き返せない、というとまるで未来まで決まったことのように思う、あえて言うが「怠惰」なひとがいる。
 ものすごく「陳腐」なことを言っているんだよ、
「そんなの聞いたことあるよ」ってことをわたしは言っている。
「取り返しがつかない」は、「過去には戻れない」ってこととイコールじゃない。
 取り返しがつく、とは、過去に戻れる、とまんまイコールじゃない。
 ちがうよって。
 過去に戻ってすべてをやり直す必要はない。
 そんな必要があると思うのは、おそらくあなた自身の他をおいていない。
 あなたの身に起きたどんなことであれ、あなたの財産である。
 それは誰に奪われる心配もない。
「経験」という個人的なものは決して奪われることがない。

 お金ならば、評判ならば、奪われることはあるだろう。
「処女」を奪われるなんてこともあるかもしれないですね。
 考え方しだいによってはね。
 奪われた(あるいは与えた)、と認識することは自由だから。
 つまり「経験」を奪われないのと同様、与えることもまた不可能だ。


 わたしたちに可能なのは「力になりたい」と願うことまたは「力になりたくない」と拒むこと、そこまでだ。
 それ以上はできないことになっている。

 わたしたちは思いのほか、思っているよりずっと、「抽象的」な思考のもとに生きている。
  
 ふと思い出した、今朝出勤したら、時間交代する同僚から、
パラレルワールドで自分が地点Aから地点Bへと移動したとき、地点Aには自分が存在しているんですか、存在していないんですか」と(もっとなげー質問だったが端折ると。)聞かれて、
「してるよ」とだけ答えた。
 もっとよく聞いてもよかったが問答を引き伸ばしても同じだろう。
「自分」は「どこ」に「存在」しているか、
 という「自分」をどこまで狭めるかによるだろうね、と思ったけどそうすると話が長くなる。
 
 わたしの答えが、わたしの答えだ。
 誰に証明する必要もない。必然もない。
 いつだって取り返しはきく。
 いつだってそれは保証されないものでありうる。

 あなたが誰の力にもなりたくない、と願おうと(そんなことは不可能なのだが!)。

 

 引き寄せね。
 引き寄せとは要するに、コーヒーのみたいな、はいコーヒ-(ポンと宙から出現する)、みたいなものじゃなくてさ、いやそうでもいいんだけどさ、
 あるいは、百億円ほしい、はい百億円、とかじゃなくてさ。もちろんそうでもいいんだけど。

 これは間違いなく受け売りだが、「感情が作用点」ってのは本当だと感ずる。
 
 作用点、なんだっけな。ほかに力点、とかあったね。なんか中学校の理科で習いましたね。
 忘れた。
 ようするに重力に関係する何かなのさ。

 なんていうか、
 なんて嬉しいんだろう、なんて喜ばしいんだろう、なんて世界って素晴らしいんだろう、と感激して瞬間浮き立つような気持ちっていうのはまちがいなく、世界にとって有益だ。
 あなたはその瞬間意図せずとも抱えきれないほどの喜びが、内から外へと溢れ出ている。
 だが、その次の瞬間、待てよ、でもこれって、と思考をめぐらせると、また違うものを世界に付け加えることになる。
 
 他人の不安を解消してあげたいと思うのは罪ではない。
 でも厳格なようだが、そこにあなた自身の不安をも解消したいという気持ちがあるのであれば、それは不純じみてくる。
 あなたの不安をあなた自身によって解消することが不純だってことじゃない。
 あなたの不安を他人に託すことが不純なの。
 あなたは自分自身を力づけたいのにそうは出来ずに他人に対してそれを行って、代償行為とする、ってことが、不純なの。
 他人を力づけることが不純なのじゃない、それが自分にとっては代償行為であることが不純なの。
 
 正しいかどうかより、感情がどうか、なの。
 ちょっと前になんかで読んだ、不倫している奥さんよりそれを責めている旦那の方が不幸だよ、地獄へ落ちるよ、なんていうと、まったく反感を買うのはわかるけど、これはある意味真実を衝いている、というのと同じようなこと。
    
 自分の人生を生きねばならない。
 自分の気持ちを生きねばならない。
 
 地獄も天国も所詮自分の心の中にしかない。

 男も女もない、親も子もない、わたしもあなた、もない。

 感情が作用点、について一つ思い出すのは、納豆は好きじゃないけど身体に良いと聞いたから食べている、というエピソードだ。
 いや、そんなら、やめときな、と思うの。
 こんなことを数値に直すのはまったく馬鹿げていると思うが仮に、
 納豆を食べることが100良いとして、あなたが実は好きじゃないのだけど、と思う時点で、その思いにもよるが、100からマイナス50、マイナス100、下手をすればマイナス150(結果マイナス50)という作用を及ぼしていて、
 それこそ食べないほうがマシ、ということだってありうるわけです。

 

 正月に妹に会った。
 おでこと顎にニキビが出来ていて、なんだそれ、とわたしは何だか、咎めた。治しなって。
 治したいよと、控えめにいわれた。
 治したいけど、どうすればいいかわからない。
 薬も試している。けど改善しない。
 
 薬なんか効かないよと、少し経っていうと、わかってる、という。
 わかってるんかい。
 いや、薬が効かないわけじゃないけど、薬なんか効かない、というと、わかっている、なんて答えるひとにはよっぽど、効かない。
 ストレスじゃないの、と聞くと、
 仕事が?と答える。
 知らねーよ。普段どんなふうに仕事に臨んでるんだよ。

 知らない、そんなことは自分にしかわからない、とわたしはいった。
 
 妹とは、かれこれ、30年の付き合いはある。
 でもおそらく、10年来の友だち、ほど喋ったこともない。
 とはいえどこか、一晩中×365日話し明かした友だちよりも、

 深く知っている。

 
 なにせ生まれた年月日、曜日、その日を覚えている。
 今日は妹が生まれる日なんだと思いながら丁寧に、小学生のときノートに日付を書いたことを今でも克明に覚えている。
 母親に、妹か弟ほしい?と(今思えば少し照れくさそうに)言われたことを、まったく今の瞬間のように覚えている。
 八歳か九歳のわたしは、別にいらないって言った!てことも。

 家にあった本の何が、どこが、面白かったということが妹と奇妙に酷似していたりする。
 わたしには出来て、彼女には出来なかったこと、
 彼女には出来て、わたしには出来なかったこと、
 この違いを実におもしろいと心にとどめている自分がいる。
 歳の近い弟に対してもある。とってつけたようだが。でもわたしは男の心配はしないのよ。
 
 わたしはいつだってそう、
 自分のことは自分にしかわからないよって、そんなことしか言えない。
 自分を他者(たとえ親であれ!)に預けることが好きそうなひとは周りにいくらでもいた。
 それは、怠惰でもあり、相手にすべてお任せしますということが親愛なる情の、最大級の表し方だと深く信じている態度でもある。
 
 わたしが気にしなきゃならないのは、それは怠惰だ、と宣言することじゃないんだなあと最近つくづくと、思う。
 じゃあなんだって言われると困っちゃうんだが。

 自立することの素晴らしさ、ひとは自分一人では生きられないという素晴らしさ、
 すべて素晴らしさであって、苦悩などではないということ。
 自分一人でもこれだけ楽しめるんだぞってこと、
 他人とでもこれだけ楽しめるんだぞってこと。
 
 わたしは深く深く下がる、下りる、もっと深いところまで、しかも自分をもって。

 自分、とはバランスの指標になるものだからだ。
 自分が未熟なら水深1メートルがいいところ、それ以上深みに嵌れば今回の生を失うよ。
 指標たる自分を失えば、生きている自分を失うよ。

 

 自分がなきゃ世界は見られない。

小町おもしろすぎる、なんとかして。

 いやもう、小町おもしろいわー、とだけ。
 その恒例の出来事が起こるたびに「わたしはあの日に連れ戻される」とか、
 文才あるなあと感心しきりだ。
 その相談者は、夫の奨学金返済について、夫の親がまったく、なんというか、嫁への気遣いがない(ていうか、親として「スジを外した行い」をした、という自認がない)ってことにものすごくモヤモヤしていたわけなのだが、ここは価値観ですね、
 説明させてください。という喩えがわかりにくいと不評だったらしく途中で切り上げていたが、
 その喩え(車を二人で購入したときに、みたいな)もわたし的にはすごくおもしろかった。

 というのは常々、あっちのスーパーでは青ねぎがいくら、こっちのスーパーではいくら、差額はいくら、という、
 その何円か何十円かの「浮いた」(あるいは損失した)お金ってどこへいくんだろう?
 と、すごい不思議な気がしていた。
 これはその額が少ないから、というわけじゃない。
 お金ってすごい抽象的だなと思うの。
 
 というか損とか得とかって、本当に考え方次第だなと思う。
 人生万事塞翁が馬。
 青ねぎで浮かせた何円、つい急いでいたので乗ってしまったタクシーが千円(なにがどうあっても無駄にタクシーに乗るようなことはしません、とかあるだろうが、それはまたともかく別の機会で)、
 タクシー一回の乗車でいったい何十回青ねぎで節約しなきゃならないんだ!!と思えるとおもしろい。
 それは具体的な「一円」にとらわれているからだよね。
 このアルミで出来た一円はどうしたって一円っていうこの客観的な数字。
 (もちろんここに何かしらの付加価値があればそれは百万円したって不思議じゃないね。マイケル・ジャクソンのサインがあるとか、マイケル・ジャクソンが呑み込んで尻から出した一円だとか。うん、ごめん冗談)

 あとなんか。
 娘の孫との関係について、親が口を出す。
 保育園で児(孫)のティッシュカバーがなくなったことを園に相談しよう思うと娘がいう。
 それについて、
「そんな小さなことで一々、園に負担させるものじゃないよ」的なことを親が諭すと、
 娘がふいに決然と、
「おかあさんはいつもそうだった。わたしが陥った状況に困っていても悲しんでいても、相手にするな、としか言わなかった。わたしは自分の娘に自分が味わったような絶望は味わわせたくないの」というの。
 おかあさんはひどくショックを味わってしまう。
 娘には、しょうもない他人に振り回されず確固たる自分を確立してほしかっただけ。
 なのに、そんなふうに受け取られていたなんて。
 まさか今になって、自分が責められるなんて。
 わたし、間違っていたのでしょうか。

 わたしはなんだかすごい、これは、考えさせられましたね。
  
 というのは、
 まあ、なんだろうなあ。
 家庭を一歩出た、ひととひととの関係っていうのは、親子的ではない。
 わたしはあんたのママ(パパ)じゃないのよ、とかある。
 翻るに親子的であるとはどういうことか。
 相手の心情に寄り添うことってたとえ親子であっても本当に難しいし、だからって、その難しさを投げ出すのでは、成長がないという気がする。
   
 正しいことを決めるのは容易ではない。
 というか、正しいことなんて、逼迫した一対一の関係性においては、むしろ不要だ。
 よく小町でも、じゃああなたはここでAは正しいと言われたらそれに従うんですか、間違っているといわれたらそれに従うんですかと。
 それで思い出すに、うちのオトンがよく言っていたのは、誰か(オカン、だった気がする)が言っていたからそうする?じゃ、誰か(オカン)が死ねっていえば死ぬんかい、という冗談口だった。
 いやこれは真理ですが、
 真理が常に誰をも納得させるわけではない。
 わたしは納得したが、わたしが納得したことをもって、じゃああんた、そのひとが死ねっていえば死ぬの、なんて言ったからって相手が納得するとは限らない。
 極端な話はするなと思われておしまい、でもありうる。
 全然親身になってくれないなあ、と失望される可能性はおおいにありうる。

 要するに、自分が納得した話をもって、相手を説得できると思うのは間違いだということ。
 それって結局自分が納得した話、自分のストーリーを一方的に語っているのにすぎないんだね。

 なんていうか、たとえ、世界中の誰もが自分の話に同意してくれたとしても、目の前の一人が納得してくれないのなら、自分の力は及ばなかったと認めるのが相手に対する誠心誠意なのかな、と思う。
 それは誰をも自分に従わせるとかそういうことじゃなくて。
 相手の力にはなれなかったということ。
 
 ていうか、要するに、
 相手の身になる。
 どれだけ自分を捨てられるか。
 これに尽きる。

 自分って捨てても捨てても、捨てるというとなんだけど、削いでも削いでも、というか、
 なくならない。
 そこを惜しむのは、違うね。

 惜しむのは違う、自分がなくなると恐怖するのも違う。
 なくならないから。

 

   *

 

 

 言葉はどこまでも横滑りする、なんとかして。
 
 結局、インフルエンザだから経済的にしんどい、とかどうとか、そんなことは、聞いて、わたしにとってはなんでもないというとき、
 わたしは力を得る。
 あ、そんなことは何でもないと他人の経験を通じて客観的に強くなれる。
 でも、ああ、それはたいへんな苦境だったねと、相手に寄り添うときおそらく。
 わたしは一段すすむ。

 まったく不思議なことだが、ほんとうだ。

 自分に対する厳しさが、相手に対する厳しさを育ててしまう。

 前だけ見ていても壁にぶつかることはある。
 自分の未来だけを見ていてもどうにも進めないことがある。
 自分だけが「良く」なってもある意味それはまったく無力なのだと気づく。

 ところで、昨日十日えびすへ行った職場の友人と、話していて思ったのだけど、
 彼女は、かつて新入りの同僚から「プラス」だと言われていた。
 その新入りさんは、まだ若く、未経験で結局仕事を辞めてしまったのだが、幽霊が見えるひとだった。
 それで、幽霊に対していかに処するか、という話からか、なんだったか、
「プラス」のひとには幽霊は近づけないと言っていて、
 いやいや「プラス」ってどういうこと?と興味深く問うと、
 わたしはどちらでもあるんだって。
 幽霊の見える彼女自身はどちらでもあるというより、マイナスなんだって。
 わたしはそのプラスらしき友人に、あなた「プラス」らしいよということだけ本人に伝えていて、プラスってどういうこと、と再三聞かれて昨日ふと思ったのは、
 
 なんだろうな、「罪悪感」のなさかな、ということだ。

 なんていうか、どんどん横滑りしてしまうのだが、筒井康隆の「七瀬ふたたび」という小説で、
 エスパーである七瀬が、連れの女性と一緒にいるといいと助言されてそうしていたら、連れの女性が七瀬の代わりに**されてしまうという顛末をむかえる。
 その**される女性の精神は常に躁状態であり、のべつまくなし、あらゆるパワフルな想念が脈絡なしに、あるいは彼女なりに脈絡があって同居しているのだが、所詮他人が理解できるものではない、という感じ。
 
 わたしはなんとなくその、彼女が「プラス」だと聞かされてつらつら思うに、どことなく、その小説に出てくる女性みたいだなと、
 連想してみたりしていた。
 わたしが七瀬だというわけじゃないが。
 
 罪悪感がない。

 ということは、実際たいへんなプラスなんだ。

借金を申し込まれたらあげる

 わたしは、斉藤一人さんにともかく賛成だと思えることがある。

 それは、堅実さだね。

 

 一を十にして、十を百にして、という。

 

 あなたは、あなたの発したもの、あなたが蒔いた種を受け取るだけのことだ。

 

 くだんの、お金を貸してほしい友人は、お金を稼げなくなった理由を挙げる。

 インフルエンザだとか、要するに身体の予期せぬ不調について。

 

 理由なんかどうでもいいよ。

 

 それはいずれにせよ過去の遺物だ。

 

 お金を貸してほしい、あるいは出資してほしい、というからには、過去どうであったかという実績あるいは言い訳なんかより、いまこの時点からの未来への展望がいる。

 もっといえば、いまどうであるか、ということがすべてだ。

 

 一を一々十にして、十を百にして、百を千にするんだよ。

 それは苦悩だとか苦痛だとか、我慢だとか、そういうんじゃないのよ。

 

 あなたが苦痛だと思っていることは、いっこも苦痛じゃないことを知るんだよ。

 

豊かさ。

 わたしは傲りを忌む。
 
 行こうと思ってから二度目の金沢。
 日航ホテル29階のバーから眺めた空は真っ暗でむしろ地上一面に星が瞬いていた。
 
 翌日、ホテルの部屋でまどろんでいるとき、友人からお金を貸してほしいというラインを受け取る。
 
 あなたはともかく受け取ってと、わたしは帰宅してわたしの部屋に招いた友人にいう。
 どれだけ伝わっただろう。
 
 明日晴れならば喜んで、とわたしはいう。
 ううん、そんなことで歓べるかなあと彼女はいう。
 明日は雨かもしれない、けど、
 そんなことじゃないんだよ。

 明日晴れだろうが、雨だろうが、曇りだろうが、日食だろうが。

 それがなんだろう。


 あなたは明日晴れであれ雨であれ、それを識る、それを識れる自分自身尊いことを知るべきなんだよ。

言葉は、いまという永遠にささげられ続ける供物だ。

「豊かさ」について、バシャールは「やりたいときに、やりたいことができること」

 厳密には、「する必要があることを、する必要ときにやれる能力」と定義している。
 わたしは、「ガラクタ捨てれば自分が見える」の中にでてくる、「ある日家に帰ったらステレオが(盗まれていて)なかった。そうしたら「ありがとう神様」と感謝する」というエピソードが好きだ。
 これは宇宙(神様)(ひいては自分自身)に対する絶大な信頼を物語っている。

 あなたは、あなたさえその気になれば、そのとき必要なものを必要なだけ受け取ることができる。
 
「あなたを傷つけられる者などいない、あなた自身のほかには」という言葉も好きだ。
 エレノア・ルーズベルトの言葉として知ったが、あっこれは本当だと嬉しくなった。
 どんなことが起きたとしても、わたしたちは心の奥底で同意している。
 この際心というのは、マインドのことではなく。
 むしろ魂というほどの奥深いところ、感知しえぬところで。
 感知しえないものが現実と呼べるかというと、まあ呼べないので、そこのところが「問題」だけど、ともかく、
 あなた自身が同意していないことは、人生に起こりえないのだと思って自分自身を点検してみよう。
 
 人生の苦悩とは、自分が創りあげた幻想の中にだけある。
 そして、人生の喜びもまた、自分が創りあげた幻想の中にだけある。
 
 記憶っていうのがおもしろいね。
 あなたは昨日はすがすがしく晴れていたのに今日は曇りだと、ちょっとだけ残念な気持ちになる。
 昨日の天気を記憶しているから、今日の天気についてあれこれ不満を抱くことができる。
 もし、いついかなるときにも今日の記憶しかなければ、晴れだろうが曇りだろうが雨だろうが、それ以外の天気と比較してみることはかなわない。
 今日はよく晴れているな、と感じること、気づくことさえできない。
 記憶は、昨日と今日、瞬間Aと瞬間Bをつなぐ(ただし、任意で)。
 
 のび太の仮想実験で、「もしどこでもドアがあれば」というのがある。
 開けたドアをくぐった瞬間、のび太は細胞レベルまで分解されてなくなり、向こう側へ出るときにまた一から再生されるのだ。
 このことを「妄想」たくましくして、ドアの中に閉じ込められ消されるのび太Aと、向こう側で再生されたのびたBに分けて描いたマンガがある。
 それでもあなたは「どこでもドア」を使いますか?というもの。

 これはまったくよくできている。
 われわれの根源的な「恐怖」をよく表している。
 つまり、のび太Aとのび太Bを「分断」すること。
 
 わたしたちは何だって分割し、区別する。
 わたしとあなた。
 日本人と外国人。
 わたし、と猫。
 女と男。
 親と子。
 のび太Aとのび太B。
 自己さえ引き裂かれるということ。
 そしてたしかにこれ以上の恐怖はない。

 フランス語でいうパピヨンは蝶でもあり蛾でもありそこの区別はない。
 ブラザーは男兄弟のことで兄とか弟とかいう区別はない。
 中学英語で習ったときにまったくヘンな気がしませんでしたか?
 不便じゃないのか?と思わなかっただろうか。
 
 言葉は概念だ。
 ソレに該当する言葉がないということは、そこを区別しよう、違いを見出そうという概念がそもそもない。
 どこでもドアがあればいいのに、とその便利さだけに注目するとき、わたしには、わたしAとわたしBなどという区別はない。
 
 世界はパラレルワールドだというとき、
 あの誘いを受けたか断ったか、とか、
 普段は意識しないような、白い靴を履いて出たか、黒い靴を履いて出たかで、世界は変わってしまうのか、
 あるいは、
 6時03分に起きたか、6時05分に起きたかということでさえ、その後の世界を変えてしまうのだ、と「想像」すると、まったく、
 おちおち寝たり起きたりもできないという気がしてしまいかねない。
 
 ドアに手をかけたのび太Aは、どこでもドアをくぐることなく、ドアの挟間で焼き殺されてしまう。
 そこに注目したとき、そこでののび太の絶望と後悔に寄り添ったとき、たしかに恐ろしくてとてもドアをくぐる気になれない。
 そして、そういうことって、現実にもよくあることですね。
 想像することによってわたしたちは未来への一歩を変えてしまう。
 物事にはすべて両面があり、
 何が良くて何が悪いのかということを考え出せば、どっちだってあると思えて、そんなもの、良いか悪いかはなんの決め手にもならないということに気づかざるを得ない。
 わたしたちは、わたしたちの選択が、自分自身のありかたを決めるとわかったとき、恐ろしくなってしまうということを体験する。
 しかしまた、自分の選択次第で変わることがあるのだと思うとき、恐ろしさよりも希望を見ることだってできる。
 そこに限りない自由を見ることもできる。
 
 自由を愛するひとばかりではないということですよ、というエイブラハムの言葉は、わたしにとって強烈な体験だった。
 そうなのか。
 そうか。
 なるほど、
 そうだったのか。

 それはどこかで自分をより解放する魔法の言葉でもあった。
 わたしは自由であることは誰にとっても無上の喜びであると信じてやまなかったのだ。
 基本的に空が青くて、山が緑であるのは疑うべくもなかったのだ。
 空が鉛色、山がショッキングピンクに見えているひと、いやむしろそうした色を見出そうとしているひとがいる、などということは想像だにしなかった。(喩えですよ)

 誰だって自由を求めているはずだと思い込んでいるから、
 不自由をかこっているひとを見ると、そんな必要ないでしょうなどと、いてもたってもいられない気持ちで声をかけたくなったりしていたのだ。
 自由の定義。
 それは、豊かさの定義にもつながる。
 自分の蒔いた種は自分が刈り取る、という自覚、または覚悟をもつこと。
 
 しかし本当は、誰だって自足している。
 誰それは自分のしでかしたことの責任を取ろうとしない、なんて実に表層的な判断にすぎない。
 自分の蒔いた種を刈り取らぬひとはいない。
 そういう意味で、宇宙とは完璧だ。
 だが最近思うに、宇宙人でさえ、そのことを完全に信じ切れていない人は、いるのかもしれない。 
 

 自分の身に起きたことは完璧なタイミングで起きている。

 そして人生において、宇宙において、取り返しのつかないことはない。

 あせらないこと。

 あせりは貧しさの最たるもの。

 もちろんわれわれには貧しさを選ぶ自由さえある。

 それは自由なのであって必然ではない、逃れられぬ運命などではない。

 貧しさという冒険に乗り込むときには、悲壮な顔などせず、笑いながら突入せよ。

 それがバランスだ。

 

 現状に満足することって向上心を失うことじゃないですか?などと言われるね、

 まったく違うね。

 あなたは自分が呼吸できることにはたして感謝したことがあるだろうか。

 自分の足で歩けることには?

 むしろ、歩くの億劫がって電車やタクシーを使うのではないか。

 自分の鼻で匂いをかぎ分けることに関しては?

 むしろ、臭いドブの匂いに悪態をついたことはないか。

 

 現状に満足することは向上心を失うことじゃないですか?などというひとは、

 現状に誠心誠意、身に余る光栄のように感謝したことのないひとだ。

 いつだって豊かさや満足とは、いまここにあるもの、いまここにしかないもの。

 あなたがいまこの瞬間なにかしら不足を覚え、不安に脅かされ、物足りなさを感じているのなら、あなたは貧しいのだ。

 向上心を失うだなんて明後日の心配なんてするな。

 

正月あけて今日は久しぶりに妹にも会った話

 新年あけましておめでとうございます。
 ところで、今年は誰にも新年の挨拶を発信しなかったら、一人からしか受信しなくて、今更送るくらいなら元旦にでも送っておけよなあ、わたし、と思って、送るに送れず、
 マドマドするのである。

 まあこれもそれも、そういう時期なのかもしれないですね。

 礼儀とか礼節とか挨拶とかなんか、そういうのに後ろ髪をひかれなくもないが、
 そういえばもともと、そこに引っかかったんだよなあ。
 
 わたしは中学生の頃に、部活の先輩から挨拶することを促されて、まったく抵抗しかなかったが(そんなに挨拶したいんなら自分からしてこいよ、返事を惜しむ気はないぜという、まあ「不遜」な感じではあった。いやそこまで開き直る前にはずいぶん葛藤したが)、そこで得た「答え」とは、
 誰かにとっての「正解」とはわたしにとっての「不正解」だってことだ。
 逆もある。
 わたしにとっての「正解」は、誰かにとっての「正解」ではない

 

 いったいわたしがなぜ生まれてきたのか、生まれてこようと思ったのか、それはわからない。
 仮に、遊びに来たんだって繰り返しているけど、それはそれでわたしの思いつくかぎり一番マシな答えには思えるけど、ただそれだけのことだ。
 皆が皆、遊びに来たんだとは、思っていないつもり。
 でもなぜ肉体ある生を選んだのか、ということは、
 あるいは「エゴ・フレーム」が備わっているのか、「わたし」という意識があるのか、ということは、
 最大限その恩寵に預かる/受け取ることが、わたしは「正解」だと思っている。

 たとえ、心を無視して身体を酷使して、癌で死のうがね。
 いや、「わたし」は、癌で死ぬ気はないけどね。  

 わたしは自分のカルマが何だったのか、よくわかっていないのだが、
 カルマ、つまり「遣り残した思い」というほどの意味で使っていますよ、
 そういうものがあるとして。
 もしかしたら、ないんじゃないか、という気もしているけど、
 だって何ぁんにも思いつかないんだもの、
 でも、
 執着がないよなあ、いやむしろ執着を嫌ってさえいるかも、ということを折にふれ思うにつけ、
 どこか後ろめたい感じを払拭できずにいる。

 たとえば、最近友だちにいわれたのが、
 あなたは実にあっさりとモノを捨てるよね、と。
 それを羨ましく思う気持ちはあるといわれても、なんだか、座り心地が悪い。
 その友だちは、服だけは捨てられないといっていて、
 いや服だけだろうか、あなた、はたして、とよぎるけどそれはともかく、
 でもその捨てられない服を実に大切に扱ってはいるんだよね。
 手入れに怠りないし、
 靴下なんかでも一月前のも三年前のも、買ってまもないのかと区別がつかないほどだ。
 わたしは何だったら一日履いただけでも、一回洗濯しただけでも、くたびれさせてしまう。
 モノを大切にする気持ちがないんじゃないかなあ、という気がする。
 
 今日、正月なので久しぶりに九つ歳の離れた妹とも会ったら、
 きれいに畳む(包む)ね、という話から、発端は食べ物ですが、北京ダック的なもの、
 洗濯物なんかもきれいに畳むの、と聞くと、
 お母さんが畳んだものを(気に入らずに)畳み直すから嫌がられている、という(妹は実家住まいです)。
 へーえ、じゃ靴下はどうやって畳むの、と聞くと、
 踵で重ねて一度か二度折り。
 足首のゴムで折り返したりしないの、と聞くと、
 ゴムが伸びるやん、と嫌がる。
 ふぅうん、やるなあ、と返した。
 ちなみにわたしは、ゴムで折り返して無雑作にひきだしに放り込む程度。
 とはいえ、それまでにゴムが伸びる!という話をきいて納得していたのもあり、今日バーゲンで買ってきた新しい靴下をしまう際、すでに持っている全部の靴下を踵で二三度折りにして、しまいましたが、あれは、なんだろう、一個一個仕切りいるよね。
 下着も買ってきて、全部一応畳んでみたのだが、仕切りがなきゃ立たないじゃん。
 立たなきゃくにゃくにゃと倒れて右も左も一緒くたになっちゃうじゃん。
 わたしには立てられません。
 そうそう、それでちょうどゴミの日だし、新しいのを買ってきたし、古いのを捨てようと思ったら、ない。
 トレフルの下着、いや、新しいのを買ったら捨てようとは思っていたけどさあ。
 ええっと自分を疑う。
 まさか買う前に捨てていたとは。
 いつのまに捨てたのかまったく覚えがない。
 先週は確かにあったと思うのだが。
 
 いつかの夏に、今着ないものは全部いらないやと思って捨てたら、冬になって夏服しかないことに気づいて愕然としたこともある。
 ダウン持っていたはずなのになあ、決して安物じゃなかったのに、でもそういえば確かに捨てた、捨てたわ、だって小っちゃい穴が空いてたんだもん、と思い出すんだけど、
 それにしても、なんという先行きの不安のなさ、計画性のなさ、と思って自分でもあきれた。
 というか、当初あれっそうか、と思ったときには笑ってしまったけどね。

 その、笑っているのを笑っている場合じゃないぜ、という感じもまあ、なんだろうなあ、
 わからないわけじゃないはずなんだけどなあ。

「22を超えてゆけ」が実に本当におもしろかった。いつか感想とか書きたい。
 ついで、堀江貴文の、「人生カネじゃない」かな、これは読み終えていないが、
(新しい環境に踏み出すことが)怖いって感覚はわからないけど、といっていて、
 怖いってわからない?
 まじ?
 いや、わたしも、
 グリム童話にある「怖いものを知るために」ナントカカントカって話とか、日本昔話の「まんじゅう怖い」とかに、
 共感する方ではあったけれども。

 この世にある怖いものを知りに来た、という気はしている。
 わたしはたしかにちょっとズレているけど、怖いものがないわけじゃない。
 
 そう、「22を超えてゆけ」にあった、両サイドにある狛犬に、「汝自分自身を知れ」「汝自分自身で在れ」と刻まれていた言葉は、
 そのとおりだなと思った。
 自分自身を知ることは静かにもできる。
 学校なり会社なりへ行って帰ってきて眠りにつく前とかに知ることができる。思い出せるんだよ。
 ところが、自分自身であること、というのは、未来形なんだな。
 絶えず脅かされているものであると思う。
 脅かされているが大袈裟ならば、なんだろう、絶えず葛藤にさらされている、というかね。
 
 まあ人によってはその比重は異なるかもしれない。
 
 わたしは、「自分自身を知る」のは、一人静かになれば何とかなると思えることだった。
 自分一人でいるときに嘘はつけない。
 嘘をつく必要はない。
 ところが、どうしたことだろう、「自分自身で在れ」という言葉からは、
 他者の介在、思惑を抜きさるのは、なぜだか困難を伴う。
 意外と鈍感じゃないんだよ、他人が何を求めているのかってことはわかるの、
 こう答えれば相手は束の間の安心を得るのであろうということはわかる。
 
 わたしは自分が何のために生まれてきたのかは知らないが、「汝自分自身で在れ」ということを、
 言葉によらず体現しにきたのではないかなあ、という気はしている。
 
 ホリエモン読み終えて思うに、わたしにとって怖いこと、それは「自分自身で在」らず、という状態になること。
 あとなんだ、印象的だったのは、「リスク」だ。
 リスクって面白いよなあ。
 わたしは普段リスクなんて見るなと言ってきたけど、それはリスクを理由に、嫌だけどここにとどまるという選択をするひとが多いからだ。
 リスクを恐れて新しい一歩を踏み出せないのなら、重箱の隅をつつくようにリスクを探す必要はない。
「やらない」理由探しのためにリスクを挙げるのは、小賢しいだけにタチの悪い××みたいな感じがする。
 しかし踏み出すならばリスクを見よ、だね。
 
 踏み出さなきゃなんでもない。
 リスクリスクってこの世の終わりみたいに言ってるのは踏み出さない人たちだ。
 いざ踏み出そうと決意したら、もはやリスクとは「踏み出さないための理由」なんてしょうもないポジションにとどまっていない。
 
 リスクを引き受けるには覚悟がいる。
 そしてたしかにリスクがあるから、おもしろい。
 そのリスク回避をどのようにアプローチするか、というのは人によって違うのであろう、覚悟だって人によって違う。
 リスクの先に何を求めているのかは、人によって違うものだ。

 素人が目先の儲け話に目が眩んで投資した以上の損害を出して、という話は自分の身近にもあった。
 損害を出したあげく、お金を貸してほしいと言われた。
 わたしは長らく貯金に興味が持てなかったので、ずっとしていなかったのだが、「お金の真理」を読んでなるほどと思い、貯金をはじめてみたら、貯まった額をほぼまるごとですよ、貸してほしいという。
 ちょっと悩んで、貸すか貸さないかというより、自分が招くものについて実に不思議だと思えて、友人に相談してみたりしたけど、なんかあれだな、彼女50万借りたいって言ってるよと喧伝しているだけのように思えてきて、やめた。
 そして貸した。
 この顛末にはずいぶん、貸しちゃだめですよという反応を得たりもしたが、
 それにわたし自身、過去に、親に百万円貸してほしいっていわれているという別の友人にむかって、貸すのはいいけど返済計画をちゃんと提示してもらいなよ、相手の収入や支出にまで目配りをして面倒看る気じゃないとだめよと、とくとくと念を押した経験があるだけに、
 自分自身のときには、わりとあっさりと貸してしまうのだなあと、なんだか気まずいような思いもした。
 
 お金を貸すっていうのは、ある意味投資するってことだ、
 投資するっていうのは、どぶに金を投げ捨てるようであってはならない。
 手っ取り早くあらかじめ利息を要求しろって話でもない。
 自分自身を大切にして実りあるものにしようというとき、自分が稼いだお金を、粗末に扱ってはならないよってこと。
 
 しかしお金を貸してくださいと言われた時点でわたしは負けを認めたようなものだ。
 貸す、貸さないでいうと、貸さない方が億劫だった。その億劫さに負けた。
 最初に隙を作ったのは自分のほうだと思ったのだ。
 よっしゃわかった貸すよ、そのかわり約束して、あなた自身の価値を自分の手で貶めないでと。
 というのはわたしのことが羨ましくてと泣かれたのだ、わたしのことが羨ましいのと金を借りるのと何の関係があるとびっくりしたが、まあそういうこともあるのかもしれない、知らんけど。
 そういえば過去に違うひとにも同じようなことがあった。
 いいなあ、恵まれていてとため息をつかれたあげく、ありあまるところから持っていこうというかのように、まあ色々と。
 わたしは自分が傲っているつもりはないが、萎縮しているつもりもない。
 あのな、そうじゃないよ、恵まれているかいないかなんて、自分で決めるだけのことだとか何とか、口にしかけて自分でもまとまりないのがわかって、ずっと口を閉ざしてきた。
  
 よく付き合う友達を選べとか、異性を選べとか、いうけどわたしはあれにはまったく同意できない。
 目の前の花や実を選り好みして何になる。
 自分が気づかない間に蒔いた種が、育って花や実になったとたん目についただけのことだ。
 
 こんな花は醜いとか、こんな実は役に立たないなんてケチをつけて、蒔いたのは自分じゃないような体裁を整えてもしようがない。
 受け取りな。
 ともかく受け取って、眺めて、やっぱりいらねえやと家に帰ってゴミ箱に捨てようが供養しようが、それは自由だ。
 こんなのいらないよ、と他の人もいる前で声をあげるのは、みっともないぜ。
 だってそれはあなたがいつかどこかの時点でオーダーしたものなんだから。
 まったく身に覚えがなくても、可能ならば、迷える余裕があるなら、受け取ることだ。
 
 われわれには選ぶ権利がないといっているんじゃないよ。
 蒔く種を選ぶ権利はもちろんある。

 むしろ、選ぶ権利しかない。

 選べない選べないなんて言っているひとがいるけど、それだって選んでいますからね。

 自分が選べないというのは幻想にすぎない。

 

 

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「宿題ひきうけ会社」&「シンギュラリティは近い」

「宿題ひきうけ株式会社」を読んだ。
「シンギュラリティは近い」とはいろんな意味で真裏にあるような話だが、真裏にあるということはそれそのものでもあるというような、なんだか、初版が1966年なので時代錯誤なのは折込済みとはいえ、考えさせられる。
 ソロバンが達者で会社から手当てを貰っていたのに、電気計算機を導入したおかげで会社内でのポジションが奪われ、妹の同級生が将来のためソロバンに勤しむ姿を見て、無駄さ、と吐き捨てる社会人の大人がいたり。
 電話交換手は、そこにもう人手はいらないのだ、と言われて失業したり。
 いままでは残業をさせてもらえたのにこれからはいらないと言われて収入が減るとかね。
 いや、時代がすごい。

 まるっきり、AIとの付き合いをどうするか、と今も盛んに議論されていることのハシリみたいなものだ。
 しかも児童文学で。
 子どもの頃から知っていたが、手が出なかったわけがわかった、
 おもしろいと見せかけておもしろくない。
 見せかけて、というと悪意があるが、
 体裁を子ども向けにしながら、主義主張はまったくがちがちの大人目線というか。
 お金がなきゃ夢があっても実現できない社会を自分たちの手で変えていこう、とか、

 わかりますが時すでに1966年、
 なんだろう、子どもがうんざりしたり敬遠したりするのは当たりまえだと思える内容だった。
 わたしはもはや子どもじゃないからうんざりまではしないし、むしろおもしろいと思える箇所もあったが。
 
 社会に出ても役に立たない勉強よりソロバンさ、とソロバンの上達に情熱を傾け、新聞配達をして家にお金を入れ、たくさんいる弟妹のうちの一人が、サンマを一匹まるごと食べたい、と書いた作文を拾い上げ、
「うちじゃサンマを丸一匹食べさせてあげられない貧乏な家庭だって言ってるようなものじゃないか、恥っさらしな」
 と憤る母親に、
「だって事実じゃないか。おれだって一匹を分け合うんじゃなくて丸一匹食べたいって思っていたよ」
 と返しながら、サンマの一匹くらい自分の手で稼いで食べればいいじゃないかと母親とは別の意味で憤り、弟に説教してやろうといきごむヨシダ君が、とりわけ、
 作中わたしは好感がもてました。
 また、いじめは悪いことなのになぜいじめるんだと、徒党を組んでいじめっ子に対抗していく中で、
 いじめっ子とは口をきかないこと、と呼びかける手立てには唖然とするし、
 なぜいじめるのかと問い詰められて、「天国の門には人があふれかえるように押しかけているのに扉をくぐれるのはホンの一握りなのさ、俺を懲らしめるなら、のうのうと天国の門をくぐる奴らにも罰が下るべきだ」、とのたまう意外と繊細ないじめっ子君をつかまえて、
 君はそういうけど、あまいよ。
 ぼくみたいに天国の門に並ぶことさえできず、その横の田畑を耕している人間もいるのだ、
 と小学生とは思えぬ境地で諭すヨシダ君。
 つまり、勉強したくたって貧しくて勉強できない環境の人間もいるのだと。塾へ通うお金はないし、弟妹の面倒はみなきゃならないし、朝な夕な新聞配達の仕事はあるし、と。ヨシダ君は実に現世に根差した苦労人なのだ。
 君はその点、塾へ行こうと思えば行けるし、アルバイトをしなきゃ家計が成り立たないわけでもない。
 しかし繊細なるいじめっ子君は、もしぼくが天国の門をくぐれば(いわば「最終的」にたとえば東大に受かれば)、自分一人の分他人を押しのけてしまうわけだろう、試験に落ちるやつもいるわけだろう、と罪悪感にかられて気に病むのだった。
 罪悪感にかられて気に病む、まったくこれは魔性のものである。
 
 宿題ひきうけ会社が設立された頃(わりとすぐにあえなく解散の憂き目にあうのだが、その後も話は続く)、二十円で宿題を?なら弟たちの分も頼むよ、ほら百円(という五人前にもなる大金。初任給が二万五千円の頃の話だ)となにせすでに新聞配達でお金を稼いでいるヨシダ君だからあっさり払うところも、わたし的に男前ポイント。
 学校の勉強なんて社会に出て自分を助けてくれないさ、もっとお金を稼げる手段について実力をつけなくちゃ、というヨシダ君ですから。
 その手段とは時代の波を受けてソロバンだったりするわけだが。

 作者が冒頭、二宮金次郎を嫌いだと担当教師に言わせているところを見ると、このへんに何かありそうだがあいにくわたしは二宮金次郎を知らない。

 しかし新刊によせて、という作者のアイヌに対する謝罪の言葉などを見るに、
 いい人でいたいのだなあと思ってせつない気がする。
 わたしはたしかにアイヌではないが、謝罪されてもなあ、と思う。
 アイヌ、これを弱者の立場にいつまでも留め置く呪いの言葉のように感ずる。

 同じく児童向けなのだが、山中恒の「赤毛のポチ」はすんなりと子どものときにも読めた。
 これはまた、ひじょうに暗い話なんだけど、
 おもしろくないわけじゃない。
 わたしはこの本においてはじめて、とある文章がまざまざと力強く浮き上がりこれは本当のことだ、とつくづく感じた経験がある。
 大人になってその一文を追い求め読み返したところ、どこにも箇所がなくてあっれっ?となったことがある。
 たしか?犬が死ぬシーンだったと思うのだが。
 パラレル・ワールドなのかなあ。
 手塚治虫の「火の鳥・犬の面を被せられた篇」でも同じことがあった。
 いまでいう韓国・百済を脱出する際、お婆と一緒に海をわたるシーンの前後に、亀の甲占いかなんかをする。
 子どもながらに占いでなにがわかる、と思いながら読んでいると、
 お婆が、卦はいつでも正しい、それを読み間違えるのは人間の方さ、と言うのだ。
 あっと思いましたね。
 しかしそんなシーンは、読み返したところ、ないのである。
 なんなんだろうなあ。
 記憶を取り違えているのかなあ。