自分の尊厳を奪えるのは、自分だけ、自分だけだ。
自分が自分を決め、自分が世界を決めるのであって、世界が自分を決めるわけじゃない、ということを、
このどこかしらまだ闘争心にも似た何か、矜持のような高揚を、喜びを、
しかし単にそうであるしかないだろうという冷静な理解でもあるところのものを、
じっと味わっていた。
それはとても懐かしい気持ちがする。
現にどこかで、この人生のどこかでわたしはたしかにそんなふうに考えていた。
感じていた。
わたしはそれを知っていた。
そしてそれは、そのときには闘争心のような何かとしてあった。
ジョジョ第五部に登場する殺人嗜好者が、今まさに気を失っている相手を殺そうというときに、その相手が靴下を裏返しに履いていることに気づいてしまい、
どうしても気になって仕方がない、表替えして履かせて、よしこれでいい、と殺す、
こんなこだわりのディティールがおもしろいんだっていう、
そういう話から、
なぜか、
AKIRAに出てくる、誰かの手の中にある小宇宙にわれわれは住んでいる、という話を思い出すと対話の相手が言い出し、
うん、その話をわたしは知らないが、その、誰かの手というのは自分の手ということだけどね、とわたしが言うと、
なぜそうだとわかるの、と追求してくる。
非難がましさはなく、なぜどうやってそれが自分の手だと知ることがあなたにできるのか、という問いで、
わたしは、それをあなたにわかるように説明するのは実に困難だと考えながら、
知る、そうね、わたしは知っている、気づいている。
誰だって気づけるけど気づきたくないだけじゃないの、というようなことを言う。
自分があるから世界があるのであって、世界があるから自分があるわけじゃない。
そういうと、そんな自己中心な、とそこはどこかしら批判的である。
自己を中心に据えずにいったい何を中心に据えるつもりなのか、と思うが、
そこまでで対話はおわる。
こんなことなんだよな、と思っている。
いつだったか、要するに人間、自分にメリットのないことはしないし、
誰もがやりたいことをやっているだけ、したいことをしているだけだと、
思ったことがあり、
そう、わたしは実に無粋なものだと思った、もしそれを、
なんというか、せっかく気持ちよく夢を見ている者を揺り起こすような真似をするのだとすれば。
お客で、従業員からも軽くあしらわれがちなひとがいて、
なぜだろうなと観察していると、
自分は欲しいものを得られないのではないか、といったような不安が強くて、その不安を解消してもらうべく、やたらしつこくせっつくところがある。
マスクちょうだい、マスク、マスク、これが単にせっかちという以上に、
その調子にあきらかな不安が滲み、いまにも、なんでくれへんの?と言い出しそうな悲しげで相手を咎めるかのような響きがあり、
そこのところに相手を辟易させるものがある。
不安の強いひとはどこかしら非難がましい。
自己憐憫には世界に対する非難の調べ、奏でがある。
それで皆、辟易して軽く扱うのだが、
わたしはそれもまた、相手の手に乗るような気がして、馬鹿にしたような態度を取るのは差し控える。
あのひとの創り出した劇場の舞台に上がることを、気づかないていでスルーする。
おまえ、被害者か殉教者みたいな顔をして相手をコントロールしようとするな、と思うんだ。
いや、そうまでいうと言いすぎになる。
つまり、こんなことはどこまでも曖昧で明確化されていない現実にすぎない。
そんな手には乗らへんで、と思う、という、これはかつての従業員に対してもときどき思ったことだが。
意図せざる創造。
それ、その発言はどういう意図から出たものなの?と聞くと、
いえ、意図なんてありません、ただ、そう思ったから。
これを狡賢いとは言うにあたらない、むしろ、
どこかしら馬鹿げている。
白痴のようであり、
まさに相手がそう受け取ることをどこか誘導し、望んでいるようでさえある。
あなたの仮面はあまりに分厚い。
そうすることで傷つきやすい自己を守っているのだが、
何のことはない、自分とは他者から傷つけられ得る存在である、という信念をあらわしているのにすぎない。
密かな報酬、意図せざるメリットがそこにある。
まるで何でもなく、他愛もない。
わたしはいまだそれをそうと指摘できないままに、眺めているものにすぎない。
自分がまるで、賭けもしないのに予想をいう、そんな者のような気がして、
ふと言葉もなく眺めるだけになる。
実際わたしはかれを望んだ、というよりも、
わたしが神であり、死はなく、自分があるから世界はあるのだという宣言を可能にすることを望んだがために、かれがあるのだ、ということを思う。
わたしがあるからこそ世界がある、
わたしが世界に意味を付与するものであって、その逆ではない。
いったいどうして彼を乞いなど、請いなど、
かれに恋することなどできるだろうか。
まったく矛盾はなく、葛藤もない。
わたしは誰にも自分をあずけない。
これは孤立でも孤独でも、ありとあらゆるネガティブな感情を伴うものでもない。
かれとなら「自分を預けない」ことを正当化することなしに、関係を築ける。
かれとなら、というか、
わたしが望んだのは、自分を相手に預けることなく、また自分が相手を預かることもなく、よろこびに満ちた関係を築くことはできる、という体験だった。
子どもが親を求めるような恋愛、あるいは関係性など、わたしは望まない。
自分の欠けた部分を補ってくれるものとして相手を望む、
こんなことはまるで失敬な、まるで意味のない、まるで価値のない、まるで創造的ではない関係を欲している態度に他ならない。
わたしにそんな意図はない。
自分があるから世界はあるのだと朗らかに力強く自明的に宣言できる者と、
このよろこびを称え合いたい、わたしはいつしかそう願った。
かれが遠慮がちなのだとすればまさにわたし自身が遠慮がちなのであり、
かれが恐れているのだとすればまさにわたしが恐れているのであり、
かれが喜んでいるのだとすればまさにわたしが喜ぶ者なのである。
いまさらどうして鏡のトリックに引っかかることなどできるだろうか。
わたしはそれがトリックであることをあらかじめ必然的に知っていた。
知っていたが、ひとにそうだと種明かしをすることは拒む者だった。
誰だってそれを自分自身の確信、気づきによって知りたいはずだからだ。
そうじゃないこともありうるかもしれない、こんな仮想の事態をもし受け容れ、心配するのだとすれば、
わたしはまさにわたし自身を裏切っていることになる。
いいえ、その手には乗らない。
自分が自分を欺き、騙し、他の者をもその仮想の舞台へと上がらせるような真似など、
わたしはしないし、
誰にもさせない。
投影、そう、投影をどこかで打ち切るべきときがやってくる。
そしてそのタイミングとはまさに、自分のタイミングであって、よそではない。
誰にも誰かを支配する権利、その絶対的権力などありはしない、
ただ、
支配される体験を望む者がある、というだけのことだ。
支配するものと支配されるものは、完全に調和した協力関係を築いている。
まさに相手に対して鏡のように振舞うことを望んでいる。
そのどちらの立場へ自分が身を置くのだとしても、まったく同じことだ、まったく同じであってその価値はまるで等しい。
伸びた分だけ伸びて、縮む分だけ等しく縮む。
おのれを冒涜する者は、簡単に同じだけ等しく他者を冒涜して、恬としている。
それはまったく必然に支えられた現象であるのにすぎない。
それはまったく必然であるよりない。
内なる存在、ナビゲーションシステム、神、魂、在りて在るもの、一なる創造、原物質、創造の源、何と言ったって構わないが、
それは在る。
誰かの手によって?
その手とは自分の手に他ならないだろう、とわたしは言う。
相手がそれに納得しようがしまいが、それを斥けようが受け容れようが、そんなことはわたしにまるで影響を及ぼしようがない。
本当には影響を及ぼし得ないんだ。
わたしはふと笑っていた。
ふと感心して相手を眺めていた。
わたしがこの世界、この宇宙を創造した。
まるで単純な何かをさも真剣に疑う、こんな相手を目前にして、
わたしは自分の他愛なさを可笑しがっている。
誰だってしたいことをまさにいま、一瞬一秒を惜しむかのように、愛おしむかのように、しているのにすぎないんだ。
いいえ、わたしは違います、としかめっ面をする者、
いや、その手には乗らない。
わたしは乗らない、
わたしはそれに何度も騙され、騙されたことを知っているだけの者だ。
そしていいかげん飽きている。
同じ何かを連綿と繰り返すことに価値がある、といったような主張にはいいかげん飽き飽きしている。
そもそも飽き飽きしていた。
乗ったものの、やっぱり乗れないんだ。
それで?と思う。
いったいそれで?
いつまで観ていても終わらないテレビのようだ。
実際、終わりを見届けることなど、誰にとっても不可能であるのにすぎない。
自分の葬式に参列できる者などいない。
もしそれができるとすれば、まったくそれは茶番のような何かであるほかはない。
わたしはかれを望んだのではなく、むしろ、こうした状況のすべてをただ望んだ。
その結果としてかれもある。
あたりまえにそれがある。
まるで疑うことなく、斥けることなく、
かれがかれとしてあることを、わたしが許容し、存在させている。
わたしが見るから、かれがある。
意に染まぬことなど何一つとして存在し得ない。
全部引き受けたらいいのに、と思うんだ。
これは引き受けるが、これは引き受けない、
こんなことを、こんなありようを自分に許しているから、
偶然などを期待する。
未知に満ちた何かが自分を嬉しがらせたり、失望させたりする、
こんなジェットコースターのような、くじを引くような楽しみを継続させている。
まるっきり、バカラだね。
まるで博奕を愛する者に他ならない。
猫は偶然などないことを知っていると思うんだ。
のんちゃんは?のんちゃんも?
こう咄嗟にまったく明敏に的確に返してきたひとりのお客は、わたしを見透かす者のように表現する。
のんちゃんって自由自在って感じがする。
勝たせるのも負けさせるのも、のんちゃんの匙加減ひとつ、まるで自分が掌の上で転がされているだけのように思う、という。
また別のお客が、のんちゃんのよくわからん威圧感に負けないように、というと、横に座っていた古馴染みのお客が、のんちゃんの威圧感、わかる、と横で同意して笑っている。
わたしは声も上げずにふとかすかに笑う。
わたしに威圧感が?
それはあるだろう、という思いと、だからって何だというのだろう、という思いを同時に味わっている。
世の中を不公平だと称し、そう信ずる者は、
まるで他愛のない何かにすぎない。
わたしはそう思うんだ。
それはあなたの夢であり、あなたの信念であり、
わたしの夢であったことはなく、わたしの信念であったこともない。
その手には乗らないんだ。
まるで巧みとは言い難い、そんな手に、どうして乗ることができるだろうか。
わたしはわざとらしさと、白々しさに、まったく裸足で舞台を駆け降りる者だ。
一秒一刻も、そこに参加してはいられない、という思いだけがする。
でも、思うんだ、
わかるんだ。
かれらがなぜそれを望み、それを演じたいと願うのか、ということが、
わたしにはひりつくほどにわかる。
それは未だひりつくような何かであって、
わたしはとても真顔を保てない。
笑い出してしまったわたしがかえって場を白けさせることになるのならば、
わたしは、慌ててその場を降りてしまう。
これはわたしの尊重だ。
そうであって他ではない。
なぜ知っているのかわからないが、ともかく知っている。
なぜ知っているのかわからない、
こんなことも、まるで他愛のない弁解にすぎないところがある。
なぜ知っているのかをわたしはたしかに知っている者だ。
わたしは知りたいと宣言した。
そうであるがゆえに、知っている。
それだけのことにすぎない。
自分が知ろうとしたことは、ただ知ることになる。
そして自分が知ろうとしなかったことは、ただ知らないという状態に留め置かれる。
まるで自在な何かであるのにすぎない、
まったくそうであるのにすぎない。
わたしだけが自由自在なのじゃない、誰だってあらかじめそうであるより存在のしようがない。
こう思うとまったく突拍子もなく、笑ってしまう。
ここに理解がある。
ここに愛がある。
ここにまさに、在りて在るもの、それだけがある。
いったいなぜ怯めたのだろう?と思うんだ。
誰だってしたいことをしているだけだ、
誰だって望んだとおりの自分を実現させているだけのことだ、
わたしがそういうと、そんなわけがない、と強情に言い張った者の意見に、
いったいなぜ、どうして、怯めるものであったのか。
ううん、それはまったく、怯む気持ちを味わいたかったからに他ならない。
わたしは怯む、ということをたしかにどこかで体験したがっていたのだ。
そしていまや、なんでもない、ということをあらためて知る。
わたしが一番表現したいこととは、
自分の尊厳を自分で奪う者にはなるな、ということだ。
ずっとそうだった。
ずっとそうであり、そうでしかなかった。
自分の尊厳を損えるのは相手じゃない、それを損なえるのは自分自身をおいて他にあるはずもない。
いったいどうして、いかなる目的と意図によって、
他者が自分の尊厳を剥奪したのだと訴え、信じることができるのだろう。
まるで先延ばしにすぎない。
まるで無為なる延長戦にすぎない。
最初から答えはわかっているのに、相手の口からそれを言わせようと孤軍奮闘しているものにすぎない。
鏡とは「自分」を映すものであって、そこに自分がいるわけではないっていう、あたりまえみたいな何か。
わたしの理解とは、「かれがあなたを憶えていないのではなく、あなたがあなたを憶えていないのです」ということに尽きる。
別の角度から言えば、相手を変えることはできない。
鏡を見て寝癖を直そうといくら鏡に映った髪に手を伸ばしても「絶対に」直せない、というくらい不可能だ。
そんなのわからないじゃん、いつか映りこんだ姿が変わらないなんてどうしていえる、
と言われたら、まあじゃあそうは言わないけど、
「いつか」をいつまでも待つとか努力するとか研究するとか、そうすることに価値がないとまでは言わないが、
でも確実なのは自分が自分の髪に手を伸ばして直すことだよねと思う。
あなたが他人を恐れるのは、自分自身を恐れているからだ、というのも、とてもよくわかる。
あなたは他人を、つまり外側の世界にあるものを恐れるが、
その実自分自身の未知なる無意識、ブラックボックスを恐れてそれに直面しないために外側の世界に原因を求め、外側の世界の「確かな存在感」を求める。
怖い、っていうのは本当に怖いよね、と思う。
怖いっていうのは本当に怖い、それは「理屈」ではない。
でも、思うが、
自分でふと馬鹿馬鹿しくなる瞬間という経験はないだろうか。
お世話になっている美容師さんの子どもが幼く、医者がああだこうだと「勝手なこと」を言うのを憤慨しながら、気になってしまう、
気にしてはいけないと思うのに、どうしても心配して色々検索してみたりして、
こんなことを調べるからいけないんだと思いながらその心配はやまない、
というような「わかっているんだけど」という「馬鹿馬鹿しさ」ではなくて、
それは不安に無理に蓋をするような「言い聞かせ」にすぎない、そうではなく、
ふっと、本当に心の底から馬鹿らしくなる瞬間、つまり恐れから解放される瞬間だ。
わたしは子どものころ、死ねば「わたし」はどうなるのか、意識がなくなるのだろうかと思って実に恐れたが、
色々あるが要はそんなことは今心配したところで「わかりようのない何か」だというある種開き直りに似た気持ちでふと肩の力が抜けた。
その「肩の力が抜ける」という感覚、
不安から安堵への、
言い聞かせるような安堵、いわば「安堵したい」という気持ちはある、というようなことではなく事実「安堵した」気持ち、
こういうものが「他人」に対してもある。
あった、と思っていた。
だがどこかまだ納得したりていなかったか、新たな疑念が沸き上がったかして、
ふとそうした不安にからめとられていた。
たとえば、完全に自分に安心してしまったならそこで成長が終わるか人生が終わるのではないか、というような不安と「それ」は結びついたのかもしれない。
わたしは「覚醒」しにきたわけじゃなくて「遊び」にきたはずだ、という思いのような何かだ。
ずっとあった、普段は意識しないし心配もしないような、でも晴れない疑念というものはたしかにずっとあった。
たとえばそれは、結婚は堕落だというような思い、
そしてわたしは、結婚を堕落にしない覚悟ができた、あるいはその覚悟をするときがきたのだ、と思った、それは「直感」に似た何かでまだ、定着せずに揺らいでいるところがある。
わたしは「ほら、やっぱり他人は自分とは違う何かとして実在している」という決着を迎えるためにいままでやってきたわけじゃない。
そんな確信だけがある。
他人にすることは自分にすることだとわかっている。
わかっている、知っている、それを体験している、
でもまだ足りないのだという。
いわば、「覚醒」したからって人生終わらないよっていう確信がなかったりする。
そうなのかな、そうだといいんだけど、というような気持ちでしかないところがある。
そのブラックボックス、
しかしいったいそのブラックボックスをすべて引っくり返して、「なにも恐れることはなかった」ということを確認するまで「何もしない」というのもまるで現実的ではないし、
実際にわたしは「何もしていない」わけではない。
要するにこんなことは「段階的」に起こるのだ。
わたしは家のドアを開けた瞬間、世界が崩壊するのではないかと恐れながらドアを開けることはない、
そんなことを恐れた経験がないからというより、
まあ、ないに等しいが、
たとえそうだとしても、そうだとしたところでいったい自分に何ができるだろうかというある種の開き直りが「ちゃんと」ある。
そう、このたとえそうだとしても自分に何ができる、という、
こういうことだなと思うんだ、「自由意志などない」というものが伝えたいことは。
正体のない不安に苛まされ、「不安に蓋をする」ことでそれを克服し得たと「勘違い」する、そうじゃないよということが言いたいのだ。
しかし世の中には「恐れないひと」というのがいる。
いや、恐れることを恐れないひと、というべきだろうか。
ほとんどそれは、本当に恐れを感じているひとからすれば、「恐れているふり」なのでは、と突っ込みたくなるような、
なんかそんなような。
たしかにこんなことは段階的に起こる。
1について馬鹿げていると笑って一蹴できるからといって100についても同じ態度が取れるわけではない。
でも、1についてそうできている、ということを、100を乗り越えるための「気づき」にすることはできる。
1を笑うことも100を笑うことも同じだし、
1を恐れることも100を恐れることも同じだ、
1の恐れは劣っていて100の恐れは優れている、などということはありえない。
それが「恐れ」である限り、1だろうが100だろうが等しく恐れであるのにすぎない。
実際、100の恐れ、100個目の恐れは優れた恐れだ、と思うことに何のメリットがあるかって、ないよな。
それは絶対に乗り越えられない/乗り越えてはならない「壁」だと自分に言い聞かせているのにすぎない。
わたしは、わたし自身のもの、「自我」
「ゲーデル・エッシャー・バッハ」
図書館で予約してあまりの分厚さに、ちょっと眺めている。
二冊分、それだけといえばそれだけ、だが。
で、
「平気で、うそをつくひとたち」
こっちを読み始めると面白い、何。
「I」という本が取り上げていたので借りた、
なんとかいう「自閉症」的な少女の話が、友人を彷彿とさせてやまない、
こうまでではないが、どこかそのまんまでもある、
これを彼女に読んでもらったら、と思い、
いや、邪悪と著者が称しているそれを読め、ということは躊躇う、
邪悪、というか。
あれだろ、「自我」についてだろ。
これはまったく「自我」についての言及だ。
精神科医のそのひとがその少女について、邪悪と指摘するのはまったくこちらが邪悪なのではないかと懸念する気持ちはわかる。
恐れを抱く気持ちもわかる。
わたしは、友人を怖い、と思った、
どうやったらそうも、そうまで、自分の都合だけで相手にかくあれと望めるのか、期待を抱けるのか、
いわばどこか、相手を操作したい気持ちを臆面もなく表現できるのか、
わたしはあなたには何も言わないし、何も明け渡さない、と撥ねつけたいような気持ちを味わった。
それ以上近づいたらわたしはあなたを攻撃する、
攻撃する、そんな自分を自分が窘めて、相手が怖い、と言いのけた。
少女が見た、夢の話もきわめて興味深い。
どこかの異星で、自分は科学者で、自国とずっと戦争をしている、敵国を完全に敗北させ得る兵器を作っている、
もう少しで完成するというときに、敵国の男がやってきて、この兵器を破壊しようとする、
相手がその目的を持っていることを自分は知っている、
それで自分は相手とセックスをすることでこちらへ取り込もうとしたら、
ベッドまで行ったくせに相手は立ち上がって兵器を破壊しにいく、
そこで恐怖の叫びをあげて、目が覚める。
その敵国の男とは、ぼくのことだね、と精神科医。
あなたのことだと思うわ、と彼女は同意する。
その兵器とはあなたにとって何を意味していたんだろう、と精神科医。
知性だと思う、と彼女。
実際、彼女には知性がある。
ああまで何か何も成立させえない支離滅裂なようでいて、他人の意向を無視するようでいて、まったく正気でしかない冷静さがあり、
そこが怖いんだよな。
相手の意向を無視するようでいて、相手を眼中にちゃんと入れているような、何か、冷静な判断がある。
「春にして君を離れ」を友人に勧めたら、
ジェーンはわたしだ、とすぐに言うようなあの、何とも言えない、
どこか厚かましさ、どこかふてぶてしさ、肚の座ったような何か。
自閉症的とは思わない。
自閉症的、という言葉はまったく便利なようだが、
わたしは自閉症のひとが書いた本を読んで、どこかしら共感するものを覚えるし、
かれらは純粋な何かだ、ということを感じるから、
自閉症的、という言葉には抵抗がある。
自閉症であることは、邪悪さとはものすごく縁遠い何かだと思う。
かれらは何も操作しようとはしていない。
要するに自我だと思う。
これは自我についての言及そのものだ。
キリスト教会の示す教義を、実に棒読みのように読み上げる、神に仕える、
いいえ、わたしはわたし自身のもの、と叫ぶ少女、
わたしがわたしを明け渡したらわたしが死ぬ、と叫ぶ者、
それは、自我だ。
まったく自我にぴったり密着し、、
他の誰もがそうはあれないほどそれに感情移入し、それを引き受け、それそのものとして生きている、
そしてほとんど誰もが手放しきれずにどこか無意識なまま残している自我を、手づかみに触る。
あなたはまったく自我について正直じゃないわ、
わたしの方が正直だわ、
と迫ってくるような、それ。
いや、怖いだろ。
いや、面白かった。あの本は、おもしろい。
「I」よりわかりやすいというか、身近というか、小説的というか。
今朝ふと、夢で、未来のような感じのする夢を見たのを覚えていて、
未来の夢を見る、というのは不思議な感覚だと思い、
「火の鳥」の犬の面を被せられた男と、未来都市に生きる男が、お互いに夢でお互いの生を見るという話を思い出している。
ふとブッダが何度もひととして生きた、という話も思い出す。
ブッダは何度もひととして生きた、
キリストはそうじゃない、
何だろうそれ、と思っていたことを、
それで、ブッダは何度もひととして生きた、
それを聞いててっきりわたしは、過去で何度もひととして生きた「結果」、あの時代に覚醒したんだ、とそう受け取っていた。
以前に読んだ本で、ブッダは最近もひととして生まれてきたんだけど、大したことはできずに堕落して死んだ、みたいな話を、
なにそれ、一度自転車に乗れたひとはずっと乗れるはずだ、
あのとき覚醒して、今世では堕落する、
それではまったく意味がないじゃないかと懐疑的に斥けた気持ちを思い出し、
いや、ちがう、
過去も未来も同時的に起こるのなら、
あの二千年前か三千年前かもっと前だか忘れたけど、覚醒したというブッダが、
数多く生きた人生、
その一つが現代であったところで、
不思議はないんだ、と気づく。
過去から現在、現在から未来へという、この直線を一方向的に疑いなく受け容れているから、
受け容れがたいことが起きてくる、それだけだ。
過去も未来も同時的、
これをわたしはどこか、直感的に受け容れている。
いやむしろ、知覚的に、知識的にというべきかもしれない。
どこか、
目の覚める思いがする。
きっと無視しえぬ何かとして残る。
天動説から地動説へ、という話が忘れられない。
折につけ、聯想するんだ。
わたしはあの場へ居合わせたのではないか、と思うほどだ。
過去から未来へというこの一方向性を、
わたしは、わたしたちは「実感」として持ち得ている。
それはまるで、
地球の周りを太陽とか星とかが回っているんじゃなくて、実際には、
地球が太陽の周りを回っているんだよ、と聞いたところで、
太陽が動いているように見えるし、
地球がいま現に動いているのが、とくと感じられるのかといえば、
それを感じるには、地球に比して我々はあまりに小さい。
感じられるわけがない。
自我。
可愛いよな。わたしは、
可愛いと思う。
思っている。
どこかそれは嫋やかでさえある。
いまにも崩れ落ちそうで落ちない何か、
どこか魔のような、純なような。
うん。
可愛い、でも怖い。
見ているだけでいい、触れない、
わたしはまだこの身体に慣れていない。
わたしにも身体があり、あなたにも身体がある、
わたしはまだこの身体に慣れていない。
ふと、思うんだ、
何をどうすればわからないって、
何をどうすればこんな事態が動くのかわからない、
他人の言うことはまったく当てにはならない、
まるでいい加減で無責任だ、わたしは怒りさえ覚えるんだ、
そんな横着な手で、触らないでって。
何をどうすればわからない、
と焦燥、気後れ、喪失を感じる自分、
まるで、
わかっているのがあたりまえだと思い込んでいるような自分こそが、
思い上がっているような何かだと。
わかるわけないだろ、
そう思うとふと可笑しさのあまり、笑ってしまう。
あの本の著者があの少女のくだりの最後に結ぶ言葉、
彼女が無能なのではなく、自分が無能だ、
彼女が無能なのだとすれば、自分が無能なのだと。
こんな結びはまったく誠実でいて、隙が無い。
かれが、
実に敏感だって思う。
実に臆病な何か、実に、用心深く誠実な何かだと、思っている。
それはまったくわたしがそうであるように、そうなんだ。
自分と同等のものを引き寄せる。
という言葉がまるでおまじないのように、わたしを勇気づける。
それは、わたしを勇気づける。
自分を騙す者は自分だけ。
半覚醒のときのあれ、
あれは、本当になんであんなに明晰なんだろ。
なんで、というのもおかしいが。
反重力を成立させるためには折り返しの0を見極める、
それが0の地点をはっきりと認識する、意識する、いわば目に見えるように、
指摘する、必要がある。
そのためにはたしかに「賢さ」がいる。
それを「賢さ」と呼ぶ。
あれが誰の逸話だったのか、思い出せない。
檻の中の虎を懐かせたひとの話だ。
それは単に可能だ、
わたしはそうでありたいと思った。
それは可能な何かだ、わたしはそれを可能にする者だ。
慈悲がそれを可能にする。
慈悲とは、恐れのなさだ。
わたしのもどかしさ、
なぜこんなことも見えない、というそれ、
そんなん、作り話やって、と払いのけてしまうその雑な手、
まるで賢ぶる愚かさ、
わたしは相手の愚かさを感じ、たしかに動揺してしまうんだ。
あのぼろぼろの鞄のくだりで、
わたしはふと思い出して、かつてわたしの机がいかに雑然としていたか、
でも何がどこにあるのかはわかっていた、本当にわかっていた、
このカオス、この雑然たるものを雑然とさせたまま自分が統べている、こんな感覚を味わっていたんだと思う。
大人になり、きちんと片付けられた部屋をふと見渡し、
なんて詰まらないものになったんだろう、という感慨がわいたことがある、
そんな話をする。
なんて詰まらない、
でも、戻らない。
そこは戻せない、戻ろうという気にならない、と思った、という話を。
慈悲は憐みに似ている。
似ているが、違う。
わたしはそのどちらも知っている、知っているからわかる、
それは違う何かだということが。
おまえのような地を這う虫が、と言ってのけるような、
あんな鼻面を叩いてしまうわたしは、遊んでいる、
遊んでいる、
でもどこかたしかに、焦燥がある。
それを踏み台にしてでも伸び上がりたい気持ちを持っている。
それの愚をどこかわかりながら、
-3に+5なら、+2にはなる、ということもまたわかっている。
なんて詰まらない、わたしは微笑している、
そこは戻らない、戻せない、
それは単に回顧的な感慨にすぎない。
掛け算を理解したときに、掛け算を知らない状態には戻れないんだ、
一度自転車に乗れるようになれば、自転車に乗れない状態には戻れないのと同じだ。
片付けもそれに似て、
おそらくこれが、ひとに言われて納得しないまま、それがいいんだと信じて、やってみてその良さが腑に落ちないまま、無理にその状態を保っている、
こんなことならいずれ崩壊する。
それは元に戻ってしまう。
そんなようなところがある。
社会はどうあれ、生きるということは採点方式ではない。
こうすれば、誰かから点をもらえる、
そんなことではない、
自分の腑に落としていかなければ先へは行けない。
自分の腑に落とす、といういわば目には見えない何かが、自分を否応もなく先へと押し出す、
そんなようなところがある。
誰がその成長を認めなくても、自分では確とわかっている、そんなことが、
まだ見ぬその先へと自分を連れて行く、
そうでしかない。
あるいはまた、
ダウンロードを受け容れる素直さ、
我の汚れのなさ、
こんなこともまた、次には可能になる。
ともかく我を使いこなさなきゃ、何の何でもないところがある。
この二元性を超えなければ、というのも、よくわかる。
この二元性と我は実によく似た、
なんていうか、システム。
賢さとは慈悲を言い換えたものだ。
レタスを食べる自分も、食べられるレタスも自分、そんな感覚はわかる、あなたはわかる?と聞くと、
わからない、むしろ、
あなたはなぜわかるのか、と聞かれたことがある。
なぜわかるかって、それは、
その道を通り抜けてきたからだ、としか言いようのないところがある。
わたしはその道を追体験してきた。
書物はたしかに道を照らしてくれる。
でもそこを実際に通るのは自分だ。
いくら本を読んでも、それが字の羅列にすぎないものなら、
それの音読はできる、というようなものにすぎないのなら、
自分の中で再構築され得ないものにとどめておくのなら、
何のなんでもない。
他者が存在する、という幻影に惑わされて自分の内面を照らさないものなら、
同じことだ。
自分を騙す者は自分だけだ。
他者を裁くたびに、あなたは罪悪感を募らせ、報復に怯えることになる、
というのは本当だ。
実際のところあなたは、あなた自身を裁いている。
そうして限界を設け、自分が自分を先へと進ませないところがある。
自分を限定し、もっと広い世界、もっと明るい世界を見ないように閉じ込めている、
それだけなところがある。
自分の邪魔をできるのは自分だけ。
実際のところ、ダウンロードを受け容れている者はわたしだ、
わたしは、
すべての体験を書物を読むように体験している。
自分の身に起きた出来事と、書物で展開されている出来事は、
同じものだという目線で生きている。
そこに違いはない、と思っている。
実際に自分の身に起きた出来事をまるで、書物で読んでかれらの経験を追体験するように、感じ取っている。
そこに悲哀はあり、憤懣はあり、攻撃もある、
絶望もあれば、希望もある。
それはただ、ある。
それをないものだとは言わない。
それはきっとある。
自分がまさに体験しようが、書物のなかの、
いわば、わたしの隣人が体験しようが、
入り込めば同じことだ、と思っている。
自分を守るようには、ひとを守れない。
自分を攻撃するようには、ひとを攻撃できない。
かれら、ひとの上に立つ全知全能の神になりたいかのようだ、
そんなことは無理だってわたしは笑う。
あなたはあなたの上に立つ、そんなことしかできない。
そして、そうしかできない、ということの余りある恩寵をまだ知らないでいる、
それだけだ。
自分はひとの鏡になる、と言ったひとがいる、
相手が善いひとならば自分は善いひとに、相手が悪ければ自分もまた悪いひとに、という、
まさに大いなる勘違いだ、
ひとが自分の鏡なんだ、そこを決して間違えるな。
おまえは生きた何かであって、鏡、そんなものではない。
エゴくらい、いるだろ、あたりまえに。
自分とはもはや、ハンドルを手放した、臨在するものなんです、ということほど、
馬鹿げた何かはない。
まだいるよ、おまえ。
そこにいる。
まだ知覚できる者として、そこにいる。
死がふたりを分かつまで、共にいる。
わたしは自分を愛します、と言ったら心がじんわり暖かくなるのを感じるでしょう、とバーソロミューが言っていたのを、朝、起きて、思い出す。
朝、起きて。
朝、起きる、こんな奇蹟。
あなたはそれを知る由もない、
なぜなら、わたしもまたそれを知らないからだ。
明け渡し、という言葉が繰り返し迫ってくる。
そう、そんなような何かだ。
わたしは、誰にも自分を明け渡したことがない。
本当は誰だってそう、
多くの人にはそうしたところがある。
伴侶、親、子ども、恋人に自分を明け渡している、つまり、
愛している、
と言い、そう信じているかのようにふるまう。
それはもう、そう信じている、と言ってもいい。
でもこんなことはどこか不自然な何かにすぎない。
わたしは誰にも自分を明け渡す必要がない、むしろそんなことはあらかじめ不可能だと、感じ続けていた。
そのエゴに、このエゴは、どうしたって嵌らない、そんな何かを、
その嵌らなさゆえに、気づきたくてならないものがあった。
あったんだ、と知る。
自分のもの、というのが幻想だとしか思えなかった。
そこに詰まるものがあった。
そこにまだ均せないものがあった。
お金で解決できると思っていたら、わたしはお金を全部流しに流してしまう、
そんなところがあった。
物など持たない方がいい、
相手が自分には使えないものを、これいる?と持ってきたら、捨てたいんだなと了解して、受け取って家に帰って捨ててしまう、
それが親切だと信じている。
いらないんだろ、そんなもの。
あなたは「まだ使える」それを捨てるに捨てられないんだろ。
わたしもいらない、
わたしが受け取って捨ててあげる。
お金持ちが針の穴を通るのは、というくだりに納得している。
だから、わたしは、持つ者でありたいんだ。
なにか災害があって、家も何もかも流されたようなときに、
普段から物が少ない生活をしていてよかった、失ったものはたかが知れている、と安心するようなら、
物を持たない生活をする、何の意味もない。
あなたはまだ失うことを恐れている。
失うことを恐れて物を減らしているのなら、物に囲まれない価値を享受しているとは言いがたいところがある。
失うことを恐れる、
こんなことがあらかじめ不可能な何かなのだと知らないでいる。
失うことを恐れる、
それはまるで、
いずれ死ぬのなら生まれてこない方がよかった、というような何かだ。
執着からではなく物を持つ。
失ってはならないものなんてない。
それは失いようがない。
執着に執着を重ねて、これが生だと迫ってくる者に、
わたしはどこか恐れをなしていた。
そんなものが生などではないことを、わたしは知っている。
わたしは、ただ、知っているだけだった。
知っていて、相手を説得できない、する必要性も感じない、ただ、
たじろぐ思いで相手を眺めているだけ。
相手を殺すことをまだ躊躇っているだけ。
目を見ない、
目を見たら相手を消滅させてしまう。
相手を殺してしまう。
だから、目を見ない。
見るとすれば、どこか煙らせたような目、見ていながら見ない、相手を殺さないと決めた、そんなような目でしか、見ない。
あの死ぬ直前のようなとき、わたしは相手の目を見た。
目が違うね、とわたしは言った。
もう、目が違う。
殺気立ったような、剥き出しになったような目、
わたしはその目を見た。
わたしが見ようが見まいがおそらくまもなく死ぬ、
死にたくないと言いながら、もう死を知っているような目を、
それならばもう憚るところは何もないと思えて、目を見た。
殺すまでもなく死にゆくものの目。
どこか獰猛なその目を。
憚るところは何もない、いや、嘘だ、わたしはやっぱり殺さないと決めて見ている。
わたしは相手の、わたしを殺しそうな目をただ受け止めているだけだ。
もう死を知っているのに、まだ殺せない、
死ぬに任せて、殺せない。
執着に執着を重ねた目、
わたしは殺して構わないんだ。
相手の恐れとは、自分の恐れに他ならない。
わたしは、それを相手のものとしないで、もう自分のものにして、消滅させてしまって構わないのに。
それは自分のものだ。
相手のものだと思うから手を下せない。
この大いなる勘違い、
こんな途方もない勘違いをひとは愛と呼んで憚らない。
愛、あるいは恐れ。
愛とは恐れ、愛が恐れにすぎないような、途轍もなく変容してしまったそれ。
わたしは自分を愛します、というとまだハートが暖かくなる。
わたしはかれを愛するのではなく、自分を愛する必要があることに気づいている。
かれに働きかけるのではなく、自分に働きかける余地がまだあることに、気づかざるを得ない。
わたしは待っているんだ、
それが満ちて、溢れ出すのを、待っている。
すべてに気づく自分を待っている。
わたしはわたしを好きなひとが好きなんだ、とよく言っていた。
わたしを見もしないような、そんな畑違いみたいなものを、そんなどこか迂遠で、
どこか画然たる他人らしさを備えたようなものを、指名する、まさか、
まだ山も登れないのに山を飛び越えると宣言するような大変な労苦を、
わたしは好まない。
あなたが仕事をはじめるのなら、あなたの得意なこと、好きなことがいいでしょう、
という助言がいかにももっともだ、と感じるように、
わたしはわたしを好きなひとが好き、そう躊躇いなく言える。
砂漠の真ん中で商売をはじめるような、
そんな無謀をわたしは好まない。
画然たる他人らしさを備えたものでは、自分が自分自身に気づくことを困難にさせる。
あまりにも自分と違うような何かでは、
自分にまるで似ていないようなものでは、簡単に他人そのものだと得心してしまえるところがある。
それを他人だと安らかに認めているかぎり、
わたしがわたし自身に気づく、そんなことを困難にさせうる何かでしかない。
わたしが、わたしを、気づかないでいられる、そんなものでは。
わたしは手近なところからはじめたい。
裏山に花を植えるより、自分の庭に花を植えたい。
自分が自分に気づきたいし、まさに、そうでなければすべては、
要するにいつまでたっても変わりないものがある。
いつまでたっても始まらないようなものでしかない。
流しをきれいにしているひとに、家でも?と聞くと、家でなんか、
お金にもならない、
仕事でもない、
なぜ家でまで、
という。
いや、実に何か勿体ないにすぎないところがある。
つまり、仕事だからやっている、
本当はしたいことではないがやっている、
したくもないことをやっているんだ。
したくもないことをやっている、こんな愚にいつまでも絡めとられているのは本当に勿体ない。
もったいないから、まだ使えるからと合成革の剥げ切った鞄を捨てない、
それは七年間自分と共にいた、愛着もある、まだ使える。
もったいないのは本当はあなたのそんな在り方そのものだ。
まだ使える、どこか傲慢だ。
まだ使える、そんな理由がどこか、
それだけのもの、使えるもの、間に合わせのものが自分に相応しいと宣言しているような言動、それが傲慢さだ、
自分は最高だから最高のものを持つ、と言えないことがむしろ、傲慢さだ。
やっぱりエゴに気づく必要がある。
エゴに気づいていないと、簡単にこの捩れに絡めとられて、
ひたすらあべこべの世界に同意し続けるしかないところがある。
わたしは砂漠の真ん中で商売をはじめる者だ。
わたしは困難の多い方を選ぶ。
でも本当にこんな現実で商売をはじめるのなら、砂漠の真ん中ではしない。
わたしがしているのは、いわば、
なにもない砂漠の真ん中に座って瞑想しているようなことだ。
いざ商売をはじめるとなったら、もちろんひとに溢れた街でやる。
実際的なことの困難は選ばない。
実際的ではない、いわば形もないような何かなら、わたしは宇宙の果てまでも出かけていく。
実際的なことの困難は選ばない。
わたしは小銭だから賭けている。
勝とうが負けようが痛手はない、そんなものを賭けて、遊んでいた。
どうせ本気じゃない。
どうせ全力じゃない。
小手先の何かにすぎない。
わたしは誰にも自分を明け渡したりしない。
どう見たって自分のようではない、そんな相手ばかりを相手にして、なぜこんなことがわからないのかと、悲しくなったり、苛立ったりなどしていた。
そして、そんなことをもうやめている。
こんなことは言葉にして確認しないだけふと不思議になるが、
何度でもあるし、むしろ常にそうでしかないような何かだ。
思えばこんなことに夢中になる。
わたしは、
わたしを好きじゃない、という人間など、どこの何も信用できないところがある、としか思っていない。
それは知っているからだ、
簡単な原理原則をただ知っているから、
ということでもある。
わたしはわたしの根本が愛に他ならないことを知っているし、感じている。
わたしはわたしの中を大いに占めるものが慈悲に他ならないってことを知っている。
感じている。
なぜわたしのような慈悲の気持ちを感じられないんだ、感じさえしたらわかる、それだけなのに、と不思議がっているんだ。
その不思議さにまだ幻惑されている。
その執着の後ろ側にあるものは何なんだと、見抜くことが自分を見抜く、そんな恐れだけを恐れとして。
優しさが中途半端なそれをまだ残して、まだ食べずに、まだ。
わたしはどこか、ひどく横着ではないところがあって、
自分に厳しく、自分を見抜くところがあって、
自分を守るようにはひとを守れないんだ。
完全に明け渡さないものがある状態で、愛を外に出すことをどうしたって躊躇う。
そんな横着はただ、できない。
条件付きの愛、そんなものでかれを汚すことはできない。
それは汚すことだ、と恐れている。
自分がすることを恐れているんだ。
相手を見るような愚はやめなければならない。
つまり相手次第にするような横着さとはどこかで決別しなければならない。
自分が自分を認め、受け容れ、愛する、自分が自分と共にいる、
完全に共にいる、
そうでなければ、他の誰と一緒にいることなどできるだろう。
できないね。
わたしにはできない、そのことだけがわかる。
背骨を折った顛末を、
あれはよかった、と思えるんだ、と言うと、
もっと大怪我じゃなくてよかった?ということ?
いや、そうじゃない。
そうじゃない、なんといえばいいのか、
もっと大怪我じゃなくてよかった、というのなら、それはまるで、
物を持たない暮らしをしていたお陰で、災害ですべて流されたときに、失うものが少なく済んでよかった、
というようなものと変わりない。
そうじゃない。
これを経験できてよかった、というような思いだ。
この災難を経験できる自分でよかった、という思いだ。
この災難はもはや災難ではなく恩寵のような何かだと、思える、それをそうと思うには自分というフレームが不可欠だ、
わたしはそのフレームについてむしろ感謝しているんだ。
事故そのものに感謝しているというよりも、それをどう捉えるかを任されている自己を感じて、嬉しくなっていた、
それだけだ。
こんな遊び。
わたしは鹿のように臆病になり、鹿の角のように頑なになり、
光が溢れ出すその瞬間を、他のことに作用させて、見つめている。
こんなことが何になる、とふと思う。
いや、こんなことが何の何にでもなるんだ、と思っている。
こんなことでさえ、何の何にでもなる。
どのみちわたしの意識はそこへしか向いていない。
そうだとすれば、すべてが、それを指し示すものに他ならない。
すべてがそうであるところのものへ帰結する、
そうでしかない。
あれでは無理、これでも無理だ、
それでも無理。
なぜ彼らを自分と同じようなものだと思うのか、
そんなわけないんだ、
あなたはわたしに世界一、もっと自負した方がいい、そう言った。
それはまったくのところ、あなたがあなたに冠する称賛に他ならない。
ほかの者を頼るようなものが、どうして世界一だ。
そこはもういらないんだ、
そこはもういらない遠慮だ。
あなたと、あなたではないものは、違う何かなんだ。
それは同じではない。
それは、同じではない、
同じではない、
それでいいんだ、それがいいんだ。
恐れることなく踏みしめるがいい。
かれらは踏みしめられることを同意してきた何かにすぎない、
そこに何ら遜色はないことを、受け容れなくてはならないんだ、あなたが。
踏みしめる者も踏みしめられる者も、等しく同じ何かだ、ということを。
わたしは、そばにいる。
死がふたりを分かつまで、共にいる。
何が死と呼ぶに値するに相応しいか、そんなことは依然わからないまま。
賭けずにいることは不可能だ。
この順序に逆はない。
ということがある。
わたしは目覚めたことのない人間なんていないだろう、と思っている。
目覚めるとは要するに自己のふるまいに意識的な何かであり、
まったく無意識に生きている人間、
そんなものはいない。
これはどこかしら皆自閉症、皆発達障害、皆統合失調症、
程度差にすぎない、境界線はない、と感じるのに等しいような感覚。
慈悲があれば、あるいはユーモアがあれば意思の疎通ははかれるはずだ、という気持ち。
感じ、も大事かもしれないが、
あるいは第六感的な何か、
閃きのような何か、
それはどこか不可欠なものかもしれないが、
わたしは、理詰めでも悟れるだろうと思っている。
ワープじゃなくて、飛躍じゃなくて、そこに一段一段橋を渡すことは、
不可能なんかじゃない、
不可能だなんていったい誰が決めた、
わたしは決めていない、
という思いがある。
悟りについて、それがあれば自分は救われる、というような捉え方では無理、
というのはよくわかる。
劇的に何かが一変して、
たとえば宝くじに当たって一夜で億万長者的な何か、
たしかにそういうことではない。
ある日突然白馬の王子様が的なものではない、
何がどうなっているのかわからないがともかく自分は救われた、ものすごいラッキーが自分の身に降りかかってきた、
そんなようなものではない。
悟り/覚醒とは、そんなものではない。
何がどうなっているのか自分でわかっていないのなら、
何の何でもないではないか。
不幸な道程の終点だけは幸福、こんなことはありえない、というのが近い、同じだ。
それが自己を行き過ぎるものに、意識的であれ、意図的であれ、ということであり、
まずは知識としてでいいから、感情とは何か、思考とは何か、ということを知ればいいと思う。
まずは知識としてでいいから、自己とは、エゴとは、ということを学べばいいと思う。
そして、1+2+3=6が何を言っているのかわからないけど、
1+2+3=5でもいいんじゃないの、というような横着には陥らないことだ。
答えらしい答えに飛びつくのではなく、わからないことはわからないで済ませる、真摯さがいる。
わからないことをわからない、と率直に認めるのは何の横着でもない。
ただし、わかるわけがないだろ、と攻撃的になる必要はない。
わからない自分が情けないとか、どこか、卑下しているのだか自分を何様だと思っている傲慢さなのかわからないような態度を取る、そんな必要もない。
わたしは、1+2+3=6だろ、というと、
それは2+2+2=6でも同じだよね、と返してくれるような相手を求めていた。
エゴにはたしかに、わからないものをわからないということを、意地でも認めず、死んでも嫌と言いたがるところがあって、
その場しのぎでも何でも、わかっているふりでも通ればそれでよしとするような、
おまえ、それは何の行き腰なの、と呆れて突っ込みたくなるような、
そうしたところがあり、
わたしはただ呆気に取られて眺めているだけだった、
何をどう切り込んでいいのかわからずに、
下手に関わるくらいなら、相手が気づいていないのなら、自分の存在を主張する必要も何もないと思って、
ただ眺めていた。
何がそうさせるのか、わかるようでわからない。
ひとの意図を掴みかねて、
掴めない以上、わたしには何の衝動もなくただ、眺めているだけ。
1+2+3=6ってことは、
と続けようとすると、よくわからないけど、1+2+3=5でもいいわけでしょ、と遮られて、
いや違う、と立ち止まる。
わたしは、いや違う。
としか言えなかった。
1+2+3=5でもいい、の意味を図りかねて、戸惑うだけだった。
何がいいんだろ?
何がいいんだ?
そうして歩みを止めたものがまた、動き出しているのを感じている。
どこか、いくら耳を傾けても、
1+2+3=4でもいいわけじゃないの?
とか、
+3を省いて、1+2なら6ってことにしておいてもいいけど、
とか、
どこかそうではない、
何をどうひっくり返したところで、そうではない、
というような話を聞くのに、唐突に飽きて、
要するに数は数えられても、数の並びは暗記できても、数を使えないんだ、
記憶については詳細に語れても、記憶にはない仮説を立てることはできないんだ、
なら、他の話をしようって、
他の話をするんだけど、
やっぱり、
どこか物足りていない自分に気づく。
ふいに飽きて、倦んで、あたりを見渡す。
世界は広い。
こんなにも世界は広く、明るく、輝いているのに。
わたしは眩しく、生まれてはじめてのように、その光に目を細めて。
自分がわかるものについて、あたりまえにわかる者と話がしてみたい。
1+2+3=6ってことは、というと、
2+2+2=6でも同じことだよね、
1×2×3=6でも同じだし、
むしろ2×3=6の方がシンプルでいい、
そんな話をしてみたいと望んだ。
もう、望んだ。
だから。
わたしはそう感じている。
ここの順序は逆にはできない、そう感じている。
幾億通りもの過去があり、幾億通りもの未来がある。
何を選んだっていいんだ。
意図的でさえあれば。
全体を見渡す目さえ持っていれば、
何を選んだっていい。
何を選んだところで、間違える、そんなことはただ不可能にすぎない何かだと、笑えるんだ。
まだ選べない、そんな物言いはただ、嘘やまやかし、ありえない何かにすぎないところがある。
まだ賭けられない、そんなこと、馬鹿げた安心にすぎない。
わたしたちはすでに賭けている、
わたしたちはすでに選んでいる、
選ばずにいること、
賭けずにいること、
そんなことはそもそもの最初から出来ないような幻想にすぎなかった。
賭けていないつもりで賭けている、
こんなことが無自覚で、無意図な何かにすぎない。
溢れ出しているのに、溢れ出していることに気づかない、
自分の持ち得る器にまるで無関心な何か。
目が覚めたことのない人間なんていない。
何が横着かは自分にしかわからない。
99を100にしてしまうような横着、詰めの甘さ、
真実を手づかみにしない恐れ。
横着しかしたことがなければ、何が横着でないかはわからないだろう。
何が正解かは、まさにこれが正解だという気持ちを味わったことがなければわからない。
なんとなく、これが正解のような気がする。
いや、そんなものじゃない。
正解かもしれないことはまだ正解じゃない。
正解らしく思われることはまだそうじゃない、それじゃない。
そこをもうこれくらいでいいだろうとやめてしまうのを、わたしは横着と呼んでいる。
そしてたしかに、わたしもまたどこかの時点で、自分の横着さ、それを横着だと認めてそんなことは、やめようと決意した。
中途半端に手を打つ、そんなことはやめよう。
真に自分が求めるもの、愛するものを、
逃げや弱さを必然とはしないものを、
それを残したままでは無理、そんなものを欲した。
それを自分がわかっていようが、わかっていなかろうが、
変わりないのは、
自分の蒔いた種を自分が刈り取る、ということだ。
目の前の相手はそれが誰であろうが、自分にちょうどいい相手であり、
自分自身に気づく、隠れていた自分自身を発見するきっかけであるのにすぎない。
人を裁くことは、自分自身を傷つけているのに他ならない、
そのとおりだ。
いったい何を受け容れて、あなたは何を擲とうというのか。
1+2+3=6だとわからなくてもいい。
わかっていなくてもいい、でも、
1+2+3=5だと感じるひとがいてもいいよね、は違う。
そこはわからない、が正解だ。
わからないものはわからないことが正解で、
わからないものをわかる体ですすめる、
わかったことにしてしまう、
こんなことをわたしは横着だという。
知ったかぶりで現実を捉える、こんなことは、
欺瞞と呼ぶしかない、何の何でもない。
1+2+3=5でもいいじゃん。
いや、よくないだろう、
わからないものはわからないんだ。
1+2+3=5
それを受け容れることによって、何を擲っているのかを。
だいたい、こんな横着を受け容れたがるのは、エゴなんだよな。
すぐにわかると言いたがるもの。
正直さを擲てば、人生が詰む、わたしはそう言った。
いまもそう思っている。
正直さ。
これも横着と同じで、
何が正直かは、正直になってみなければわからない。
考えたことが現実にはならないのは、
そう感じるのは、
考えること、それじたいどこか理性的な何か、意識的な、恣意的な何かであって、
自分の考えがたとえば1番から100番まであったとしても、
5番と40番が自分の考えだと、自分では思っている、それだけなところがある。
ほんとうのところ、自分が無意識に信じている考え、
こんなものが一番力強く自分を働かせていたりする。
そこがわからないのは、
要するにどこかしら無頓着であり、横着な何かなんだ。
わからないことを、わかった、と言ってしまうような何もない空っぽの愚かさ。
そこをよくよく正直さを失わないようにしなければ、
ひとの考えを借りてきて自分が考えたことだ、というような、
ひとの感じたことを、自分の感じたことにしてしまうような、
もう、横着さ、こんなことは、
無益であり、無価値にすぎない。
自分を受け容れないことには自分がはじまらない。
そこを疎かにして、いったい他人とどんな関係を結んだ、といえるだろうか。
自己を犠牲にして他人に尽くしたところで、罪は消えないどころか、
さらにのしかかる罪という幻影に悩まされることになる。
罪なんてない。
あるとすればただ、自分が自分を否定すること。
はじまってもいない、自分で受け容れてもいない自分が、
いわば目の覚めてもない自分が、
他人とどんな関係を結ぶ、というのだろう。
片目をつぶる、こんなことをどこか、欺瞞的に感じていた。
それは、自分にとって堕落を意味する、そう思っていた。
友だちならいい、親ならば、それもいい、
他のひとには他のひとなりの事情と歩む速さがある、
でもわたしがわたし自身に対して片目をつぶる、
こんなことにいったい何の利益があるだろうか。
自分にダメ出ししろってわけじゃない、
そんなわけがない、
そうじゃなく、
むしろ、
自分にダメを出すような自分に、どうやって他人を愛することができるか、
ということだ。
自分をさえ受け容れない自分が、他人を愛する、受け容れるなんて不可能だ。
わたしは自分がどこか大きいことを知っていた。
知っていたから、ちょっと途方に暮れていた。
どこまでも大きくできる自分を、どこにどう収めていいのかわからないでいた。
最後の1は、いまこの瞬間にしかない。
わたしは端っこを追って、中心にある空洞をあたりまえにし、
生きるということを見ない、
目が覚めることをしない、
そうした、漫然とした境目の曖昧な何かをどうしても受け付けられずに、
折れずに、
どこか孤独だった。
ひとりだった。
自分が悲しめば泣きたいときもある、泣くこともある、
でもそれは、自分が孤独だからじゃないんだ。
孤独だから悲しいんじゃない、
孤独なのはどこかあたりまえの何かであって、そんなことじゃない、
ただ自分が悲しめば泣く、そんなこともある、それだけだ。
わたしはひとりだった。
誰の助けも借りず、支えもなく、そうじゃない、
むしろ、ひとりだということを受け容れてはじめてひとの支えを支えとして疑いなく感じることができる。
責任がある。
誰だって、自分自身に対する責任があり、
果たすべき責任とは、それしかない。
そこがわからない相手とは無理だということがわかった。
そこがわからない相手とは愛の真似事をするだけで、
真似事にすぎない何かにいつまでも自分を付き合わせる、こんな不誠実はない、
そう思った、気づいたから、
いまの自分がある。
いまの光景がある。
嘘を嫌うんだ。
嘘ってどこか娯楽でしかないところがある。
娯楽もいい、気晴らしもいい、
でも、
自分ひとりのとき、頭上の天空はいつでも晴れている。
それは嘘じゃない、といえる何か。
それはごまかしじゃない、といえる何か。
それは孤独を癒さない、孤独を紛らわせたりしない、
孤独は病ではなく、忘れたほうがいいようなものではなく、
あたりまえに常にあるものでなくてはならないんだ、
たとえ誰と過ごしていようとも。
孤独を癒す、そんなものではない、
孤独を紛らわせる、そんなものではない、
そうじゃないものを。
相手が覚えているから自分があるわけじゃない、
相手が思い出すから自分があるわけじゃない、
わたしがわたしを覚えているから、思い出すから、わたしがある、それだけなんだ。
行けると思わせる天才。
あれは、牽制だ。
どこか横着に流れてしまう自も他をも牽制する何か。
騙されておけばいいのに、と笑った、
こんなわたしは優しくてどこか怖いんだ。
どこか肚の底を見るような、足の裏までも見るようなわたしは、怖い。
2:50 2019/11/30
どこか、どうしたって、剣呑さを捨てられない、
わたしは怖い。
眠ったことのないわたしが、眠っている者を怖い。
いや、わたしは目覚めたことのない人間などいないと思っている。
本当にひとが目覚めず、眠ったままなら、そんなに饒舌に話せるわけがない。
あまりに虚ろな目をしているものは、怖い。
わたしはひとを見抜く、エゴを見抜く、いや、
もっと言えば、ひとの恐れを見抜く。
眠りながら自動入力されたようなセリフを喋るものが怖いんだ。
おまえ、どこにいるの?
本当にはどこにいる?
まるで抜け殻のようなそれ。
パターン化された自動装置で怒ったり主張したりするようなそれ。
ここにいない者と話す話なんて、何もないだろう。
過去とか未来とかいうのはたしかに、空想の産物だ。
いまここにあるものに比べて、あまりにも他愛なく、あまりにも実態をもたない。
昨日はこうだった、明日はこうなるだろう、
そんな、
どこかのしかかるようなそれ、
強迫的なそれ、
わたしは怖い。
わたしは、怖いんだ、だから話さないし、目も見ない。
見たところで、目が目でもないような何か、
何の何になるだろう、
わたしがわたしの恐れを増幅させるだけじゃないか、いたずらに。
あれらはゾンビに似た何か。
いや、わたしはゾンビに見えるものだって人間なんだって言い聞かせてここまで。
わたしはきれいだし、
どこか負けるのをよしとしない気の強さもある、
ひとの恐れを決して攻撃的には暴かない優しさもある、
わたしには余裕があり、優雅さがある。
どこか、ひとに踊らされないだけの泰然とした気品も備わっている。
いざとなればどんな何であれ、笑い飛ばすような最終兵器さえ持っている。
いや、わたしは、どんな何を演じようが、どこか、
きれいでしかあれないところがあって、
まるでバリエーションのない、大根役者のようなものにすぎない。
生身の女には相手にされないし、生身の女なんて怖いから、風俗に来ました、というような、
それでもまだ震えているようなそれを、
どうしても寛がせてあげられない、
わたしはそんな自分の小ささに気づいて、忸怩たる、
どこか申し訳なさ、
どこか、
卒然とした自分の限界を知る。
結局のところ、
いまの自分に相応しいものしかやってこない、
自分が楽々と、易々と、笑ってやり過ごせるような相手とは限らない、
自分が望んだ試練、
自分が望んだ限界のその先を暗示するものがやってきて、
立ち尽くすこともある。
何をどうすればいいのかさっぱりわからないと、泣きだしたくなるようなものだって、
やってくるんだ。