わたしは、わたし自身のもの、「自我」

ゲーデルエッシャー・バッハ」
 図書館で予約してあまりの分厚さに、ちょっと眺めている。
 二冊分、それだけといえばそれだけ、だが。
 で、
「平気で、うそをつくひとたち」
 こっちを読み始めると面白い、何。

「I」という本が取り上げていたので借りた、
 なんとかいう「自閉症」的な少女の話が、友人を彷彿とさせてやまない、
 こうまでではないが、どこかそのまんまでもある、
 これを彼女に読んでもらったら、と思い、
 いや、邪悪と著者が称しているそれを読め、ということは躊躇う、

 邪悪、というか。

 あれだろ、「自我」についてだろ。
 これはまったく「自我」についての言及だ。

 精神科医のそのひとがその少女について、邪悪と指摘するのはまったくこちらが邪悪なのではないかと懸念する気持ちはわかる。
 恐れを抱く気持ちもわかる。
 わたしは、友人を怖い、と思った、
 どうやったらそうも、そうまで、自分の都合だけで相手にかくあれと望めるのか、期待を抱けるのか、
 いわばどこか、相手を操作したい気持ちを臆面もなく表現できるのか、

 わたしはあなたには何も言わないし、何も明け渡さない、と撥ねつけたいような気持ちを味わった。
 それ以上近づいたらわたしはあなたを攻撃する、
 攻撃する、そんな自分を自分が窘めて、相手が怖い、と言いのけた。
 
 少女が見た、夢の話もきわめて興味深い。
 どこかの異星で、自分は科学者で、自国とずっと戦争をしている、敵国を完全に敗北させ得る兵器を作っている、
 もう少しで完成するというときに、敵国の男がやってきて、この兵器を破壊しようとする、
 相手がその目的を持っていることを自分は知っている、
 それで自分は相手とセックスをすることでこちらへ取り込もうとしたら、
 ベッドまで行ったくせに相手は立ち上がって兵器を破壊しにいく、
 そこで恐怖の叫びをあげて、目が覚める。

 その敵国の男とは、ぼくのことだね、と精神科医
 あなたのことだと思うわ、と彼女は同意する。
 その兵器とはあなたにとって何を意味していたんだろう、と精神科医
 知性だと思う、と彼女。

 実際、彼女には知性がある。
 
 ああまで何か何も成立させえない支離滅裂なようでいて、他人の意向を無視するようでいて、まったく正気でしかない冷静さがあり、

 そこが怖いんだよな。

 相手の意向を無視するようでいて、相手を眼中にちゃんと入れているような、何か、冷静な判断がある。
 

「春にして君を離れ」を友人に勧めたら、
 ジェーンはわたしだ、とすぐに言うようなあの、何とも言えない、
 どこか厚かましさ、どこかふてぶてしさ、肚の座ったような何か。

 

 自閉症的とは思わない。
 自閉症的、という言葉はまったく便利なようだが、
 わたしは自閉症のひとが書いた本を読んで、どこかしら共感するものを覚えるし、
 かれらは純粋な何かだ、ということを感じるから、
 自閉症的、という言葉には抵抗がある。

 自閉症であることは、邪悪さとはものすごく縁遠い何かだと思う。
 かれらは何も操作しようとはしていない。

 
 要するに自我だと思う。
 これは自我についての言及そのものだ。

 キリスト教会の示す教義を、実に棒読みのように読み上げる、神に仕える、
 いいえ、わたしはわたし自身のもの、と叫ぶ少女、

 わたしがわたしを明け渡したらわたしが死ぬ、と叫ぶ者、
 それは、自我だ。

 まったく自我にぴったり密着し、、
 他の誰もがそうはあれないほどそれに感情移入し、それを引き受け、それそのものとして生きている、
 
 そしてほとんど誰もが手放しきれずにどこか無意識なまま残している自我を、手づかみに触る。
   
 あなたはまったく自我について正直じゃないわ、
 わたしの方が正直だわ、
 と迫ってくるような、それ。

 いや、怖いだろ。

 いや、面白かった。あの本は、おもしろい。
「I」よりわかりやすいというか、身近というか、小説的というか。

 

 今朝ふと、夢で、未来のような感じのする夢を見たのを覚えていて、
 未来の夢を見る、というのは不思議な感覚だと思い、
火の鳥」の犬の面を被せられた男と、未来都市に生きる男が、お互いに夢でお互いの生を見るという話を思い出している。

 ふとブッダが何度もひととして生きた、という話も思い出す。
 ブッダは何度もひととして生きた、
 キリストはそうじゃない、
 何だろうそれ、と思っていたことを、

 それで、ブッダは何度もひととして生きた、
 それを聞いててっきりわたしは、過去で何度もひととして生きた「結果」、あの時代に覚醒したんだ、とそう受け取っていた。

 以前に読んだ本で、ブッダは最近もひととして生まれてきたんだけど、大したことはできずに堕落して死んだ、みたいな話を、
 なにそれ、一度自転車に乗れたひとはずっと乗れるはずだ、
 あのとき覚醒して、今世では堕落する、
 それではまったく意味がないじゃないかと懐疑的に斥けた気持ちを思い出し、

 いや、ちがう、

 過去も未来も同時的に起こるのなら、

 あの二千年前か三千年前かもっと前だか忘れたけど、覚醒したというブッダが、 
 数多く生きた人生、
 その一つが現代であったところで、
 不思議はないんだ、と気づく。

 過去から現在、現在から未来へという、この直線を一方向的に疑いなく受け容れているから、
 受け容れがたいことが起きてくる、それだけだ。

 
 過去も未来も同時的、
 これをわたしはどこか、直感的に受け容れている。
 いやむしろ、知覚的に、知識的にというべきかもしれない。
 どこか、
 目の覚める思いがする。
 きっと無視しえぬ何かとして残る。

 天動説から地動説へ、という話が忘れられない。
 折につけ、聯想するんだ。

 わたしはあの場へ居合わせたのではないか、と思うほどだ。

 過去から未来へというこの一方向性を、
 わたしは、わたしたちは「実感」として持ち得ている。
 それはまるで、
 地球の周りを太陽とか星とかが回っているんじゃなくて、実際には、
 地球が太陽の周りを回っているんだよ、と聞いたところで、

 太陽が動いているように見えるし、
 地球がいま現に動いているのが、とくと感じられるのかといえば、
 それを感じるには、地球に比して我々はあまりに小さい。
 感じられるわけがない。
   
 
 自我。

 可愛いよな。わたしは、
 可愛いと思う。
 思っている。

 どこかそれは嫋やかでさえある。
 いまにも崩れ落ちそうで落ちない何か、
 どこか魔のような、純なような。


 うん。
 可愛い、でも怖い。


 見ているだけでいい、触れない、
 わたしはまだこの身体に慣れていない。

 わたしにも身体があり、あなたにも身体がある、
 わたしはまだこの身体に慣れていない。

 
 ふと、思うんだ、
 何をどうすればわからないって、
 何をどうすればこんな事態が動くのかわからない、
 他人の言うことはまったく当てにはならない、
 まるでいい加減で無責任だ、わたしは怒りさえ覚えるんだ、
 そんな横着な手で、触らないでって。

 何をどうすればわからない、
 と焦燥、気後れ、喪失を感じる自分、
 まるで、
 わかっているのがあたりまえだと思い込んでいるような自分こそが、
 思い上がっているような何かだと。
 わかるわけないだろ、
 そう思うとふと可笑しさのあまり、笑ってしまう。


 あの本の著者があの少女のくだりの最後に結ぶ言葉、
 彼女が無能なのではなく、自分が無能だ、
 彼女が無能なのだとすれば、自分が無能なのだと。
 こんな結びはまったく誠実でいて、隙が無い。

 
 かれが、
 実に敏感だって思う。

 実に臆病な何か、実に、用心深く誠実な何かだと、思っている。

 それはまったくわたしがそうであるように、そうなんだ。

 自分と同等のものを引き寄せる。
 という言葉がまるでおまじないのように、わたしを勇気づける。

 それは、わたしを勇気づける。

  

自分を騙す者は自分だけ。

 半覚醒のときのあれ、
 あれは、本当になんであんなに明晰なんだろ。

 なんで、というのもおかしいが。

 
 反重力を成立させるためには折り返しの0を見極める、
 それが0の地点をはっきりと認識する、意識する、いわば目に見えるように、
 指摘する、必要がある。

 そのためにはたしかに「賢さ」がいる。

 それを「賢さ」と呼ぶ。

 

 あれが誰の逸話だったのか、思い出せない。
 檻の中の虎を懐かせたひとの話だ。
 それは単に可能だ、
 わたしはそうでありたいと思った。
 それは可能な何かだ、わたしはそれを可能にする者だ。

 慈悲がそれを可能にする。

 慈悲とは、恐れのなさだ。

 
 わたしのもどかしさ、
 なぜこんなことも見えない、というそれ、

 そんなん、作り話やって、と払いのけてしまうその雑な手、
 まるで賢ぶる愚かさ、

 わたしは相手の愚かさを感じ、たしかに動揺してしまうんだ。

 

 あのぼろぼろの鞄のくだりで、
 わたしはふと思い出して、かつてわたしの机がいかに雑然としていたか、
 でも何がどこにあるのかはわかっていた、本当にわかっていた、
 このカオス、この雑然たるものを雑然とさせたまま自分が統べている、こんな感覚を味わっていたんだと思う。

 大人になり、きちんと片付けられた部屋をふと見渡し、
 なんて詰まらないものになったんだろう、という感慨がわいたことがある、
 そんな話をする。

 なんて詰まらない、
 でも、戻らない。
 そこは戻せない、戻ろうという気にならない、と思った、という話を。

 慈悲は憐みに似ている。
 似ているが、違う。

 わたしはそのどちらも知っている、知っているからわかる、
 それは違う何かだということが。

 おまえのような地を這う虫が、と言ってのけるような、
 あんな鼻面を叩いてしまうわたしは、遊んでいる、
 遊んでいる、
 でもどこかたしかに、焦燥がある。
 それを踏み台にしてでも伸び上がりたい気持ちを持っている。

 それの愚をどこかわかりながら、
 -3に+5なら、+2にはなる、ということもまたわかっている。

 


 なんて詰まらない、わたしは微笑している、
 そこは戻らない、戻せない、
 それは単に回顧的な感慨にすぎない。

 掛け算を理解したときに、掛け算を知らない状態には戻れないんだ、
 
 一度自転車に乗れるようになれば、自転車に乗れない状態には戻れないのと同じだ。


 片付けもそれに似て、

 おそらくこれが、ひとに言われて納得しないまま、それがいいんだと信じて、やってみてその良さが腑に落ちないまま、無理にその状態を保っている、
 こんなことならいずれ崩壊する。
 それは元に戻ってしまう。

 そんなようなところがある。

 社会はどうあれ、生きるということは採点方式ではない。

 こうすれば、誰かから点をもらえる、
 そんなことではない、
 自分の腑に落としていかなければ先へは行けない。
 自分の腑に落とす、といういわば目には見えない何かが、自分を否応もなく先へと押し出す、
 そんなようなところがある。


 誰がその成長を認めなくても、自分では確とわかっている、そんなことが、
 まだ見ぬその先へと自分を連れて行く、
 そうでしかない。


 あるいはまた、
 
 ダウンロードを受け容れる素直さ、
 我の汚れのなさ、
 こんなこともまた、次には可能になる。


 ともかく我を使いこなさなきゃ、何の何でもないところがある。


 この二元性を超えなければ、というのも、よくわかる。

 この二元性と我は実によく似た、
 なんていうか、システム。

 賢さとは慈悲を言い換えたものだ。

 レタスを食べる自分も、食べられるレタスも自分、そんな感覚はわかる、あなたはわかる?と聞くと、
 わからない、むしろ、
 あなたはなぜわかるのか、と聞かれたことがある。
 なぜわかるかって、それは、

 その道を通り抜けてきたからだ、としか言いようのないところがある。


 わたしはその道を追体験してきた。
 書物はたしかに道を照らしてくれる。
 でもそこを実際に通るのは自分だ。

 いくら本を読んでも、それが字の羅列にすぎないものなら、
 それの音読はできる、というようなものにすぎないのなら、
 自分の中で再構築され得ないものにとどめておくのなら、

 何のなんでもない。

 他者が存在する、という幻影に惑わされて自分の内面を照らさないものなら、
 同じことだ。

 
 自分を騙す者は自分だけだ。


 他者を裁くたびに、あなたは罪悪感を募らせ、報復に怯えることになる、
 というのは本当だ。
 実際のところあなたは、あなた自身を裁いている。

 そうして限界を設け、自分が自分を先へと進ませないところがある。
 自分を限定し、もっと広い世界、もっと明るい世界を見ないように閉じ込めている、
 それだけなところがある。

 自分の邪魔をできるのは自分だけ。

 
 実際のところ、ダウンロードを受け容れている者はわたしだ、
 わたしは、

 すべての体験を書物を読むように体験している。

 自分の身に起きた出来事と、書物で展開されている出来事は、
 同じものだという目線で生きている。

 そこに違いはない、と思っている。


 実際に自分の身に起きた出来事をまるで、書物で読んでかれらの経験を追体験するように、感じ取っている。

 そこに悲哀はあり、憤懣はあり、攻撃もある、
 絶望もあれば、希望もある。

 それはただ、ある。


 それをないものだとは言わない。
 それはきっとある。

 自分がまさに体験しようが、書物のなかの、
 いわば、わたしの隣人が体験しようが、
 入り込めば同じことだ、と思っている。


 自分を守るようには、ひとを守れない。

 自分を攻撃するようには、ひとを攻撃できない。

 
 かれら、ひとの上に立つ全知全能の神になりたいかのようだ、
 そんなことは無理だってわたしは笑う。

 あなたはあなたの上に立つ、そんなことしかできない。

 そして、そうしかできない、ということの余りある恩寵をまだ知らないでいる、
 それだけだ。

 
 自分はひとの鏡になる、と言ったひとがいる、
 相手が善いひとならば自分は善いひとに、相手が悪ければ自分もまた悪いひとに、という、
 まさに大いなる勘違いだ、
 ひとが自分の鏡なんだ、そこを決して間違えるな。


 おまえは生きた何かであって、鏡、そんなものではない。
 エゴくらい、いるだろ、あたりまえに。

 自分とはもはや、ハンドルを手放した、臨在するものなんです、ということほど、
 馬鹿げた何かはない。

 まだいるよ、おまえ。

 そこにいる。

 まだ知覚できる者として、そこにいる。

死がふたりを分かつまで、共にいる。

 わたしは自分を愛します、と言ったら心がじんわり暖かくなるのを感じるでしょう、とバーソロミューが言っていたのを、朝、起きて、思い出す。
 朝、起きて。
 朝、起きる、こんな奇蹟。

 あなたはそれを知る由もない、
 なぜなら、わたしもまたそれを知らないからだ。

 明け渡し、という言葉が繰り返し迫ってくる。
 そう、そんなような何かだ。 
 わたしは、誰にも自分を明け渡したことがない。


 本当は誰だってそう、
 多くの人にはそうしたところがある。
 伴侶、親、子ども、恋人に自分を明け渡している、つまり、
 愛している、
 と言い、そう信じているかのようにふるまう。
 それはもう、そう信じている、と言ってもいい。
 でもこんなことはどこか不自然な何かにすぎない。

 わたしは誰にも自分を明け渡す必要がない、むしろそんなことはあらかじめ不可能だと、感じ続けていた。
 そのエゴに、このエゴは、どうしたって嵌らない、そんな何かを、

 その嵌らなさゆえに、気づきたくてならないものがあった。
 あったんだ、と知る。

 自分のもの、というのが幻想だとしか思えなかった。
 そこに詰まるものがあった。

 そこにまだ均せないものがあった。

 お金で解決できると思っていたら、わたしはお金を全部流しに流してしまう、
 そんなところがあった。
 物など持たない方がいい、
 相手が自分には使えないものを、これいる?と持ってきたら、捨てたいんだなと了解して、受け取って家に帰って捨ててしまう、
 それが親切だと信じている。
 いらないんだろ、そんなもの。
 あなたは「まだ使える」それを捨てるに捨てられないんだろ。
 わたしもいらない、
 わたしが受け取って捨ててあげる。

 お金持ちが針の穴を通るのは、というくだりに納得している。
 だから、わたしは、持つ者でありたいんだ。
 なにか災害があって、家も何もかも流されたようなときに、
 普段から物が少ない生活をしていてよかった、失ったものはたかが知れている、と安心するようなら、
 物を持たない生活をする、何の意味もない。
 あなたはまだ失うことを恐れている。
 失うことを恐れて物を減らしているのなら、物に囲まれない価値を享受しているとは言いがたいところがある。

 失うことを恐れる、
 こんなことがあらかじめ不可能な何かなのだと知らないでいる。

 失うことを恐れる、
 それはまるで、
 いずれ死ぬのなら生まれてこない方がよかった、というような何かだ。

 執着からではなく物を持つ。

 失ってはならないものなんてない。
 それは失いようがない。
 
 執着に執着を重ねて、これが生だと迫ってくる者に、
 わたしはどこか恐れをなしていた。
 そんなものが生などではないことを、わたしは知っている。
 わたしは、ただ、知っているだけだった。

 知っていて、相手を説得できない、する必要性も感じない、ただ、
 たじろぐ思いで相手を眺めているだけ。

 相手を殺すことをまだ躊躇っているだけ。
 目を見ない、
 目を見たら相手を消滅させてしまう。
 相手を殺してしまう。
 だから、目を見ない。

 見るとすれば、どこか煙らせたような目、見ていながら見ない、相手を殺さないと決めた、そんなような目でしか、見ない。
 
 あの死ぬ直前のようなとき、わたしは相手の目を見た。
 目が違うね、とわたしは言った。
 もう、目が違う。
 殺気立ったような、剥き出しになったような目、
 わたしはその目を見た。
 わたしが見ようが見まいがおそらくまもなく死ぬ、
 死にたくないと言いながら、もう死を知っているような目を、
 それならばもう憚るところは何もないと思えて、目を見た。

 殺すまでもなく死にゆくものの目。
 どこか獰猛なその目を。

 憚るところは何もない、いや、嘘だ、わたしはやっぱり殺さないと決めて見ている。
 わたしは相手の、わたしを殺しそうな目をただ受け止めているだけだ。

 もう死を知っているのに、まだ殺せない、
 死ぬに任せて、殺せない。

 執着に執着を重ねた目、
 わたしは殺して構わないんだ。

 相手の恐れとは、自分の恐れに他ならない。
 わたしは、それを相手のものとしないで、もう自分のものにして、消滅させてしまって構わないのに。

 それは自分のものだ。
 相手のものだと思うから手を下せない。

 この大いなる勘違い、
 こんな途方もない勘違いをひとは愛と呼んで憚らない。
 愛、あるいは恐れ。

 愛とは恐れ、愛が恐れにすぎないような、途轍もなく変容してしまったそれ。

 わたしは自分を愛します、というとまだハートが暖かくなる。
 わたしはかれを愛するのではなく、自分を愛する必要があることに気づいている。

 かれに働きかけるのではなく、自分に働きかける余地がまだあることに、気づかざるを得ない。
 わたしは待っているんだ、
 それが満ちて、溢れ出すのを、待っている。

 すべてに気づく自分を待っている。
 
 

 わたしはわたしを好きなひとが好きなんだ、とよく言っていた。
 わたしを見もしないような、そんな畑違いみたいなものを、そんなどこか迂遠で、

 どこか画然たる他人らしさを備えたようなものを、指名する、まさか、
 まだ山も登れないのに山を飛び越えると宣言するような大変な労苦を、

 わたしは好まない。

 あなたが仕事をはじめるのなら、あなたの得意なこと、好きなことがいいでしょう、
 という助言がいかにももっともだ、と感じるように、
  
 わたしはわたしを好きなひとが好き、そう躊躇いなく言える。
 砂漠の真ん中で商売をはじめるような、
 そんな無謀をわたしは好まない。
 
 画然たる他人らしさを備えたものでは、自分が自分自身に気づくことを困難にさせる。

 あまりにも自分と違うような何かでは、
 自分にまるで似ていないようなものでは、簡単に他人そのものだと得心してしまえるところがある。
 それを他人だと安らかに認めているかぎり、
 わたしがわたし自身に気づく、そんなことを困難にさせうる何かでしかない。
 わたしが、わたしを、気づかないでいられる、そんなものでは。
 
 わたしは手近なところからはじめたい。

 裏山に花を植えるより、自分の庭に花を植えたい。

 自分が自分に気づきたいし、まさに、そうでなければすべては、
 要するにいつまでたっても変わりないものがある。
 いつまでたっても始まらないようなものでしかない。

 流しをきれいにしているひとに、家でも?と聞くと、家でなんか、
 お金にもならない、
 仕事でもない、
 なぜ家でまで、
 という。

 いや、実に何か勿体ないにすぎないところがある。

 つまり、仕事だからやっている、
 本当はしたいことではないがやっている、
 したくもないことをやっているんだ。

 したくもないことをやっている、こんな愚にいつまでも絡めとられているのは本当に勿体ない。

 もったいないから、まだ使えるからと合成革の剥げ切った鞄を捨てない、
 それは七年間自分と共にいた、愛着もある、まだ使える。

 もったいないのは本当はあなたのそんな在り方そのものだ。

 まだ使える、どこか傲慢だ。
 まだ使える、そんな理由がどこか、
 それだけのもの、使えるもの、間に合わせのものが自分に相応しいと宣言しているような言動、それが傲慢さだ、
 自分は最高だから最高のものを持つ、と言えないことがむしろ、傲慢さだ。

 やっぱりエゴに気づく必要がある。
 エゴに気づいていないと、簡単にこの捩れに絡めとられて、
 ひたすらあべこべの世界に同意し続けるしかないところがある。

 
 わたしは砂漠の真ん中で商売をはじめる者だ。
 わたしは困難の多い方を選ぶ。
 
 でも本当にこんな現実で商売をはじめるのなら、砂漠の真ん中ではしない。
 わたしがしているのは、いわば、
 なにもない砂漠の真ん中に座って瞑想しているようなことだ。
 いざ商売をはじめるとなったら、もちろんひとに溢れた街でやる。
     
 実際的なことの困難は選ばない。

 実際的ではない、いわば形もないような何かなら、わたしは宇宙の果てまでも出かけていく。
 
 実際的なことの困難は選ばない。
 わたしは小銭だから賭けている。
 勝とうが負けようが痛手はない、そんなものを賭けて、遊んでいた。

 どうせ本気じゃない。
 どうせ全力じゃない。
 小手先の何かにすぎない。

 わたしは誰にも自分を明け渡したりしない。
 どう見たって自分のようではない、そんな相手ばかりを相手にして、なぜこんなことがわからないのかと、悲しくなったり、苛立ったりなどしていた。
 
 そして、そんなことをもうやめている。 

 
 
 こんなことは言葉にして確認しないだけふと不思議になるが、
 何度でもあるし、むしろ常にそうでしかないような何かだ。
 思えばこんなことに夢中になる。

 
 わたしは、

 わたしを好きじゃない、という人間など、どこの何も信用できないところがある、としか思っていない。

 それは知っているからだ、
 簡単な原理原則をただ知っているから、
 ということでもある。

 

 わたしはわたしの根本が愛に他ならないことを知っているし、感じている。
 わたしはわたしの中を大いに占めるものが慈悲に他ならないってことを知っている。
 感じている。

 なぜわたしのような慈悲の気持ちを感じられないんだ、感じさえしたらわかる、それだけなのに、と不思議がっているんだ。

 その不思議さにまだ幻惑されている。

 その執着の後ろ側にあるものは何なんだと、見抜くことが自分を見抜く、そんな恐れだけを恐れとして。

 優しさが中途半端なそれをまだ残して、まだ食べずに、まだ。

 わたしはどこか、ひどく横着ではないところがあって、
 自分に厳しく、自分を見抜くところがあって、
 自分を守るようにはひとを守れないんだ。
 
 完全に明け渡さないものがある状態で、愛を外に出すことをどうしたって躊躇う。
 そんな横着はただ、できない。
 条件付きの愛、そんなものでかれを汚すことはできない。

 それは汚すことだ、と恐れている。

 自分がすることを恐れているんだ。

 
 

 相手を見るような愚はやめなければならない。
 つまり相手次第にするような横着さとはどこかで決別しなければならない。
 自分が自分を認め、受け容れ、愛する、自分が自分と共にいる、
 完全に共にいる、
 そうでなければ、他の誰と一緒にいることなどできるだろう。
 できないね。
 わたしにはできない、そのことだけがわかる。

 

 
 背骨を折った顛末を、
 あれはよかった、と思えるんだ、と言うと、
 もっと大怪我じゃなくてよかった?ということ?
 いや、そうじゃない。

 そうじゃない、なんといえばいいのか、
 
 もっと大怪我じゃなくてよかった、というのなら、それはまるで、
 物を持たない暮らしをしていたお陰で、災害ですべて流されたときに、失うものが少なく済んでよかった、
 というようなものと変わりない。
 そうじゃない。
 
 これを経験できてよかった、というような思いだ。

 この災難を経験できる自分でよかった、という思いだ。

 この災難はもはや災難ではなく恩寵のような何かだと、思える、それをそうと思うには自分というフレームが不可欠だ、
 わたしはそのフレームについてむしろ感謝しているんだ。

 事故そのものに感謝しているというよりも、それをどう捉えるかを任されている自己を感じて、嬉しくなっていた、
 それだけだ。

 

 こんな遊び。

 わたしは鹿のように臆病になり、鹿の角のように頑なになり、
 光が溢れ出すその瞬間を、他のことに作用させて、見つめている。

 こんなことが何になる、とふと思う。
 いや、こんなことが何の何にでもなるんだ、と思っている。


 こんなことでさえ、何の何にでもなる。

 どのみちわたしの意識はそこへしか向いていない。

 そうだとすれば、すべてが、それを指し示すものに他ならない。
 すべてがそうであるところのものへ帰結する、
 そうでしかない。

 
 あれでは無理、これでも無理だ、
 それでも無理。
 
 なぜ彼らを自分と同じようなものだと思うのか、
 そんなわけないんだ、
 あなたはわたしに世界一、もっと自負した方がいい、そう言った。
 それはまったくのところ、あなたがあなたに冠する称賛に他ならない。
 ほかの者を頼るようなものが、どうして世界一だ。
 そこはもういらないんだ、
 そこはもういらない遠慮だ。

 あなたと、あなたではないものは、違う何かなんだ。
 それは同じではない。
 それは、同じではない、
 同じではない、
 それでいいんだ、それがいいんだ。
 恐れることなく踏みしめるがいい。
 かれらは踏みしめられることを同意してきた何かにすぎない、
 そこに何ら遜色はないことを、受け容れなくてはならないんだ、あなたが。

 踏みしめる者も踏みしめられる者も、等しく同じ何かだ、ということを。

 

 わたしは、そばにいる。
 死がふたりを分かつまで、共にいる。
 
 何が死と呼ぶに値するに相応しいか、そんなことは依然わからないまま。

 

賭けずにいることは不可能だ。

 この順序に逆はない。
 ということがある。

 わたしは目覚めたことのない人間なんていないだろう、と思っている。
 目覚めるとは要するに自己のふるまいに意識的な何かであり、
 まったく無意識に生きている人間、
 そんなものはいない。

 これはどこかしら皆自閉症、皆発達障害、皆統合失調症
 程度差にすぎない、境界線はない、と感じるのに等しいような感覚。
 慈悲があれば、あるいはユーモアがあれば意思の疎通ははかれるはずだ、という気持ち。
 
 感じ、も大事かもしれないが、
 あるいは第六感的な何か、
 閃きのような何か、
 それはどこか不可欠なものかもしれないが、
 わたしは、理詰めでも悟れるだろうと思っている。
 ワープじゃなくて、飛躍じゃなくて、そこに一段一段橋を渡すことは、

 不可能なんかじゃない、

 不可能だなんていったい誰が決めた、
 わたしは決めていない、
 という思いがある。

 悟りについて、それがあれば自分は救われる、というような捉え方では無理、 
 というのはよくわかる。

 劇的に何かが一変して、
 たとえば宝くじに当たって一夜で億万長者的な何か、 
 たしかにそういうことではない。
 ある日突然白馬の王子様が的なものではない、
 
 何がどうなっているのかわからないがともかく自分は救われた、ものすごいラッキーが自分の身に降りかかってきた、
 そんなようなものではない。

 悟り/覚醒とは、そんなものではない。

 何がどうなっているのか自分でわかっていないのなら、
 何の何でもないではないか。

 不幸な道程の終点だけは幸福、こんなことはありえない、というのが近い、同じだ。

 それが自己を行き過ぎるものに、意識的であれ、意図的であれ、ということであり、
 まずは知識としてでいいから、感情とは何か、思考とは何か、ということを知ればいいと思う。
 まずは知識としてでいいから、自己とは、エゴとは、ということを学べばいいと思う。

 そして、1+2+3=6が何を言っているのかわからないけど、 
 1+2+3=5でもいいんじゃないの、というような横着には陥らないことだ。
 答えらしい答えに飛びつくのではなく、わからないことはわからないで済ませる、真摯さがいる。
 わからないことをわからない、と率直に認めるのは何の横着でもない。
 ただし、わかるわけがないだろ、と攻撃的になる必要はない。
 わからない自分が情けないとか、どこか、卑下しているのだか自分を何様だと思っている傲慢さなのかわからないような態度を取る、そんな必要もない。

 わたしは、1+2+3=6だろ、というと、
 それは2+2+2=6でも同じだよね、と返してくれるような相手を求めていた。

 エゴにはたしかに、わからないものをわからないということを、意地でも認めず、死んでも嫌と言いたがるところがあって、  
 その場しのぎでも何でも、わかっているふりでも通ればそれでよしとするような、
 おまえ、それは何の行き腰なの、と呆れて突っ込みたくなるような、
 そうしたところがあり、

 わたしはただ呆気に取られて眺めているだけだった、
 何をどう切り込んでいいのかわからずに、
 下手に関わるくらいなら、相手が気づいていないのなら、自分の存在を主張する必要も何もないと思って、
 ただ眺めていた。

 何がそうさせるのか、わかるようでわからない。
 ひとの意図を掴みかねて、
 掴めない以上、わたしには何の衝動もなくただ、眺めているだけ。

 1+2+3=6ってことは、
 と続けようとすると、よくわからないけど、1+2+3=5でもいいわけでしょ、と遮られて、
 いや違う、と立ち止まる。
 
 わたしは、いや違う。
 としか言えなかった。

 1+2+3=5でもいい、の意味を図りかねて、戸惑うだけだった。

 何がいいんだろ?
 何がいいんだ?

 そうして歩みを止めたものがまた、動き出しているのを感じている。
 
 どこか、いくら耳を傾けても、
 1+2+3=4でもいいわけじゃないの?
 とか、
 +3を省いて、1+2なら6ってことにしておいてもいいけど、
 とか、
 どこかそうではない、
 何をどうひっくり返したところで、そうではない、
 というような話を聞くのに、唐突に飽きて、

 要するに数は数えられても、数の並びは暗記できても、数を使えないんだ、
 記憶については詳細に語れても、記憶にはない仮説を立てることはできないんだ、
 なら、他の話をしようって、
 他の話をするんだけど、
 やっぱり、
 どこか物足りていない自分に気づく。

 ふいに飽きて、倦んで、あたりを見渡す。
 世界は広い。

 こんなにも世界は広く、明るく、輝いているのに。
 わたしは眩しく、生まれてはじめてのように、その光に目を細めて。

 自分がわかるものについて、あたりまえにわかる者と話がしてみたい。
 1+2+3=6ってことは、というと、
 2+2+2=6でも同じことだよね、
 1×2×3=6でも同じだし、
 むしろ2×3=6の方がシンプルでいい、
 そんな話をしてみたいと望んだ。

 もう、望んだ。
 だから。
 
 わたしはそう感じている。
 ここの順序は逆にはできない、そう感じている。

 幾億通りもの過去があり、幾億通りもの未来がある。
 何を選んだっていいんだ。

 意図的でさえあれば。

 全体を見渡す目さえ持っていれば、
 何を選んだっていい。

 何を選んだところで、間違える、そんなことはただ不可能にすぎない何かだと、笑えるんだ。

 まだ選べない、そんな物言いはただ、嘘やまやかし、ありえない何かにすぎないところがある。
 まだ賭けられない、そんなこと、馬鹿げた安心にすぎない。
 わたしたちはすでに賭けている、
 わたしたちはすでに選んでいる、
 選ばずにいること、
 賭けずにいること、
 
 そんなことはそもそもの最初から出来ないような幻想にすぎなかった。

 賭けていないつもりで賭けている、
 こんなことが無自覚で、無意図な何かにすぎない。
 溢れ出しているのに、溢れ出していることに気づかない、
 自分の持ち得る器にまるで無関心な何か。 
       

目が覚めたことのない人間なんていない。

 何が横着かは自分にしかわからない。
  
 99を100にしてしまうような横着、詰めの甘さ、
 真実を手づかみにしない恐れ。

 横着しかしたことがなければ、何が横着でないかはわからないだろう。
 
 何が正解かは、まさにこれが正解だという気持ちを味わったことがなければわからない。
 なんとなく、これが正解のような気がする。
 いや、そんなものじゃない。

 正解かもしれないことはまだ正解じゃない。
 正解らしく思われることはまだそうじゃない、それじゃない。

 そこをもうこれくらいでいいだろうとやめてしまうのを、わたしは横着と呼んでいる。
 
 そしてたしかに、わたしもまたどこかの時点で、自分の横着さ、それを横着だと認めてそんなことは、やめようと決意した。
 中途半端に手を打つ、そんなことはやめよう。
 真に自分が求めるもの、愛するものを、
 逃げや弱さを必然とはしないものを、
 
 それを残したままでは無理、そんなものを欲した。

  
 それを自分がわかっていようが、わかっていなかろうが、
 変わりないのは、
 自分の蒔いた種を自分が刈り取る、ということだ。

 目の前の相手はそれが誰であろうが、自分にちょうどいい相手であり、
 自分自身に気づく、隠れていた自分自身を発見するきっかけであるのにすぎない。

 人を裁くことは、自分自身を傷つけているのに他ならない、
 そのとおりだ。
 
 いったい何を受け容れて、あなたは何を擲とうというのか。
 
 1+2+3=6だとわからなくてもいい。
 わかっていなくてもいい、でも、
 1+2+3=5だと感じるひとがいてもいいよね、は違う。
 そこはわからない、が正解だ。

 わからないものはわからないことが正解で、
 わからないものをわかる体ですすめる、
 わかったことにしてしまう、
 こんなことをわたしは横着だという。

 知ったかぶりで現実を捉える、こんなことは、
 欺瞞と呼ぶしかない、何の何でもない。

 1+2+3=5でもいいじゃん。
 いや、よくないだろう、
 わからないものはわからないんだ。

 1+2+3=5
 それを受け容れることによって、何を擲っているのかを。

 だいたい、こんな横着を受け容れたがるのは、エゴなんだよな。
 すぐにわかると言いたがるもの。
 
 正直さを擲てば、人生が詰む、わたしはそう言った。
 いまもそう思っている。
 正直さ。
 これも横着と同じで、

 何が正直かは、正直になってみなければわからない。
 
 考えたことが現実にはならないのは、
 そう感じるのは、
 考えること、それじたいどこか理性的な何か、意識的な、恣意的な何かであって、
 
 自分の考えがたとえば1番から100番まであったとしても、
 5番と40番が自分の考えだと、自分では思っている、それだけなところがある。

 ほんとうのところ、自分が無意識に信じている考え、
 こんなものが一番力強く自分を働かせていたりする。
 そこがわからないのは、

 要するにどこかしら無頓着であり、横着な何かなんだ。

 わからないことを、わかった、と言ってしまうような何もない空っぽの愚かさ。

 そこをよくよく正直さを失わないようにしなければ、
 ひとの考えを借りてきて自分が考えたことだ、というような、
 ひとの感じたことを、自分の感じたことにしてしまうような、
 もう、横着さ、こんなことは、

 無益であり、無価値にすぎない。

 自分を受け容れないことには自分がはじまらない。

 そこを疎かにして、いったい他人とどんな関係を結んだ、といえるだろうか。

 自己を犠牲にして他人に尽くしたところで、罪は消えないどころか、
 さらにのしかかる罪という幻影に悩まされることになる。

 罪なんてない。
 あるとすればただ、自分が自分を否定すること。

 はじまってもいない、自分で受け容れてもいない自分が、
 いわば目の覚めてもない自分が、   
 他人とどんな関係を結ぶ、というのだろう。

 片目をつぶる、こんなことをどこか、欺瞞的に感じていた。
 それは、自分にとって堕落を意味する、そう思っていた。

 友だちならいい、親ならば、それもいい、

 他のひとには他のひとなりの事情と歩む速さがある、
 でもわたしがわたし自身に対して片目をつぶる、
 こんなことにいったい何の利益があるだろうか。

 自分にダメ出ししろってわけじゃない、
 そんなわけがない、
 そうじゃなく、

 むしろ、
 自分にダメを出すような自分に、どうやって他人を愛することができるか、
 ということだ。

 自分をさえ受け容れない自分が、他人を愛する、受け容れるなんて不可能だ。
 
 わたしは自分がどこか大きいことを知っていた。
 知っていたから、ちょっと途方に暮れていた。
 どこまでも大きくできる自分を、どこにどう収めていいのかわからないでいた。

 最後の1は、いまこの瞬間にしかない。
 わたしは端っこを追って、中心にある空洞をあたりまえにし、


 生きるということを見ない、
 目が覚めることをしない、
 そうした、漫然とした境目の曖昧な何かをどうしても受け付けられずに、
 折れずに、

 どこか孤独だった。
 ひとりだった。

 自分が悲しめば泣きたいときもある、泣くこともある、
 でもそれは、自分が孤独だからじゃないんだ。
 孤独だから悲しいんじゃない、
 孤独なのはどこかあたりまえの何かであって、そんなことじゃない、
 ただ自分が悲しめば泣く、そんなこともある、それだけだ。

 わたしはひとりだった。

 誰の助けも借りず、支えもなく、そうじゃない、
 むしろ、ひとりだということを受け容れてはじめてひとの支えを支えとして疑いなく感じることができる。

 責任がある。
 誰だって、自分自身に対する責任があり、
 果たすべき責任とは、それしかない。
 
 そこがわからない相手とは無理だということがわかった。
 そこがわからない相手とは愛の真似事をするだけで、
 真似事にすぎない何かにいつまでも自分を付き合わせる、こんな不誠実はない、
 そう思った、気づいたから、

 いまの自分がある。
 いまの光景がある。

 嘘を嫌うんだ。
 嘘ってどこか娯楽でしかないところがある。

 娯楽もいい、気晴らしもいい、
 でも、
 自分ひとりのとき、頭上の天空はいつでも晴れている。
 
 それは嘘じゃない、といえる何か。
 それはごまかしじゃない、といえる何か。

 それは孤独を癒さない、孤独を紛らわせたりしない、
 孤独は病ではなく、忘れたほうがいいようなものではなく、
 あたりまえに常にあるものでなくてはならないんだ、
 たとえ誰と過ごしていようとも。

 孤独を癒す、そんなものではない、
 孤独を紛らわせる、そんなものではない、
 そうじゃないものを。

 相手が覚えているから自分があるわけじゃない、
 相手が思い出すから自分があるわけじゃない、
 わたしがわたしを覚えているから、思い出すから、わたしがある、それだけなんだ。

 行けると思わせる天才。
 あれは、牽制だ。
 どこか横着に流れてしまう自も他をも牽制する何か。

 騙されておけばいいのに、と笑った、
 こんなわたしは優しくてどこか怖いんだ。

 どこか肚の底を見るような、足の裏までも見るようなわたしは、怖い。

2:50 2019/11/30
 どこか、どうしたって、剣呑さを捨てられない、
 わたしは怖い。

 眠ったことのないわたしが、眠っている者を怖い。
 いや、わたしは目覚めたことのない人間などいないと思っている。
 本当にひとが目覚めず、眠ったままなら、そんなに饒舌に話せるわけがない。

 あまりに虚ろな目をしているものは、怖い。

 わたしはひとを見抜く、エゴを見抜く、いや、
 もっと言えば、ひとの恐れを見抜く。

 眠りながら自動入力されたようなセリフを喋るものが怖いんだ。

 おまえ、どこにいるの?
 本当にはどこにいる?
 まるで抜け殻のようなそれ。

 パターン化された自動装置で怒ったり主張したりするようなそれ。

 ここにいない者と話す話なんて、何もないだろう。
 
 過去とか未来とかいうのはたしかに、空想の産物だ。
 いまここにあるものに比べて、あまりにも他愛なく、あまりにも実態をもたない。

 昨日はこうだった、明日はこうなるだろう、
 そんな、
 どこかのしかかるようなそれ、
 強迫的なそれ、

 わたしは怖い。

 わたしは、怖いんだ、だから話さないし、目も見ない。

 見たところで、目が目でもないような何か、
 何の何になるだろう、
 わたしがわたしの恐れを増幅させるだけじゃないか、いたずらに。

 あれらはゾンビに似た何か。

 いや、わたしはゾンビに見えるものだって人間なんだって言い聞かせてここまで。


 わたしはきれいだし、
 どこか負けるのをよしとしない気の強さもある、
 ひとの恐れを決して攻撃的には暴かない優しさもある、
 わたしには余裕があり、優雅さがある。
 どこか、ひとに踊らされないだけの泰然とした気品も備わっている。
 いざとなればどんな何であれ、笑い飛ばすような最終兵器さえ持っている。
       
 いや、わたしは、どんな何を演じようが、どこか、
 きれいでしかあれないところがあって、
 まるでバリエーションのない、大根役者のようなものにすぎない。

 生身の女には相手にされないし、生身の女なんて怖いから、風俗に来ました、というような、
 それでもまだ震えているようなそれを、
 どうしても寛がせてあげられない、
 
 わたしはそんな自分の小ささに気づいて、忸怩たる、

 どこか申し訳なさ、
 どこか、
 卒然とした自分の限界を知る。

 結局のところ、
 いまの自分に相応しいものしかやってこない、

 自分が楽々と、易々と、笑ってやり過ごせるような相手とは限らない、
 自分が望んだ試練、
 自分が望んだ限界のその先を暗示するものがやってきて、

 立ち尽くすこともある。
 
 何をどうすればいいのかさっぱりわからないと、泣きだしたくなるようなものだって、
 やってくるんだ。

告別式、祝いの日。

恋とは必要以上に、

この現実以上に、相手に力を与えること。

たしかに恋とは最終的な病、

そう思う。

 


これを恋と呼ぶのなら、

それもいい、ほかに何と呼べばいいのか思いつかない、ねえ、いったいわたしはどうしてこんなことを、あんたには。

とオードリがどこか躊躇いを残して、カースティンに言い、言葉を途切らせる。

 


いや、そうだとわたしは言う。

それは恋に他ならないものだと。

 

 

 

店の若い子、あの鉄砲も持たずに戦場に行ってしまいそうな子が、

上のひとに戯れを投げかけられ、

何か返してよと迫られ、

いや、とだけ言う。

返す言葉がないことを、ないままに、何も言わないその子の、

賢さをみて、わたしは心で笑っている。

 


こんな賢さを失って、

ひとは愚かなお喋りでも無音を恐れ、無音を埋める。

 


恋は病に他ならないものだ。

必要以上に、相手に力を与える。

こんな現実以上に、相手を大きく力強くして、自分に与える影響力を妄想的に多大にする。

 


恋はいい、

イリュージョンのような現実に、現実らしさを与えてくれる。

より強烈な色彩をもって、この現実が迫ってくる感覚を付与してくれる。

 


なんだって病にすぎないところがある。

 


他者や、環境や、時代、

そんなもののせいにして自分を翻弄させうるひと、

どこか、他人という存在や、環境や、時代に恋をしているようだ。

 


恋はいいものだ。

病はいいものだ。

 


もう、わたしの耳にはそんなふうに聞こえてくる。

 


高校生のときに意識していたものは、

恋だった、

あれは恋に他ならないものだった。

 


強烈な憧れ。

 


わたしはどこか引け目に感じる自分を愧じて、それがために、口を聞きたくても何も話すことがなくなっていた。

 


あの恋は、彼女の口から、

わたしのことを、

精神の貴族だと、表する言葉をもって、

成就し、報われた。

 


わたしは嬉しいともありがとうとも言わなかった、何も言わず、

自分が報われたことを知っただけだ。

 


恋は報われることもある。

それはとても言葉では言い表せない。

それは、ただ知る、という状態にとどまって、自分をどこにも行かせない。

それは自分をどこにも行かせないような何かだ。

 


この恋の息の根が止まることを、

待っているとは思わずに待っていた。

それは死に絶え、もう息をしていない。

今日はお葬式、告別式。

 


しんだこと

かんしゃ

しているよ

 


甥っ子が祖母の棺桶に入れたメッセージ。

 


賢いねってわたしは嬉しくなって叫んだ。

 


そう、それは死に絶えて亡くなり、

わたしはそのことに感謝している。

そのことを祝っているんだ。

 


告別式、それは祝いの日だ。

 


わたしはこれが恋であることを、

他愛もなく恋でしかない、そんなことをやめて、

駒を進める。

 


詐欺師みたいなものになりたいんだ。

騙すの騙されるのって、

 


いわば、いじめはいじめられる方が悪いって考え?と迫られることの、

もういいそれ、飽きた、

あの続きだ。

 


悪いかって悪いに決まっているだろ。

自己責任だ。

 


同じ価値観、同じ恐れを抱くコインの両面を、立場を異にしてお互いに担当し合っている、

それだけだ。

 


悪いに決まっているだろ、

あのときそう言い放ってしまえるわたしなら、あのひとは死にきれず、そんなコインをもう、ただ地面に落としたかもしれない。

 


それがどんなコインであれ、

どこか娯楽的に、

わたしはそれを提供する者でありたい。

それは娯楽、エンターテインメントにすぎない。

良いも悪いもない。

 


騙すのが一番悪いけど、騙されるのも悪い、

いや、一番も二番もあるものか、

一緒だ。

そんな甘いことを言っているから、

こんなコインを買うばかりで、

売ることをどこか恐れ、

創造し、提供することが出来ない。

 


与えられる期待ばかりで、失う恐れから与えられない。

唯一同類らしく思えたのが、未来のロボット。

 セスの本とか、シンギュラリティの本とかが、響く。
 読み解くのに時間を要するようなそれ。
 知っている、と読み飛ばせないようなそれだ。
 他人が表現するそれを、
 自分の身内に響かせる。
 
 あれが音叉ならわたしも音叉、そうした響き。

 恐れやエゴが、やっぱり気になるんだな。

 話し相手が、あまりにストンと出してくる疑いなき観念、みたいなものに、
 
 それはどこか、女のひとってどこかじめじめしたところが、と女の友だちが言うのへ、
 いや、ない、と言って笑ってしまうしかないような、
 
 なんだろう、その土俵へわたしは上がらない、というか、
 わたしは、外へと誘導したいものをもつ。

 わたしの土俵へ誘導したいわけじゃない、わたしの土俵はない。
 ないこともないが、
 どこか、他者に上がらせないものがある。
 
 つまり、あまり心のうちを吐露しない、
 している、しているんだけどつまり、

 意識的な何かにすぎないところがある。
 合理的でしかないような。

 ひとと話をするときには合理的であれ、というような、あれだ。
 
 ひとと話をするときには、誰だって程度差はあれ合理的なのだが、
 いやもっと、合理的に、と思ってしまいがちな、何か。

 意識的であれ、というような。

 この現実、このリアリティにどっぷりと浸かっているひと、
 あまりにも容易くエゴが、
 あるいは観念それ自体が自分であると思い込むようなひと、

 あまりにそうした様子があからさまなそれ、

 わたしはどこか無反応にやり過ごしてしまうところがある。
 どう反応していいのか戸惑うんだ。

 なんでもやってもらって、と言ってくる者を、わたしは奇異な気持ちでただ見つめるしかないようなところがある。
 いや、あなたの目の前にいるのは誰?本当にわたし?
 あなたが見ているものはただあなたの観念的な何かにすぎないのではないか、
 それは「わたし」ではない、
 とわたしが、それをどう表せばよいのかわからないまま、見せずに、困っている。

 他人に自分を貸せない。

 どこか盲目的な、自も他もないカオスのような何かに巻き込まれてしまうのを恐れている、
 おぞましがっているような。

 他人に自分を貸せない、だって、
 おまえ、借りているって知らずに借りるような、
 そんなものに、貸すこと自体、どこか馬鹿げている、どこか、
 何の何でもない、
 貸している気持ちなのは自分だけ、
 相手はどこか渾然一体に、一緒くたで、
 どこからどこまでという分け隔ても分別も何もない、
 そんな何かに自分を貸すだなんて、

 自分を見失いそうで怖い。

 
 相手が仕掛けてくるそれ、
 相手が取り込もうとしてくるそれに、
 違和感があって仕方がない、
 そんな横着は、わたしは、嫌いなんだ。

 恐れているんだな、と思う。
 どこかしら。

 幻想にすぎないものと、確からしいものがあって、
 という分け隔てがいやだ、
 こういう、自分の感覚は何なんだろうと不思議になる、厄介にすらなる。

 いや、幻想じゃないか、全部。

 盃を受けろ、という滑皮の声。
 いや、受けない。

 そこに膝を折るくらいならわたしは死を選ぶ。

 同じことだからだ。
 そんな気持ちがある。

 もちろんそうでなくてもいい。
 そうでなくてもいいんだ、
 わたしが、何を見るかは。

 わたしはいわば死にも生にも似たその空洞をずっと見つめて、
 触れず、触らせず、立ち竦んでいるだけ、
 そんなところがある。
 
 確からしいものが怖いんだ。

 確かなもの、などという得体の知れないものを信じるのが怖い、
 そんな、自分では存在し得ないと理解しているものを、目を瞑って信じてみる、
 こんな横着、こんな矛盾、こんな支離滅裂はない。
 そう思っているところがある。
 身体の方はそれを信じているのだが。
 心がどこか、逸れるんだ、遥か廣野へと。

 自分の心に聞けよ。

 空洞は何でもない、それは何でもないんだ、
 飛び込みたいのなら飛び込めばいいんだ、
 おまえの心に聞けよ。
 そこにしか答えはない、そうだろう。

 わたしはいつだって、自分の心に問うてきた。
 他人がその答えを知っているはずはないんだ、
 自分しか知らないものが、自分の中にだけある。

 わたしは合意を欲しがって、どうしてもそれを欲しいと言えないような自分を、
 どうしても自分の姿を、自然と出ている身体ではなく心を、晒せないような自分を、
 もてあまして、
 もてあましきれずにまた、
 無反応、無表情な自分に戻る。

 自分で折ってしまいかねないそれを、偲んで、
 どうしたって行き場のないようなそれを、
 まるで墓場を探すようなそれを、

 目覚めさせず、
 揺り籠へ戻す。

 永遠の眠り、そんなものはないのに。

 
 美しくありたいんだ、美しいものでありさえすれば、
 わたしは笑って過ごせる自分でいられる。

 下手な忠告を決して受け容れるな。

 誰も己の正体に気づいてなどいない、
 己の正体を完全に気づいてはいない、
 己が何をしているのか、恣意的にしか知らないで、漫然と。
 己を知らないまま、己の影のような他人に阿呆みたいに、手をのばすだけだ。
 わたしは他人の影ではない。
 
 わたしという者は、他人の影ではない。

 お金。
 そんなものじゃないんだ。
 そんな枝葉末節。

 本当はそんなことを恐れているわけじゃないんだ、
 そんなことを恐れているていで、恐れないと宣言したところで、
 自分の本当の恐れにはどこか、
 向き合わずに、

 正解らしきものを正解にするような横着さに甘んじている、そこに逃げているのにすぎない。
 
 お金、
 多大なるそれ。
 でも、そうじゃない。

 それは何か、どこか、擬えたような何か、影に過ぎない。

 影に重きを置く、
 まるで偶像崇拝のようなそれ、

 いや、わたしは。

 自分自身でありたい。

 誰にも額づかないものでありたいんだ。

 
 自分がものすごく厄介だって思う、
 自分という人間がものすごく、どこか、
 難しく、
 実に気難しいような何かを、
 
 もっている、もてあましている、
 見抜かれたいんだと言いながら、見抜かれそうになると自分を進化させ変容させて決して見抜かれないようにする、
 そんなどこか、
 自分が鼬ごっこみたいな何かで居続けるところがある。

 望まなければ、何の何でもない。

 自分の望みを明らかにしなければ、
 そのどこか羞恥心を乗り越えなくては、
 海から大地へと、
 踏み出す勇気、足をもたないことには。

 まるで、アンデルセンの人魚姫のようなそれ、
 大地を踏みしめる足を持たないそれ。

 どこか横着さを恐れて、
 あまりにも恐れて、
 
 生まれても生まれても、どこか陳腐なもの、とそれを葬り去るような、
 たった一本のドローイングの線を描き出すようなことをも恐れて、
 
 真に望むものを決して明らかにはせずにただ、

 本気ではないような落書きを。

 誰かに話す、何人かに話す、
 表現してみる、
 たしかにわたしは表現することの練習をしている、そう思う。

 
 詐欺師になりたいと思う。
 詐欺師になることに何の罪悪感も持たないような者になりたいんだ。

 そういうものでありたい、
 何の照れも衒いも、羞恥心も、罪悪感もなくただ、
 それを演じ切りたいんだ、完全に。
  
 わたしはスロットマシーンを回せない、
 そんな退屈なことはできないんだ。
 偶然なんてない。

 見えているものはすべてではない。

 見えているものは、ほんの極些細な一部分、末端のような、僻地のような、
 何かに過ぎない、
 わたしは全身でそう叫んでいる。

 ここに納まり返るためにここを目指したわけじゃない。

 こんな、ごっこ遊び。

 いや、わたしは美しい女優でありたい。


 のんちゃんのことを嫌いなひとなんています?
 そう、どこか万感の思いのかけらを溢れ出させたように、言ってくるひと。

 気難しい、そうは言いながら、子どものようでもあるわたしが、
 ふと、なんかそれ、いいねと、喜んでふりかえり、取り上げている。
 
 わたしは、目覚めたことのない人間なんて、いないと思っているんだ。
 どこか、皆、実際には眠っているふりをしているだけなんだろうって、
 それなのにそれを、ふりじゃないなんて、白々しい嘘を、
 そんなことを真に受けられるものかと、
 じっと息を詰めて、いまにも動き出しそうな雛人形を見つめ、
 鏡の中の自分を見つめ。

 わたしがいつまでもじっと人形のふりをしていたら、鏡の中の自分が焦れて、わたしが眠ったと油断して、動き出すんじゃないか、
 そんなふうに息を詰めて見守っているんだ。

 実際にはこうまで硬直してはいない。
 動いているんだ、自分も、相手も。
 でも、
 
 どこか、誰もかれも、眠ったふりをしている、わたしはそう感じている。

 手塚治虫の漫画にあった、事故に遭ってから人間が非生物的な岩の塊に見える物語、
 そして唯一人間らしく見えたのがロボット、
 
 わたしはどこか、かれをそれに擬えている、そんな感覚がある。

 シンギュラリティの世界観、未来観はどこか、
 わたしのそうした感覚を、実感させてくれるような希望がある。
 ロボットが正解。
 機械と人間の融合が正解、そんな未来展望もあるのだと。