その残骸は彼ではない。

表現することがすべて。

といっても、言いたいことは全部言え、というようなこととは限らず。

もちろんそれでもいいんだけど、

つまり、

 


思いをいかに伝えうるか。ということ以前に、思いそのものをいかに形作るか。

 


もっと根掘り葉掘りいきたい。

 


いきたいんだけど、要は表現がすべて。

 


知っているだけじゃだめ。

 


知っているというだけでは。

 


知っていることをいかに表現するか、昇華するか。

なんだって循環するようにできている。

 


自分のところに溜め込んでおいてもそれは遅かれ早かれ腐って朽ちる、

もちろんそれさえも循環はする。

ともかく、溜め込んだままに永遠に置いておける、ということはない。

置いておけない、それらはいずれ畢竟、循環しはじめる、

あなたの意図に反して、むしろあなたが意図しないうちに、あなたの手を離れて、循環しはじめる。

 


ある日蓋を開けるとそこにはもはや、まだ今はあるというだけの残骸しか、形を留めては、いない。

 


そうしてやっと遅まきに後悔するくらいならば、

それらが残骸となる前に、自らの意図によって生き生きと循環させたかった。

 


まだあるという残骸にふと気づくくらいなら、それが跡形もなくなるまで忘れている方が、そして思い出しもしない方が、いっそ話は簡単だった。

 


残骸に憐憫はいらない。ふさわしくない。

残骸に対して謝罪はいらない、後悔はいらない。似つかわしくない。

残骸はもはやあなたのものではない、あなたの手から放たれて、もう随分たっていた。

 


焦って嘆いて引き止めるような真似はしないことだ。

相手はきっと引き止められやしないのだから。

 


足掻くように引き止める、相手を勝手に憐れんで引き止めてあげるなんていう尊大さは、

二度手間、三度手間、とにかく空回り、いわば無駄。

あるいは鏡の中の自分を自分だと思い込むような、途方もない無為さ。

水に映ったあなたはあなたじゃない、

鏡に映ったあなたはあなたじゃない、

あなたはそっちにはいない、ここにいる。

 


そこにいるはずだと思っていたものが残骸へと化していたときには、

あっしまった、そうか、ごめんね、別れを言えてよかった、ありがとう、またいつかね、と言って気持ちよくお別れするの。

 


死体を揺さぶっても彼の魂は戻らない。

彼は死体ではないからだ。

 

不自由さは自分が作った檻。鍵を持っているのは自分だけ。

 

女3人で韓国へ。

関西空港で待ち合わせをしたが、わたしは日根野駅で切り離された車輌の、関空行きではなく和歌山行きへ乗ったまま、通り過ぎてしまい引き返すはめになるし、(なんとか間に合いました、ホントすいません)

もう一人の子は、

「両親が空港へ来ていて行けなくなりました」

とか、わけのわからないことをいう。

両親が来ていて?何それ、お見送り?

 

「いえ、来ないでって言っていたのに勝手に来るんです、前にもあったんです、それでもう頭にきて、じゃあもう行かないってなって。」

 

いやあ、わからん。

 

わかるけどわからん、いやわからん。

 

「普通それだけ、こっちが嫌がっていることをします?

頭に来ないですか?」

 

この「普通」ってのが実に厄介ですよね。

わたしの普通はあなたの普通ではないし逆もまたそう。

でもたしかに、重なる、共感できることはある。

たとえば、家のポストに鳩の死骸とか放り込まれていたら誰だって不気味だし怖いし気分が悪いってなる、

まあそうだよね。

こういう例えを出せばたしかにそこをマイナスからプラスへと切り替えるのは、なかなか大変なことだよなあと思う。

 

でもたぶん、そこじゃない。

大変なんだからマイナスに受け取ってしまってもしょうがないよね、という話じゃないはずなんだよ。

自分の力だけじゃどうにもできないことがあるんだと強調するような側面に、光を当てるメリット/デメリットを考えてみる。

 

というか、自分の力だけではどうにもならないことを、どうにもならないって嘆くんじゃなくて、腹を立てるんじゃなくて、ともかくそうなんだと受け容れる。

そして、ならば自分の力だけで変えられることは何だろう、自分がこの困難な局面において変えられることは何があるんだろうって、

そっちに意識を向ける。

たしかに、どうにもならないことについて、どうにもならないことを拒みながらいつまでも何とかならないものだろうか、

といつか天気が変わるのを待つように悶々とジリジリ待っていても、足掻いても、まあなんだろう、気の長い話だよね、それってともかく。

もちろん、あなたが、彼が、彼女が、それでいいなら、まったくそれでもいいんだ。

それでもいいんです。

実際、時は決して止まらない。

変わらないものは何もない。

 

 

他人たとえば親の、行動をあなたがコントロールすることはできない。

あなたにコントロールできるのは、親の行動によってあなたが抱きうる感情をも含めた、受け取り方だけ。

 

わたしがあれこれ他人の心情を予測しても意味がない。

少なくとも他人にとって意味あるものにすることはできない。

わたしにとっては意義あることかもしれないが。

 

言葉では言い表せないものがいまだある。

それはいつまで待とうとも、どう言葉がけしようとも結局、彼女が彼女自身の言葉で表現する時がこなければ、まったく意味をなさないんだ。

 

 

言葉尻をつかまえれば、いつだって空回りの遠回りをするだけ。

 

面白いよなあとそれこそ他人事だけに思う。まるで、

なんていうか、自作自演じゃないかと、

枠の外から見ればそう見えるんだ。

 

 

「だって腹が立ちませんか?

わたしはそれをされるのは絶対に嫌だってあれほど断ったのに、こっちの意向をまるで蔑ろにして、いったいどういうつもりなんだって思いません?」

 

いや思わない。

多少は咄嗟には思うよそれは。でもケツから言えばまあ、思わない。

腹が立つだけ損、というか無益だと思う。

あなたに変えられるのは自分だけ、相手の行動を変えることはできない。

 

 

「えええ、そうですか?

わたしは気になっちゃう。」

 

 

この途切れることなく、ふりだしへと戻るメビウスの輪ときたら!:-/

 

この輪は、自分自身の手によってしか決して断ち切ることはできない。

足掻くのもいい。

足掻いただけ、苦しみを知っただけ、

同じように苦しんでいるひとに寄り添うことができるからね。

そうした価値だけはある。

そうした価値だけがある。

 

 

でも寄り添って共倒れしないということには実際たいへんな技倆がいる。

相当な器量がいる。

あなたにそんな覚悟があるのなら、明かりの見えない絶望にも希望を見出すことはできる、きっと。

 

覚悟さえあれば、つまり何があっても自分は希望しか見ないんだと思い決めているのならば。

 

そうではないのなら、やめときな。

他人の、それが例え親であれ面倒を看るより前に自分の埃を払った方がいい。

 

他人に対する心配/配慮を口実にして自分自身から目をそらすのは、うまくない、不味い。食えない。

「スカーフェイス」という物語。

事実は小説より奇なり、なんていう。

実際には、小説とは事実を、現実を適宜に抽出することだ。

勝手に登場人物が動き出して、なんていうでしょう、あれはわかる。

整合性っていうのは普通、物語の生む流れに抵抗しなければ自然と出てくるものだ。

物語は面白いよね。

 


昨日、映画「スカーフェイス」を再度観ていたら結局最後まで観てしまって朝だった。

予約していたジムには行けず、仕事の時間に目がさめると同時に職場から電話が。

うん。おはよう、今起きた。

というと相手は笑っていた。

わたしは夢の続きが見たくて二度寝することはよくあるけど、寝起きはいいほうで、母親が言っていたが、まだ幼い頃、のんちゃんおやすみ、というとコトンと寝て、のんちゃん朝やで、というとスッと起きるので実に手がかからなかったと。

 


じゃなくて、スカーフェイスね。

ある意味相当、暴力的な映画だが、あれはなんだか、切なくもあるが可愛いよな。

役者として生きるって素晴らしいな。

職業・役者じゃなくても、誰だって要するに役者ではあるんだけど。

 


ユマ・サーマンもすごくいい。

美人ってこうでなくちゃね、という一つの極地だ。

実に頽廃的で、矛盾するようだが生き生きとしていて、いい。

 


アル・パチーノがチビなんだけどそれがまたいいんだよな。

それがいい、と思わせたらまあ勝ち、というか一つの成功だよね。

 


自閉症は病ではなく、障害ではなく、個性だなんていうが、

いや、たしかに個性でないものなど実のところ、一つとしてない。

すべてはただ単純に個性だ。

 


こういうのが良くてこういうのが悪い、なんていう話を聞いていたらすごく退屈してくるじゃない?

いや、わたしはしてくる。

なるほど、あなたはそういうふうにおもうんだね、と話を聞くけど、あまりにくどいと、面倒くさくなってくる。

どうでもいい。

 


筋トレにはまっているわたしが最近好きなモデルの、エミ・レナータがyoutubeであげていた動画で、

有酸素運動のあとで筋トレがいいの?前がいいの?

という質問に、どっちでもいい、とにかく、して、と答えていたところ、すごく好き。笑っちゃった。

 


どっちでもいいことって、いっぱいあるよな。

ありすぎるくらいだ。

 


物語が好きだ。

小説もそうだが、物語っていうのは、

みんな持っているんだよね。

起きたものごとをありのままに忠実に描き出せばそれは一編の美しく躍動的な、感動的な物語になる。

 


他者をコントロールしようとしない限りはね。

 


つまり、自然と動き出す物語をコントロールしようとしなければそれは、

素晴らしいタペストリーになる。

 

 

 

 

 

 

持たなきゃ失うこともない。

恋さえ追い風にしようとしている。

 


努力する必要はありません、というのはわかる。

でもここは前後の文脈というか、語彙のもつ限界が混乱させるものだという気がする。

つまり、努力が悪いわけじゃない。

 


それを、努力と呼ぶとして、だが。

と、いうようなね。

 


ここには重力がある。

ということだと、おもう。

 


重力から完全に自由になっちゃったら地球から飛び出てしまうよね。知らんけど。

そういうことだとしましょうや。

地球にいるという選択をするのなら、重力の影響は浴びざるを得ない。

そしてたしかに重力が悪者だなどということは、できないよね。

 


存在する、ということが、いわばもうそれだけで、重力との関係を断つというようなわけにはいかないのだし、

日焼けしたくないから太陽が嫌いだって言ったって太陽なかったら死んじゃうじゃんというか。

重力もそれと同じで、それはもうあるんだから、それをいかに自分のなかに取り込むか、どう活用するか、ということなんだとおもう。

 


感情なんてなくなってしまえばいい、と言ったひとがいる。

わたしは、ちょっと言葉を失ってしまった。

いや。

えっ?いや。

 


苦しい思いはしたくない、悲しい思いはしたくない、それはわかる。

でも、感情がなくなればそれらもなくなる、というのは、まあ、なんだろう、違いますやん。

感情って単に副産物だ。

 


財布を落として笑っているひともいれば泣くひともいれば、怒るひともいるわけで。

 


なぜそうした違いが出てくるかといえば、起きたその物事を自分がどう受け取っているか、

 


そしてどう受け取るのか、ということは、自分自身がコントロールできることだ、本来は。

 


あなたの思考は、あなたのものではない、というのも、わかる。

 


つまり、不幸なひとは他人の人生を生きようとしている。

という言い方もできる。

あなたが自分の考えたことだと思っている内容とは実際のところ、他人が考えたことをミラーニューロンのふるまいで、自分の考えのように思い込んでしまっているのだ。

という言い方もできよう。

 


目に見えないネットワークはたしかにある。

 


水の例えは、わかりやすくて好き。

水は、気体、液体、固体になる。

液体までは目に見えるが、気体になっちゃうと目には見えない。

目に見えないからそれは無いと思うのは実際のところ、短絡的にすぎる。

 


感情も、目には見えないが、実感としては「目に見える」といっていいほど、確かなものだ。

でも、もっと見えにくいものがある。

それが受け取り方であり、考え方であり、信念体系のようなもの。

 


感情は結果だ。

感情に先立つものがある。

 


財布を落としたら最悪だ、と思っていたら、財布を落とせば最悪だ、となる。

でも財布を落とすこと自体はニュートラルで、最悪でも最高でもべつにない。

えっでも財布を落としたら最悪じゃん、とかいう堂々巡りはやめましょ、というか、やめな。

 


人生万事塞翁が馬。

 


あなたは種をまいた。

種をまくってことはなかなか目には見えない。

それでそんなことはなかったことにしてしまっている。

なかったことにしてしまっている、というとまるで意図的だが、

そう、たしかに意図さえもない。

その意図を自覚的にするってことはなかなか相当できない。

別にそれはできなくてもいいの。

そこは気にするな。

 


肝心なのは、種をまいたってこと。

種をまけるのだと「知る」ってこと。

自分には種をまく能力があるという可能性を知ることだ。

実感できなくてもいい。

 


で、種をまいたからには芽が出て、花が咲き実がなる。

自分にも他人にも「目に見える」ようになるのは、花が咲いたころ。

 


でもそれ以前のことがある。

 


財布を落としたのも結果なら、それに伴う感情はもっとあとの結果なの。

 


感情なんてなくなればいい、というのは、財布なんて最初からなければよかった、というようなもの。

いや、財布があるってこと自体が悪いわけじゃないだろってこと。

 


でも、わたくしにもある。

わたしは鍵をなくして家に入れないということほど馬鹿馬鹿しいことはないと思っていて、鍵をそもそもかけないし、持たない。

これはどこか、お金を持つことにも似ている気がする。

持たなきゃ失うこともない。

じゃあそもそも持たなきゃいいじゃん。

 


さあ、どうだろうな、そこは。

 

 

 

わたしたちが賭け事はせずに手元に置いておけるもの。

わたしは美しいものが好きだ。

わたしは美しく描くのが好きだ。

なんでもないもの、見逃されがちなもののなかに美を見出すことができたらいい、そう思っている。

 


相手を、誰か自分以外の者を、コントロールできると思うのはまるで愚かなことだ。

馬鹿とか無能っていうのは、どんなに身近であれ目下であれ、他者に過ぎないそれを支配できる、監視下に置ける、予定外の行動を取らせまい、取らないでくれ、と思うことだ。

 


こうなると、自分ってどこからどこまでが自分だといえるんだろう?という気もしてくる。たしかに。

 


どうなんだろうね。

 


予想外のことは常に起こりうる。

 


わたしは博打場に身を置いているが、こんなことは所詮博打ごっこだと思っている、

人生そのものが壮大な博打であることに思いをやれば。

 


博打は怖い。

誰だって怖い。

 


失うかもしれないものを賭けるのなら、賭けないままに、手元に置いておきたいと思うんだ。

 


でも手元に置いておけるもの、いったいそれはなんという代物なんだろう?

 


実に不思議だ。

わたしたちが手元に置いておけるもの。

 

 

 

 

 

 

環境は、ただのニュートラル。

空中浮揚できるひとが提案していた修行で、

それいいな、と思ったことがある。

あなたがもし1時間なり電車通勤しているのなら、その1時間を時間つぶしのように過ごすのではなく、

たとえば車内吊りの広告の文字を使っても修養はできる、

具体的にどんな訓練だったかは忘れましたけれども。

要はどんな環境に置かれているのであれ、自分の能力をのばし、開花させることはできるのである、と言いたいのだと理解し、まったく賛成だと思った。

 


環境がすべてみたいな言い方をされることはよくあるが、

ひじょうに難しいところだけど、ともかくわたしはそうは思わない。

結局さ、その環境がどんなものであるかを認識するのは自分のほかを措いてはいない、ということ。

 


脳は自分が期待することしか拾わない、そしてその拾った現実とは、現実の1パーセントにも満たない、とハトホルさんが言っていた。

これは脳関係の本あるいは引き寄せ関連の本あるいはまた自己啓発的な本にも頻繁に登場することだ。

 

期待する、というと期待なんかしていないしってなるかもしれないね。

先入観といってもいいかもしれない。

でもここはわたしは、期待する、の方がしっくりとくる。

先入観とは捉われであり、期待である。

 


期待ってじゃあそもそもどういうことだろうか。

こうであればいいな、こうであれば素晴らしいのに。

もっと硬直すると、

こうでなければならないのに、こうであるべきなのに、という気持ち。

これだってつまるところ、期待なんだと思うのです。

 


期待っていうと、ちょっとふわふわした、実現可能か不可能かは棚上げするようなニュアンスもあるが、

それの行き過ぎた感じとして、硬直した、

いわば過度な期待というのは、

それ以外は認めない、それ以外は誤りであり過ち(過ちって過ぎたることだね)であるという、ぜえったいにそうっていう決めつけにも発展しうるよね。

 


ここは相手を従わせるとか支配するとかではなく、むしろ追い詰められた感じとして、絶対そうなんだからって思ってしまうこともある。

 


むしろ、従わなきゃならない、という感じとして。

 


面倒くさくなったわけじゃないが一言でいうと、そんなこと、従わなきゃならないなんてありえないんだけどね。

 


ここは発想を転換させて、従わなきゃならないと感じたのはそもそも自分なんだと、

もっと言えば従った方がいいメリットを見出したのは、受け取ったのは自分なんだと、もう潔く認める方が、

ただ、自由になれる。

 


従わなきゃならない、じゃなくて、

従いたかったんだと。

こうなると硬直がややほぐれる感じがある。

自分を出す、のは悪いことなんかじゃない。

自分をまるで悪いもののように秘めて匿す方が、いっそ悪いってこともあるんだ。

 


ものすごく例えが不適切かもしれないが、

AV女優または風俗に勤めるひとがそうなったのは、なにかしらそうせざるを得ない理由があった、

親の借金を返すとかですね、

大義名分があると、なんだかほっとするというか、それならばやむを得ないとかむしろ同情するとか、そういう気持ちになること、が

あるとしましょうや。

いや、わたしはこれが好きだからこの仕事をしているの、と本人から言われると、なんだか居心地の悪い思いがする、というようなことが、

あるとしましょうよ。

こういうのって、その居心地の悪いような、あるいはそんなの嘘だろうと思う人自身の羞恥心が元にあると、

わたしは思う。

 


自分がそうしたいからそうした、だって?嘘に決まっている。

とかいう動揺。あるいは猜疑心。

 


もう率直にいって、あなたならば決してしない選択であり、

決して「自分が望んだ」とは受け入れられないこと、というただのそれだけだとわたしは思う。

 


羞恥心というのは、罪悪感にも似て実に不思議なものだなあと思う。

 


自分がそうしたいからそうしたの、というのは、

赤いシャツより白いシャツの方が好きなの、とかなら皆ためらわずに言えるんだ。

つまり、どっちでもいいというか、そうまで他人に受け入れがたいと思わせない選択ならば、

自分の意思でそうした、ということは表明しやすいんだよね。

 


もっと不適切かもしれないが例えば病気とかね。

なりたくてなったわけじゃない、と言うよね。

 


なりたくてなったんだ、というのって、

なんだか、とんでもないんだな。

とんでもなく不謹慎というか。

とんでもなく共感されないというか。

 


もちろんそんなふうにまで、

言いたいことを実は言えないでいる、というほど誰しも自覚があるかないかといえば、

たいていはない。

自覚があるのならもう問題の、それが問題としてだが、九割は片付いているんだよね。

 


本当に問題なのは、

「それは自分の望んだことではない」

という受け止め方にある。

 


もう何が問題かって、

そんな不自由なことってないじゃん。

それがたとえ、不治の病なのだとしてもね。

 


いつまでもこんなはずじゃなかった、

こんなこと望んでなどいなかった、

取り返しのつかないことが起きてしまったなんて、

受け容れがたさに硬直していても、進展はない。

受け容れてごらん。

開き直りでもいいんだ。

自暴自棄でもいっそ構わないんだよ。

ともかく自分のおかれた状況を、毒をあおる気持ちでのみこんでみるの。

すぐには死なないし、

死んだところでなんてことはない。

本当だ。

 


嘘だ、というなら、死んでごらん。

さ、思い切って死んでしまえばいい。

 


わたしは死なないよ。

一応三百歳までは生きようと思っているの。

生きられないなどというわけがあるか、と思っている。

わたしだけじゃなくて、あなたも。

それに何も死ぬこたあない、というのがわたしの信条でもある。

 


死ぬ勇気まではない?

もし本当に死ぬ勇気というのが最大の勇気ならば、生きぬく勇気なんて、たかが知れているとも言えるよね。

 


あなたの置かれた環境を天国にも地獄にもするのは、あなた以外の誰でもない。

このことをまず、のみこんでごらん。

なにも天国がよくて地獄は悪いなんて言うつもりはない。

どっちだって構いやしない。

どうだっていいよ、そんなの。

 


肝心なことは、あなたが天国にいるか地獄にいるかじゃない、

そのいずれにせよ「あなたが選んだ」

という意識の自覚があるかないか、

それだけ。

あなたは何だって選べるんだ。

 


今この瞬間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神との対話。エルサレムのアイヒマン。感謝は神をあやつる手段ではない。

「感謝は神をあやつる手段ではない」
 いいですね、とてもいい。
 わたしの心は嬉しさに踊った。
「啓示を求めると言えば、神が見えないという経験をするだろう」

 これらは「神との対話」の序盤にでてくる言葉だ。
 
 神との対話の③が、父親の本棚にあった。
 ③だけだった。
 神との対話?なんだそりゃ?わたしの目は一瞬、釘付けになり、それた。
 そういうことを何度か繰り返した挙句のある日、わたしはついにそれを手に取った。
 もう7,8年も前だ。
 わたしはその後、①と②を買い求めて読んだ。
 
 で、どういう内容なの?と言われたら克明に覚えていることはあまりない。
 でもすごくおもしろくて、わくわくした。
 なるほど、とかそのとおりだ、と嬉しくなるような内容だったということしか実際あまり覚えてはいない。
 友人の一人に本をあげたら、こういう独り言っぽいのは苦手でといわれた。
 うーん、独り言なあ、と思った。
   
 しかし、いま思うに、独り言が苦手というのは由々しき事態ともいえるのではないだろうか。
 いわば、こうしてわたしがいま書いているようなことだって、独り言といえば独り言なわけで、
 自分の思考あるいはまたインスピレーションに基づいた創造を表現する、
 これは。
 なんていうか、
 そもそも全部そんなこといえば独り言じゃん、というか。
 むしろそうではないことなどあるのか。ないよね。
 もちろん人間相手に直接的な対話をしているときには絶えず相手の反応に遮られる、軌道修正を促されるという慌ただしさというか、臨場感はあるけれども、
 そのもとをたどれば、独り言に端を発しないものはない。

 ここを、ある、と言える根拠とは要するに、「他者は存在する」というのに等しい。

 いや、他者は存在する、といえばする。
 っていうか、そういうことになっている。
 でもさ。

 そういえば今日一気に読んでしまった「人生の99.9%の問題は、筋トレで解決できる!」という本はすばらしかった。
 もうその、イラストを含め、読みやすさにわたしは感銘を受けた。
 読みやすい。
 というのは、わたしからすればものすごく価値のあることだ。
 ひたすら感心しているうちに読み終わってしまった。
 これはそもそも、最近やっぱ筋トレかな、と思って筋トレをはじめた自分を鼓舞するために読もうと思ったのだが、筋トレについてよりもむしろ、読みやすさというものの持つすばらしさに鼓舞された。
 やっぱ筋トレよね、ならぬ、やっぱ読みやすさよね、という。

 ついで、思い出すのは、「生かされて。」だ。
 これはルワンダにおけるジェノサイド(大虐殺)を経験した女性が書いた本でわたしは実に引き込まれてしまった。
 印象的というか、忘れられないのは、狭いトイレに十人近くの女性たちが折り重なるように閉じこもって殺戮者たちをやり過ごしている間、それは何週間という期間にも及ぶのだが、
 トイレの窓越しに、鳥のさえずりが聴こえる、というシーン。
 わたしも鳥だったならば、と切実に彼女は思う。
 この気持ちが、ものすごく骨身に迫るように共感できる。

 いや、それは、わかるわ、と思った。

 鳥だって外敵のない世界に住んでいるわけではないが、
 朝となれば鳥のさえずりが、まるで自分たちの置かれたいまの血腥く絶望的な環境など何の影響も及ぼすことなく、変わりなく聴こえてくることに対して、つい覚える圧倒的な揺さぶり、希求というものは、
 なぜだか想像に難くはない。

 そしてもう一つ印象的というか、考えさせられたのは、
 そのトイレの中に隠れて過ごす間に、彼女にマリアの啓示が訪れたこと。
 ここが、キリスト教を信仰していない日本人にはわかりにくい、共感しづらいこととして、レビューにあげているひともいた。
 うん、まあそうかもね。そうだよね。
 でもわたしは、キリスト教どころか何の宗教に対しても信仰はないが、
 ここを帰依する宗教の有る無しという壁で遮らせてしまうのは実にもったいないなと感じる。
    
 いや、わかりますよ、わたしたちは、
 現代を生きるほとんどの日本人は、宗教における信仰心などというものとは無縁だ。
 それが悪いわけじゃない。
 むしろそれがいい、とさえ思う。
 わたしたちは少なくともそういった衣を脱ぎ捨てるまでのことは、できているのだ。

 でもところが、宗教(組織)に関してはほとんどアレルギーさえあるようなわたしたちではあるが、
 宗教以外のなにかしらは、やっぱり信じている。

 それはたとえば、いまさらあるだろうかと思えることだが学歴とか。
 いや、これは本当になんでもいい。
 どんなことでもいいが、なにも信じていないひとはいない。

 地球は丸いとか、死ねば無になるとか、あるいは無にならないとか、そういうことでもいいんだ。
 1+1=2であるとか、そういうことでもいい。
 女の、男もでもいいが、幸せとは結婚よねとか。たとえばね。
 もちろん結婚が幸せをもたらすものであることに越したことはない。
 そして仮にだが不幸な結婚をしているならばそれを、自分の感覚を麻痺させてまで継続させる必要はないんだ。

 ともかく、「生かされて。」の彼女はマリアの啓示を受けた。
 それまでに聖書を読みこむ彼女がどうしても受け容れ得ぬ箇所があった、汝の敵を愛せというところだ。
 主よ、わたしの愛する母を、父を、兄弟を、殺そうとしている(すでに殺しているかもしれない)敵を、どうやって愛することができるのですか。と不安、憎悪によって悶え苦しむ。

 葛藤のすえ、不意に雷に打たれたかのように、自分の親兄弟を殺す彼らとて神の子なのだ、と彼女は悟る。

 彼ら、殺戮者たちは自分が何をしているのかをただただ知らない、わたしたちがそうであるように、彼らもまた同じく神の子どもたちなのだということに気づく。
 ほんとうに、わたしたちがゴキブリを迷いなく殺すようにただ、彼らもかつての隣人の足を切り落とし目を抉り出しているのにすぎないのだと。

 彼らはいったい自分が何をしているのか、ということを知らないでいるだけ。
 それは肌という肌が慄立つようなぞっとする感覚ではあるが。

 それでいうと、借りてきたがまだ読んでいない本で、「エルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」というタイトルを思い出すよう。
 
 同じことなんだよ。
 ナチスの官僚であったアイヒマンはただ、それが仕事だから、それが自分に与えられた役目だと信じて、それをした、ただのそれだけだ、決して思考することはなく

 思考は独り言だ。
 求められたから応じた、というのは単になんていうか、ロボットだ。ロボットに悪い感情はないが。

 ロボット、
 それは独り言ではない。
 それは思考ではない。
 それは創造的ではない。
 ロボット、いわばそれは、揺らぎではない。

 もうひとつ思い出すのは、エイブラハムの本の質疑応答で、
 息子を伴って再婚した女性が、息子と夫(息子からすれば義父)が対立してしまってわたしはどうすればいいのかわからないのですが、というもの。
 エイブラハム曰く、
 あなたは二人の主に仕えることはできない
 これは聖書にもある言葉。

 男であれ女であれ、子どもであれ大人であれ、わたしたちは、二人の主に仕えるということはできない。

 わたしたちはわたしたち自身という主のほかに仕えるべきものなどない
 
 わたしたちは本来誰にもあやつられることのない存在だ。
 そしてまったく同じことだが、わたしたちは本来誰をもあやつることはできない。

「感謝とは神をあやつる手段ではない」
 いいよね。
 GOOOOOD!

 

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