カマキリ型宇宙人は、地球のカマキリに対して「他人」とは思えない身内意識を持つのだろうか。

 たとえば。
 たとえばってこともないが、
 蟷螂、カマキリってどことなく人間っぽいというか、
 立っているじゃないですか。
 あれ、立っていますよね。
 這いつくばってはいないよね。
 身をもたげる、という感じがする。
 なんか考えてるんじゃないか、意識とか、もっといえば知性とかがあるんじゃないか、という感じがする。
 顔も、真上から見下ろすような配置として思い描けるものではなく、
 対峙する面の中に目があり口があるという、相・対象的な、
 ちょっとそういう意味では「虫」っぽくなさがある。
 平面としての顔面を向けてこっちを見ている、という感じがある。
 
 この広い宇宙の中には昆虫型の人間、うーん、人間もいる。
 人間?ってなんだろうな、
 つまり、人型というか、
 われわれが哺乳類型の人間だとすれば。
 
 それで、これは奇妙な空想だが、
 もし仮に、カマキリ型の人類がいたとして、地球上にも彼らそっくりなカマキリがいると知ったとき、
 カマキリ殺すな条例みたいなものを持ち込もうとしたり、するのだろうか、
 と想像すると、ちょっとおかしい。
 
 イルカとかクジラとか、殺すなっていう、ありますね。
 じゃあなんで牛や豚や魚はよくて、クジラはダメなんだよっていう反論がある。
 いや豚もだめだ、牛だってだめだとかあるけど、
 いったいその区分は何だろうかと、違和感がある。
 それはいいけどそれはダメ、というのはまったく、おかしい。
 つまり、他人事としては、「おかしい」と感じる。
 内と外、の概念というか、
 何を内として何を外とするのか、というか、
 どこまでが自分の身内あるいは自分の分身であり、どこからがヨソモノというか「他者」なのか、という区分は、
 まあ、当事者にしかわからない事情というものがあるのであって、
 それはまったくもって「自明の理」ではない。
 他人からすれば。

 このことは、すごっくおかしい。
 ちょっと考えたらわかるだろう、なんて本気で言っているの?と、すごっくおかしい。
 考えたって共有は出来ないわね。
 理解はできても共有までするだろうか。
 なるほど、そういうわけで殺すなという心境になるわけですね、ということが了解できたとしても、
 自分もまたその「殺すな」デモに加わるかといえば、加わらないよね。
 
 何かを何かと区分けして、これについては殺すな、というのは、
 これについては殺してもいい、という裏面を含むコインを打ち上げることになる。
 そんなこと、したくはないね。

 
 足立幸子という人の本を読んだ。
 おそらく彼女の本はこれ一冊きり、「あるがままに生きる」だ。
 文中において、あるがままに生きる、というと我儘に生きる、と誤解される方がいますが、そうじゃありませんよ、それは正確では
ないよ、
 あるがまま、というのは、自分のあるがまま、ももちろん含むのだが、そんなことはあたりまえであって、
 むしろ、他者のあるがままをもあなたは許容するんですよ、というニュアンスなのだ。
 
 レビューを見ると、あるがままって我儘なんじゃないだろうか、というものがあって、
 だからそれ、作中でとりわけそうじゃないって箇所があるじゃないか、とびっくりした。
 
 あるがまま、
 自分があるがまま、なのはある意味何の苦労もなく実は、天然自然にそうなのだ。
 どんなに不幸な人であれ、どんな不遇の人生、どんな困難にうちひしがれているのであれ、そうだ。
 ところが他人のあるがまま、を受け容れるとなると、
 これは本当に難しい、
 本当の意味で難しいことだ。

 本当に本当に難しい。
 でもあっさりと答えだけを言うならば、簡単なことだ、
 あなたは彼に干渉できないし、彼はあなたに干渉できない。
 そう、つまりそれは、
 そうだ、と、「干渉できない」と思い決める必要はあるんだけれども。
 決めかねる状態においては、確かに、あなたは彼に干渉ができるし、彼はあなたに干渉ができる。
 思考が現実化する、というとある面、希望的だが、
 それは楽しみであれ、苦しみであれ、喜びであれ、憂いであれ、退屈であれ、無気力であれ、比重の重さによって現実化する。
 根気強くであれ、強烈な一気呵成においてであれ、それは実現する。
 習慣であれ、努力であれ、
 怠慢であれ、集中であれ、それは必ず実現する。

 足立幸子という人は足立育朗という人(彼女の兄)を通じて知ったのだが、兄さんの方の本を読むと、
 真地球の歴史というのを読んでいると、途中だが、
 ポジティブとネガティブが争いになって核で絶滅しました、というのがそれこそ二十回は出てくる。
 毎回同じ。
 もう、毎回オチは同じ。
 何回核で絶滅するんだよ、としまいにうんざりを通り越して飽きてくる。
 
 しかし、この、ポジティブとネガティブの争い、というのは、
 繰り返し触れるにつれ、
 次第に腑に落ちてくるというか、考えさせられますね。
 
 宇宙に何かがあるのかもしれない、と「希望」的観測によって思い馳せていたわたしは、
 こういった情報に触れるにつれ、「宇宙戦争」などというものがあった、と聞くだけで、なんだかがっかりしてしまうのである。
 なんだ、それ、地球と変わりないじゃないか、と思えるのだ。
 宇宙を航行できるようになってまで戦争するかね、という気がしてしまう。
 
 で、宇宙はいったん棚上げするとして、自分自身を振り返ってみたときに、やっぱりポジ・ネガの拮抗というのは、あるんだね。
 それもこれもわたし自身である、と理性では判断していながら、どっちかっていうと「ポジ」を歓迎して、「ネガ」を疎ましがる、
という姿勢がたしかに、あるなあ、と思う。
 なにかにつけ、楽観的で、嬉しくて、不安もなく、感謝はあり、浮き浮きする、という感じを好めば好むほど、
 悲観的で、不安があり、不満があり、打ち沈む、という感じが好ましくはなくなるんだね。
 
 そう考えると、いまさらだが、
 宇宙とはすなわち自分自身の縮図、もとい、
 自分自身とは宇宙の縮図であるということが言えると思う。

 わたしは人には目もくれないという視点を理性では獲得しているが、宇宙に関してはどこか、目をくれちゃうんだな。
 現実としての親に、神を求めたりしないが、宇宙という、より広いものに対しては、神を求めてしまう。
 神が争うなんて、がっかりしちゃう。
 宇宙を行き来する存在が争うなんて、がっかりしちゃう。
 でも、
 それって結局、戻るけど、
 わたしは彼に干渉できない、彼はわたしに干渉できない、ということのことをゆるがせにしていることに起因するんだな、と思う。
 
 親にも他人にも自分を干渉させはしないけど、宇宙には干渉させるんだ。

 

 いやここまで大言を壮すると、

 とかいう、こういうことだなあ。

 なんか中学生日記みたい。

 

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ゲームをされない方の着席はお断り、という「ハウスルール」があった。

 カジノが面白い。
 バカラが面白い。
 という話をずっと書きたいと思っていた。

 ゲームをされない方はテーブルにつかないでください、というハウスルールがあった。
 カジノの店を「ハウス」、あるいは「箱」といったりするのも面白い。
 もちろん「店」、ともいう。
 でも店ルールや箱ルールとは言わない、それは「ハウスルール」であり、
 ようするに言い方の通例にすぎないが、その意味するところは、ウチ(家・ハウス)で決めたルールに従ってもらいますという制約であり、
 制約を破られる場合には退店、もしくは会員権を取り上げることになる。
 ハウスは誰でも入れるわけではなくおよそ「会員制」である。
 
 ゲームをされない方はテーブルに座らないでください、の意味するところは、
 単純に混んできたときゲームをする方に席をあけてほしいからでもあるが、
 そういう、誰が見てもそうだ、ということだけではなく、
 ゲームに「参加」されない方の醸し出す「他人事」な白けた空気がダメ、
 賭けてもいないのに無責任に野次をとばすのがダメ、
 賭けてもいないのに面白がるだけではダメ、
 なぜダメかというと賭けている客がそれを嫌がるからダメ。
 ということがある。

 

 面白いのはそれが、
 リアル、現実、現世と重なる部分があるな、と思うからだ。
 ところで何がリアルか、ということは、人それぞれとしか言いようがない。
 世の中には「それでも地球は平たい」と信じている人もいるのである。

 地球は平たい協会というのが、現に今もアメリカにあるのである。
 彼からすれば地球は丸いなんていうのは空想か陰謀か、ともかく「現実」ではないのであって、
 つまり「現実」とはそれほどまでにいわば、可塑性があるというか、
 自由自在というか、
 あなたがたとえそれをそれと意識しないまでも、信じている、という自覚がなくても、信じていることが要するに現実だというほどのものでしかない。
 それで、「これが現実だ」と思っている、信じている、ことがあるときに、
 言い換えれば「これは重大事だ」と思うようなことがあるときに、
 横で、「そんなのどうでもいいじゃん」的な態度を取られると面白くないですね。
 それは大変ですねえとまったく大変そうでもない感じ、他人事な感じで空々しく騒がれてもやっぱり、面白くはない。

 

 著名人あるいは事故や事件で一挙に著名になった人の死に際してマスコミが駆けつけて「今のお気持ちは」とやるような行儀の悪さにも通ずるようなある種「無礼さ」がある。
 
 ゲームをされない方の着席お断り、とは、そういうニュアンスなのだ。
 お金を賭けてゲームに参加している人のそばで賭けていない人がいる。
 いわば、参加料を払わずにゲームをタダ見している人がいる。
 そうすると、身銭を切っている人からすれば、こいつをつまみ出せ、という気持ちになる。
 単に気が散る、不愉快だということもあるし、それは、マナー違反であるということもできる。
 身銭を切っている人がすべてそんなふうに苛々するわけではないが、
 昔は、ハウスが先回りして参加しない人を、ゲーム台から人払いするという姿勢があった。
 今は、あんまり見られないですね。
 別に良いの悪いのって話じゃないが、たしかに、時代の移り変わりはこんなところにも現れるんだなあ、と思う。

 

 現実を当事者として共有出来ないひとの参加はお断り、というのは今も空気感として存在している。

 そしてそれは、ある意味「あたりまえ」の実感としてわかるものだ。

 いや、わかるものだ、とわたしは思うが、

 そうじゃない人もまあ、いますね。

 相手をおざなりにして、それは言うならば日々刻々と生まれているはずの自分をも、なおざりにして、「正しさ」や「常識」に固執するような態度として現れる。

 

 河合隼雄が、自己臭症の人に対して、あっこれは大変だと、

 一気に緊張が走って、迂闊なことは言えないと思うのと似ている。同じだ。

「僕、臭いますよね」

 に対して、臭わないのだから臭うといえば嘘になる、臭わないといえば「彼にとっての現実」を尊重せず一蹴することになる。

 困った、といって、そこに踏み止まること、これにはまったく、「胆力」がいる。誠実さがいる。

 思いがけず窮地に立たされて、一昨日とか明後日とかに逃げずに今この瞬間から突破口を見出そうとすること、

 これはもちろん相手を打ち負かすのではなく、むしろ、相手が本当は「何を気にしているのか」「何が問題なのか」を相手の身に立って、切実に感じ取る、ということ、

 安易に過去のデータや未来の期待に逃げない、ということ、そのためには自らの恐怖心に打克つ必要がある。

 打克つっていうのはそれを闇雲に退けるんじゃなくて、見ないことにするんじゃなくて、それを見つめる。

 

 現実って何でもないんだよ。

 っていうと語弊があるが、

 つまりそれは、自分が創った現実であって、他人が創った現実ではない。

 他人のものに影響されたり、干渉を受けたり、同調することはもちろんある。

 でもそれは、同調するだけのものが自分の中にあるからであって、

 干渉しないで!と、相手を拒絶しても、

「真似しないで!」といくら「鏡」に向かって叫んでも甲斐がないものである。

 

「鏡」は「現実そのもの」ではない。

 鏡に映ったものを「現実」としているのならば、それは、現実らしさの欠片もないわけではないが、

 現実それ自体ではない。

 現実って何でもないんだよっていうのは、

 鏡に映ったものを「現実」だと思っている場合が往々にしてあるということ。

 鏡は自分の真似をするけど、鏡の真似を自分がするっていうのは、どう考えても不可能だよね。

 

 それで唐突に思い出したけど、子供の頃、鏡の真似をしてやれと思って鏡の前で格闘してどうしても無理だったことがあったな。

 でもじっと鏡の前で我慢していたらそのうち鏡の中の自分が焦れて、あるいはうっかりと動いたりするんじゃないかと息を詰めて見守っていたりした。

 子供って、不思議ですよねぇ。われながら。

 

 

   
 
 
 

記憶喪失が面白い。

   間が見えない。
 間を描写できない。
 結論はわかるが結論を導くことができない。
 答えはわかるが式がわからない。
 
 つまり、何かについて他人に(何なら自分にも)わかるような説明が出来なくてこの何日か困っている。
 発達障害に躓いたかな。

 アウトプットじゃなくてインプットの時期なのかもしれない。

 鏡像反転、鏡像認知も興味がありすぎてとても総括じみたことは言えない。
 この鏡の不思議、については昔から議論されているが結論はない、らしく、そういう点でも興味をそそる。
 昔から問われているがいまだ決定的な答えはない、
 ということの他の例を挙げれば、
 人は何のために生まれ、何のために生きるのだろうか、というような問いなども共通項があるのではないだろうか。

 しかし、それについては思うところがある。
 結局のところ、人を突き動かすものは、人を感動させるものは、
 結論じゃなくて過程なのである。
 たいそう評判になった本とか映画とかがあるとして、内容を一言で言ってくださいって、それ一言で聞いても感動するかって言ったらしないよね。
 流れを追わないことには、感動を獲得することもできない。
 だって所詮、他人が創った話だぜ?ってことだ。
 そもそも自分が無自覚に持っている前提からして違う物語を、たった一言で聞いてそれを理解できるか、体感できるか、って言ったらまあたいていは出来ないよね。
 まず前提を呑み込まないことには、その後の展開にもついていけない。

 FF11の世界を実にリリカルにかつ面白おかしく語ってくれた人(永井泰大)が、
 サッカー観戦についても語っていて、
 やはり実況中継的に、参加するということ、
 その試合の流れを「省略なし」に臨場感をもって、「その場にいるかのようにして」感じるということ、
 これが、まあ面白さのキモだよねと。
 
 人は何のために生まれ、何のために生きるのだろうか。
「そんなこと知らないよ」という世界にわれわれは生きているのだ。
 実際のところ、その「答え」など、知る必要はないんだと思うの。
 それはいわば、目的と手段とを取り違える愚、に通ずる何か、
「答え」を知るためにわれわれ、生きているわけじゃないんだと思う。
 まあ、わたしはそう思う、とまでしか言えないことだが。
 
 手段は目的であり、目的は手段である、というような「逆転」を、わたしたちは、しているのではないだろうか。

 記憶ってあるじゃないですか、
 記憶。
 それはわたしたちにとって、かけがえのないものである、と思う。
 いわばそれは、わたしたちを形作る大切な物語(アイディンティティ)なのである。
 最近、記憶について調べていて、それならこういう面白い小説があるよ、という、
 記憶喪失になった人が主人公の小説を、たまたまブックオフで見つけてちょっと立ち読みしていたら、
 名前を聞かれて、名前が思い出せない、
 ていうか何もかも思い出せない、ということに気づいて、地面から崩れ去るような恐怖を覚えた、
 という記述があり、
 
 これは、「記憶を保持しているわれわれ」からすれば、まったく共感できる「恐怖」であるが、
 本当に記憶喪失になってしまった人、からすれば、
 果たしてそこに焦燥を感じるのだろうか、という点は疑念を残す。
 
 つまり、まったく自分が「誰」だかわからない、自分の名前がわからない、出自がわからない、住所も職業も、それまでにあった日常もわからない、
 という状態を「恐ろしい」と感じるのは、
 本当にわからなくなってしまった人、ではなくて、本当はわかっているんだけど一時的にわからなくなってしまった状態、を想像するわれわれ、でしかないのではないか。
 
 本当にわからなくなってしまった人、からすれば、名前はなんていうんだ?と聞かれて、名前がわからないことに恐怖する、というより、「名前って何だ?」と思うのが「自然」なんじゃないか、と思うのだ。
「おまえ、名前何ていうんだ?」
 と聞かれて、
 そもそも「名前」とは何か、
 ということは「わかっている」とすれば、それは果たして、「記憶喪失」と言えるのかどうか。
 
 飛ぶようだが、たとえば、
 税関でパスポート、
 いやもっと卑近な例でいえば、電車に乗っていて、下車しようとして、改札口で切符はと言われて、切符がないことに焦るのは、
 切符がなきゃここを通れないと認識している人でしかありえない。
 
 つまりそれは「中途半端な記憶喪失」である。
 切符がなきゃ困ったことになる、ということは記憶しているが、切符がどこにいってしまったかは記憶にない、
 という状態ではじめて、改札口で「困った」ことになる、のである。
 
 これはだからわたしが抱く「〈他者の前提〉による物語」を聞くときの「違和感」なんだな。
 
 それが「怖い」に、すっと入り込めない。

 記憶喪失、はだからたいへん面白い。
 そんなことを言い出せばそもそもじゃあ、なんで生まれてから獲得したに違いない「日本語」はわかるんだよ、覚えているんだよ、とも突っ込めるわけで。
 だから、記憶喪失、記憶というのは多分に恣意的であると思われる。
 
 どこかでふっと抜けるというか、
 あまりに荒唐無稽ならば人は覚めてしまうが、ある程度荒唐無稽さを排すれば覚めずに入り込める、という、
 何らかの了承があるんだな。
 もちろんそれは人によるんだけどさ。

 

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発達障害・アスペルガー・広くは自閉症。が迷路に迷い込んだように、気になるし面白い。

 何を調べていたのか忘れたが、検索画面に「実はわたしもアスペなのでは」というヤフー知恵袋にあがっていたものを読んで、面白いな、奇遇ですねわたしもですと思った。
 しかしヤフー知恵袋もなんだかカオスだな。

 ネタというか釣りというか、いわば「架空の質問」も多いと聞くし、実際にそうなんだろう。
 それが架空だろうが、「本人的に事実」に即したものだろうが、わたしはあまりどっちでもいいというか、気にしないけど。
 
 わたしは「事実」に無頓着だと思う。
「事実」、そんな区分けは必要ないとさえ思っている。
 これは「事実」だが、これは「事実」ではない、そんな仕分けは幻想に過ぎないというか、何でもないという気がしてならない。
 それは便利だし実際に未だ機能を果たしているけど、
 ま、そのうち廃れるだろうと勝手に思っている。
 
 夏目房之介が面白いのは、系統立っているというか、緻密っぽい分析というか、いや「ぽい」てのは悪口じゃないけど悪口みたいだが、決して悪口ではなく。
 そもそも緻密であることの「優位性」が、わたしは「ない」と思っているからそういう表現になる。
 緻密っていうのは表現のひとつ、バリエーションだと思っている。
 硬質なタッチ、柔らかなタッチというように、緻密さというタッチがある。
 緻密であればあるほど良いということはなく、単に嗜好性としてそれがある。
 それで、どういう表現方法であってもそこは好みというか、単にそれもありこれもありというものであっていいしそれぞれが味わい深い、
 わたしが面白いと思うのは結局のところ「感性」なのかもしれない。
 なぜ彼はそれを取り上げようと思ったのかという「動機」の立ち上がりというか。

 
 ヌーソロジーは面白かった。
 四つの柱、
 表の白と黒、裏の白と黒がそれぞれ交差しているという、
 ユングのアニマとアニムスみたいな。

 途中でふと、「二次元の世界」だったか、1800年代後半に書かれた小説を思い出した。
 あれは画期的な試み、実験的なおもしろい意欲作だったと思う。
 でも仕方のないことだが、どうしても古いというか、偏りというか限界というか、

 
 なんていうか、ある地点、ある座標から予測する未来には、どうしてもその地点、その座標から見たというそのもの、立脚点を捨て去ることは出来ない、
 出来なくてもいいのだが。
 
 なんでしょうね、昔、わたしが小学生の頃だから、1980年代の図書室にあった、未来SFモノというのが、
 もうすでに古い、古いんだけど、わくわくする。
 それらは設定が未来なだけであって要するに少年モノの冒険譚であるという古さ。
 背景の違いはジャンルの違いにすぎない、
 舞台をどこに設定しようが、そこに貫かれている精神は同じであるというか。
 未来も過去も外国も、いまここ、ではないという意味においては同質であるというか。
 
 時代漂流ものが好きだった。
 いわば日常を離れて異世界へ行くものが。
 ズッコケ三人組の初期の作品でいえば、無人島へ漂流する「危うしズッコケ探検隊」、江戸時代へ行き平賀源内と交流する「時間漂流記」、土蜘蛛の一族にとらわれてしまう「山賊修行中」がとても好きで何度も読み返した。
 そして、自分の趣向として、そうか、こういうものが好きらしいと自分でも自覚できるような偏りが確かにそこにはあり、それとは一言でいうなら「異世界」モノなのだった。
 
    *

 発達障害の一つに、省略が出来ないということがある。
 点と点を繋いで線にする、ということが理解不能な「飛躍」としか感じられない。
 でもこれは、実際のところ、誰しもが経験したことがある現象ではないかと思うのだ。
 
 そこに断絶があると感じるのは、
 結局のところ、それを「経験」したか否かという、
 納得したか否かというか、
 自分の身に落とし込めたか否かの違いに過ぎないのではないか。
 実地的に、それはわかる、それはわからない、の違いに過ぎないのではないか。

 ところでこんなことを軽率に書くのはちょっと憚られる思いもあるが、
 わたしは「発達障害」を枠で囲い込むのは、「どことなく反対」の気分を捨てられない。
 だれだって「健常者」である、というとき、
 では「健常者」とは何か、という明確なガイドラインがあるのであれば、それはすでに「誰だって」とは言えないし、矛盾しているわけです。
 わたしにももちろん無自覚・無意識にかくあることが自然、ということはあり、
 言い換えれば「盲点」は必ずやあり、
 無意識に設定しているガイドラインというものは存在する。
 それが何か、ということはだから、無意識だから描写しようがないわけですが。それは未だ無意識の領域に留まっているから「無意識」なのであって。
「アホ」を辞書で引くと「アホのこと」とあった、みたいなことを書いている気がするが。
 
 つまり何が言いたいかというと、
 未だ無自覚である「これが普通」ガイドラインはわたしにも誰にも存在するのであろうが、
 まあ、だから「理想」としてですね、いずれは自覚される可能性があると思う、という希望を託して、
 わたしは誰だって健常者である、という理念を持っている。
 規格外などというものは大いなる視点で見たときには、ないんだ、と思っている。
 それがどういうものかは具体的にわからないけど、きっとあるんだろうと思っているもの、まるで「イデア」のようなものが、わたしにはあり、

 それは「誰しもが健常者」「誰しもが規格外ではない」「誰もが存在してもいい・存在すべくして存在している・存在である」という、理念というか実感だ。

 だから、「発達障害」という括りが、その仕分けが、

 仕分け自体が悪いとは思わないが、それがいったい何を目指すのかという「動機」によっては、わたしは「どことなく反対」、

 これが正でありこれが否であるという仕分けの姿勢ならばわたしは、それを反対とするよりないという気持ちがする。

 違い、を違いとして他から自らを際立たせるもの、自らの輪郭線を自覚させるもの、としては、反対ではありません。

 
 戻りますが、

 発達障害とされる人が(とされない人にも経験があるとわたしは思いますが)、「省略が出来ない」、

 点と点を結ぶ線、なぜその点と点が線となって結びつくのかがわからない、飛躍であるとしか思えない、

 ほとんど超能力のように他者とのコミュニケーションを成立させている(定型発達の)人々がいる、と感じられること、
 
 つまり普通は(というか「超能力を駆使する人たち」からすれば)省略するでしょってところを、省略したらわけがわからないと主張するような人、というのは、
 
 なんでしょうある意味、この「あたりまえ」が連綿と続く世界に、
 いったい何が当たり前なのかという、
「差異(違和感)」をもたらしに来たのではないか、という気がする。

 この当たり前、とは、要するに幻のようなものだと、わたしは思う。

 ところがこれは、個人的な幻、ではなく、後天的に獲得して、もはやそれは「幻」とするにはあまりにも「実体」を持っているとしか言いようのない「元はといえば幻」なのだ。(「健常者」の「当然」を疑ってみるならば)


 われわれ(健常者)は共通の幻を見ている。
発達障害」の人にはその幻は見えない(もしくは幻としてしか見えない・それが実体であるとは信じられない)。

 違う例を出すならば、
 幽霊が見えない。もしくは幽霊が幽霊としてしか見えない。
 幽霊の見える人で幼い頃、それが幽霊なのか幽霊でないのかの区別がつかなかったという話を聞いたことがある。
 そういえばそうだ、いったい「それ」が幽霊か幽霊でないかを、距離を置いて「見ている」だけでどうやって判別するのだろうか。
 この「見る」ということも、
 面白いなあと思うんだけど、これは「訓練の結果」であって、
 生まれつき目が見えない、という人もいるが、
 そもそも誰だって生まれつき「目」は見えない。というか目を使えない。
 つまり物理的に、肉体器官的に「目」によって「現実」を「見る」ということは、生まれたての赤ちゃんには出来ない。
 肉体を使って現実感覚を獲得していくのはおよそ後天的なことなのだ。
 いずれほとんどの人は目で物が見えるようになるし、立って歩くようになるし、言葉を話すようになるが、
 生まれてすぐに目が見え、立って歩き、言葉を話すような赤ちゃんはいない。
 それらは、皆その過程を如実に語るには「忘れて」しまっているが、訓練を訓練とも思わない中で「自然と」習得していった所産なのである。

 わたしもアスペなのでは?というひとの質問に答えるならこうだ。
 あなたはアスペなのではなく、アスペ的判断が出来るひとである。
 

 結局、すべてはグレイゾーンなのであって、ここからは白、これからは黒、と言えるような境界線は、それこそ幻(仮想)である。

 でもこの幻が、幻としてではなく、「実体」としてまかり通っているのが、現在ある世界の様相である。

 ではあるが、これは、確かに、変化の時期にありますね。

 

 こうなると、果たして、「硬直」しているのは、いわゆる「健常者」なのか、それとも「発達障害」とされる人なのか、どちらであろうか、ということさえ、

 まったくファジー(曖昧)に思えてきますね。

 

 無理やりにまとめると、

 健常者であれ、そうではないのであれ、

「慢心」に陥ることは怖いですね。

 ということになります。

 

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自己否定は「おごり」

 夢でのキーワードは「傲り」とは何だろうか、である。

 ところで、わたしの信条は、「挑戦しないのなら死んだほうがマシ」だ。
 挑戦というといかにも戦闘的かもしれない、要は「日々新たな発見がないのなら」というほどのニュアンスだ。
 継続することは、自然なことなんだな。

 と、ある流れが起きる。
 その流れがまた別の波紋を作り、それらは継続してゆく。
 それはまるで「慣性の法則」のように、昨日に基づいて今日があり、今日に基づいて明日がある、というように、ただ継続する。
 それはまったく自然なことだ。
「良い」も「悪い」もない、ただ自然な流れであるのに過ぎない。
 
 あるときふと「昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日である、ということ」に気づいた存在がいた。
 彼は、明日も明後日も明々後日も、一年後も、十年後もということをまで遥かに思いやった。
 そして不安になった。
 今ある安全の永続、その安寧、その確かな未来を今すでに手に入れておきたいと願った。
 
 これは、不自然なことだ。
 
 彼は「予期」する能力を手に入れたことにより、「予期のかなわぬ・うつろい」を恐れるようになったのだ。

 わたしは未来の「安全」を手に入れたいとは思わない。
「安全」は今すでにここにあるからだ。  
 
 今日のことだけ、今のことだけを考えていたら幸せだなんて、おめでたいな、あとで泣きを見たって知らないぞ、
 という先を見るに長けた「賢い」人々は実際のところ、
 あとではなく今、泣きを見ているようなものだ。
 彼の「安心」や「幸福」は今ここにあるものでは十分ではなく、それで満たされていると満足することは彼にとって「愚か」なことでさえある。
 
「向上心」を持つのは良いことだ。
 そのとおりだ。
 だが、その「向上心」の状態、「向上心」があなたに及ぼす感情には注意をはらわなければならない。
 その「向上心」は、あなたを嬉しくさせるものだろうか。
 あなたに生きる喜び、いま生きているという奇跡のような幸福、興奮を感じさせるものだろうか。
 
 かつてわたしに、「わたしは幸せになりたい、あなただって幸せになりたいでしょう」と詰るように、ほとんど訴えるように言った人がいた。
 あなたにとっての、あなたが思い描く「幸せ」とは何なんだろう、それはある意味とても個人的なことだし、そういう側面において実に曖昧にならざるを得ないものでもある、と少し当惑し、ごちゃごちゃ言うのも何なのでただ、
 わたしは、いますでに幸せだと返した。
 翌日またその会話を思い出し、ご飯を食べながらふと、今海に放り出されて息も苦しく溺死する状況だとしたら?
 という想像がふと浮かび、現にそうではないということがしみじみとありがたく、「今がある」幸せを感じた。
 
 そんなことが幸せだなんて小さい、あるいは不十分だ、と思うのは、「生きている」ことそのものの雄大さに比して実にそれこそ矮小かつ、また本末転倒な思考である。

 そもそもわたしたちは、「幸せになる」ためにこの人生を生きているわけじゃない。
 わたしたちはすでに「幸せ」なのであり、
 そのことに気づかない限り、本来あるこの人生のスタートに立つことさえ、かなわないのだとも言える。
  
 幸せっていうのは何ら特別なものじゃなくて、当たり前に今あるものが幸せそのものなのだ。
「幸せになりたい」ってことは「今は幸せじゃない」という思いを宇宙に向けて発信し続けているようなものだというのは、そういう意味で、よくわかるし、本当にそうだなと思う。
 神様は常に「イエス」としか言わないんだよって話も思い出す。
 本当にそうだよな、と思った。
 わたしは不幸なんです、といえば、神様は「オッケー、そうだね(yes)」と返してくる。
 
 これは鏡の不思議さ、鏡の深遠さ、神秘に通ずるものだ。
 
 まとまりないので「おごり」について最後に、思い出してみる。

 傲り、つまり傲慢さとは、
 
 うんたとえば、絶望するとか。
 この世に何の希望も見出せないとか。
 
 いっそ言えば、「自己否定」は、「おごり」の最たるものだ。
 自分なんて取るに足らない、というとき、
 ここも「感情」がどうであるかが肝なのだが、
 自分なんて取るに足らない、というとき、世界は素晴らしい、という思いがあってその言葉が突き上げてくるのか、あるいは、
 世界が(というかこの際他者が)素晴らしく美しいことに比べて、自分とは何とお粗末でみっともなく、生きている価値のない劣った存在だろうか、というような、いわば自己卑下の念にもとづくものなのか、
 というのはおおいに、違うのだ。
 前者の「自分なんて」、はいわば、その自分とはエゴと置き換えられるものだ。
 

 自分ってのはエゴじゃなくて、エゴをも包括した、エゴを超越した存在なの。
 だから世界は素晴らしい、というときとても清清しい気持ちでそれを思う。
 自分とは、イコールエゴではなかったんだ、という気づきは、それはそれは気持ちがいいものだ。

 ところが後者の自己卑下たるや、世界にただ圧倒され、みじめにひれ伏している自分がいる。
 自分というものはみじめな存在である、と思うのは、これは、まったく逆さまのようだが、はっきり言って「傲慢さ」である。
 
 あなたに何がわかったのか。
「あなた」に何が「わかった」のか。

 あなたは、借りてきた。
 あなたは宇宙の全なる源からエネルギーとしてやってきて、ここに「エゴ・フレーム」とか「脳」とか「身体」とかを借りて(仮の姿として)いまここに体現している、実在している。
 あなたは「フレーム」じゃない。
 あなたは「フレーム」を通じて自己を確認するが、「フレーム」が「あなた」なのではない。
 
「フレーム」があなたを圧倒し、圧殺するということは、
 まあそれも一つの経験としてありかもしれない、なしではない、ただ、
 わたしが思うには、それって、むしろ傲慢なんじゃない?と感じる。
 それは弱さというより、自我の肥大ではないか、と思う。

 

 おごり、

 それは自分を価値のない存在だと思うことだ。

 あなたには価値があるから周囲の取るに足らないその他大勢、衆愚を支配しろっていっているんじゃないよ。

 啓蒙しろっていうのも違う。

 啓蒙は、必要ない。

 

 結局、コインの裏表なんだな。

 卑下しなくて(裏にまわらなくて)いいというと、じゃあ表に、

 違うよ、裏とか表とかじゃない。

 そんなコインはただ捨てちまえばいい。

 捨てられないのは、愛惜かもしれない、同情かもしれない、遠慮かもしれない、もしくはただ自信のなさかもしれない、

 ともかく自分が「捨てられない理由」を持っていることはたしかだ。

 どこかで逆転する華々しさへの憧憬を捨てられないのかもしれない。

 

 ともかく、あまりに自分を価値がないとか、卑下するとか、世の中に絶望するとか、

自責の念にかられるとか、

 そういうのは、全部ようするに「おごり」だよと思う。

 妬むのもおごりだ。

 

 すべては突き詰めれば「受け取り方」だし、「受け取る」のは自分自身だ。

 昨日と今日とでは、世界は、本当に一変している。

 今日が昨日の続きだと決め付けているのは自分であって、他の誰でもない、

 本当は、他の誰でもない。

 あなたは「優しさ」でもって「他の誰か」の決め付けに譲歩しているのかもしれないが、

 でもそれは、あなたが本当には「困っていない」ということのあらわれかもしれない。

 

 すべては自分の受け取り方だと思うと、本当にわくわくする。

 何ならちょっと行き過ぎた感じとして、緊張(ハラハラ)さえする。

 

 誰にでも、断言するが、「信念体系」というものがある。

 それは記憶の積み重ねといってもまあ同じようなもの。

 まったく未知なものに触れる、対応する、冒険心があなたには残されているか?

 わたしには残されているか?

  

 

わたしは「自分のしたいこと」しかする気はない。

 小学生のころに友達だった子から、高校生のとき大学受験など進路について話していたら、一方的な怒りを買ったことがある。
 彼女が真剣にまじめに努力して将来を考えているのに比べて、わたしがいかにもノウテンキでふまじめで、ふざけているように見えたのだろう、とわたしは彼女の怒りの原因をそう見ている。

 今日その子ではない友達にそうした昔話をしていると、彼女にもそういう経験はあって、彼女と一緒に怒られた友人は、怒ってきた人が「僻んでいるのだろう」と言っていた、という話をしてくれた。
 まあ、
 僻みでもいいですが、それはちょっと禍根を残すというか、
 ちょっと攻撃的であるというか、
 そうだよねー(笑)、という話ではない、という気がする。

 進路についてではないが、その後、今でも近しく付き合っている友人とまだ若い頃に、何の話の流れかは忘れたが、
 わたしは、「自分のしたいことしかする気はない」と言うと、
「そんなことでやっていけるはずがない」と怒られた。
 やりたくないことでもやらなければならないことがある。
 皆が自分のやりたいことだけをやっていたら世の中はめちゃくちゃになるではないか。
  
 これ、困る。
 皆が自分のやりたいことだけをやっていたら、世の中はめちゃくちゃになる、
 のだろうか。
 端的に言えば、そうは思わないけどなあ。
 これについては、以前どうしたわけかわたしの家に居候していた男の人、ともそんな話になって、
 じゃあ、誰が道路標識や信号を作るんや、信号作りたいやつなんておるか、
 と言われて、ゆきがかり上、おるよ、と返したが、なんだか笑ってしまった。
 皆が自分のしたいことをし、それが相互協力的な、相互扶助的な社会、世界において、はたして「信号機」があるかないかはわからないが、
 もしそれが必要ならば、それを建設したい人がちゃんといて、それをしているよ。
「信号作りたいやつなんているものか」
 これは多分に思いこみに満ちている。
 あなたはそうじゃない。
 だからあなたは信号を作らないだろう。
 でもあなたがしたくないこと、が誰にとってもしたくないこと、であるかどうかなど、どうして決定事項と言えるだろうか。
 
 ひとは自分に似た人を好む。
 自分とは異質なものを拒む。
 いやいや、そんなことないよ、というひとだって、じゃあ、顔が二つあるとか、第三の手が背中からも生えているという人、あるいはまたまったく意思の疎通が叶わないような精神状態が異質な者を、自分の伴侶や、生まれてきた子供として、抵抗を感じずに受け容れられるだろうか。
 ひとには許容範囲というものがある。
 その許容範囲とはもちろん人によって違うのだが、これは、
 わたしの意見だが、許容範囲が広いことによって自分が困るということはない、と思います。
 
 もちろん無理なものは無理、というのが「悪い」なんて思いません。
 無理なものは無理だ。
 ただそれで不自由を蒙るのは実際のところ、相手や他の誰か、ではなく自分自身であると思っている。
 それを不自由だなんて思わない人もいるかもしれないが。
 
 わたしが友人に言いたかったのは、
 わたしにも気の進まないことや、したくないこと、がないわけじゃないが、
 それでもどうしてもそれをしないわけにはいかない、と自分が思うのならば、それには必ず理由があり、自らの必要性にかられた要請があり、だとすれば、もうそれは自分がすると決めて選んだことなのだという気持ちで、それをしたい、
 したくないけど仕方なくするんだ、嫌々するんだ、というのは潔くない、
 もう自分がそれをしたいからするんだ、でいいじゃないか、ということだった。
 あとあと、そんなことを補足したら、言葉が足りない、と言われた。
 言葉が足りないですかね。

「言葉が足りない」問題は実にわたしにとって深刻である。

 しかし前言を撤回するようだが、「許容範囲が広くて困る」ことは実はあった、
 それはその「広さ」を非難されることがある、という事態によってだ。
 というのはつまり、冒頭へ戻るのだが、
 茫洋として広くゆったりと構えていると、
「あなたって人はなんでそうなの!」と怒られることがあるのだった。

 これを怒る側の僻みと言っていいのか、
 僻みと言ってしまえばそこの溝は永遠に埋まらないのではないか。

 たとえばわたしは家に戸締りをしないのだが、それを怒られるとまで言わないが、つくづく心配される、ということがあったりね。
 ああ、心配かけちゃ申し訳ないのかなあ、という気はちょっと、してくる。
 でも結論から言えばわたしは戸締りなんて「したい」と思えない。
 
 まったく話は変わるようだが、
 職場の人と何気なく話をしていたら、その人は結婚しているのだが、
 なんでもかんでも正直に言うやつって何なの、ということになった。
 それは、ちょっとした浮気心とか、実際の行為に及ぶような所謂不貞行為というか、
 そうした、言わなくてもいいことを一々隠さずにすべて言うやつって、どういう了見なの、という。
 この、「言わなくてもいいことを言う」という感覚って、おもしろいよな。
 いったい何が、「言わなくてもいいこと」なのか、「言ってもいいこと」なのか。
 これは、
 まあ、ひといきに結論するならば、「(それ・は)言わなくていいのに」と思う側が、相手方に対して甘えているんではないか、と思うけどな。
 あるいは、自分だって言いたいことを呑み込んでいるんだから、おまえも呑み込めよ、という、
 平等で対称的な構図を期待しているというか。
 どこか無自覚に自分本位であるというか。

 なんであれ思うことがあるのなら、全て逐一もらさず腹に溜め込んだりせず、「相手」に吐き出すのがよい、という話じゃない。
 そうじゃない。
 ただ、もし敢えて出さないのなら、出さないのはおそらく突き詰めれば、「自分が」外には出したくない思いや腹があるのであって、

 あるいは、出すべきではないというルールだかマナーが自分にはあるのであって、


 何も「相手」に必ずしも知ってもらわなければならない、ことはもちろんないが、

 じゃあ自分一人の心境としてならば認められる思いがあるのかといえば、そうではなかったりする。
 そうではない、自認も未だ儘ならない、というときに事態は他人をまで巻き込んでややこしくなるのであって。
 自分一人でなら本当はこう感じている、という内容も実は明確ではない、明確にはできない、という事態を、

 他人がおのずと・勝手に・都合よく「察して」くれたなら(むしろ察してくれて当たり前なら)、自分が明確にはしたくない思いを、曖昧にしたままやり過ごせるのに、というのでは、

 困るというか、混乱のネタ、種を蒔いて回るようなものだという気がするね。
    

 わたしは、自分こそがスタンダードであると無自覚に思っていた。
 とはいえ、自分以外の人間は「不必要」なまでに他人の目を気にしすぎる、と思うほどには、自分と他者との差異・違いを、塵が積もるように、感じ続けてはいた。
 それでも、他人の目を気にしない(ように実は努めている)自分というものが、自分にとってはスタンダードであり続けた。
 他人の目を気にしすぎる「彼ら」は、自分にとってスタンダードではない、のだった。

 ちょっとおかしな、不便そうな人たち、なのだった。

 ところが、長ずるにつれ、他人の目を気にする人たち、というのも彼らなりのスタンダードを生きているのだということが、わかってきた。

 ところで、わたしは、個人的な事情にしかよらないが、矛盾するようでもあるが、実際のところ自分は、「自意識過剰」な人間であるとも思っていた。
 自意識過剰な自分からすれば、他人らのそれこそ放埓な、過剰とまではいえない、素朴な自意識、とじわじわ接するにつれ、
 それと他意なく他愛なく触れ合う喜び、その交歓を重ねるにつれ、

 なんだろうな、和合の道というか。
 境界線の「線」とは実は、線というよりも幅広い面積であるというか、

 白黒ではなくグレイゾーンがあるというか。
 荒野もおしなべては平たいというか。

 そういう心境を獲得していったのだった。

 

 あっ夢の話を突き詰めたかったんだった、忘れていた。
 夢でキイワードがあったのに、なんだっただろう、なんだっただろう。
   

女が自らの客体性を、違和感を持って受け止めるとき。

「とりかえばや・男と女」(河合隼雄・著)を読んでいる。
 面白い。
 著者は男であるにもかかわらず、実に「他者性」を身につけている、と思われるので、わたしは男が語るところの「男と女」の話を気安く読むことが出来ている。
「とりかえばや」は男性によって書かれたのか、女性によってなのか、ということもその成立年も不詳であるが、
 河合隼雄はこれは女性によるものではないか、そして、ここにでてくる「きょうだい」は兄と妹、ではなく姉と弟ではないか、とみている。
 
 男であるにもかかわらず他者性を、というのは、
 これはわたし個人の話になるが、
 わたしが自分の中に「他者性」を見出したのは実に「自分が女である」ということによってだったからだ。
 
 たとえば「ポルノ」を女も観る、という話題から、とある男の人に、
「女の人も男の人の裸を見て興奮するの?」と興味津々で聞かれたときに、
 あっ全然わかっちゃいないなあ!と仰天したことがある。
 男の裸のどこに「人間(=man)」を興奮させるような客体性・秘匿性があろうか。
 おまえは男か、と思った。
 いや彼は男なのだった。
 
 彼は自分が「男」で「女」の裸に興奮するものだから、「女」もまた「男」の裸を見て興奮するということがあるんだ、と解釈したわけだが、
 ことはそう単純に反転するものではない。
 女もまた「女」を見て興奮するのである。

 わたしは本当に「男の論理」を身につけているように思う。
 それだからこそ、「自分が女」であるというときに、
 この世界において自分の中に「他者性」を見出すことができる。
 女を被写体として見る自分はしかし「女」であるという入れ子のような構造を、違和感として持つことができる。
 女は「男」の目を通して世界を見ることが容易いが、男が「女」の目を通して世界を見ることはそう容易ではない。
 
 右利きの人は、左利きの人がかこつ不便さをなかなか実感することは出来ない、というのに似ている。
  
 似てはいるが、違うのは、男と女とは、単純に数による対立をしているわけではないというところだ。
 圧倒的に男が多いから女はマイノリティ(客体)になっているわけではない。
 しかしこの「マイノリティ(客体)」的立場に身を置く経験というのは、
 実際のところわたしは恵まれた分(ぶ)である、と思う。
 誰にとっても本来、自分とは「自分」であるほかはなく、「他者」などというワケのわからないものではない。
 そしてそのまま、自分の中に「他者」を住まわせることなく自分を継続していくのであれば、この世界には発見も驚きもない。
 
 右利きのひとは左利きのひともいるということを知るに至ってはじめて、自分は「右利き」であると知ることが出来る。

 世の中に「利き腕」というものがあることを知ることが出来る。
 また「ハサミの例」でなんだか平べったくて申し訳ないが、そもそも右利きの人が切りやすいハサミを使うことによって、右利きの人が蒙る不便はない。
 ハサミによって自分は右利きであると認識することはだから、右利きの人には困難であるのに比して、左利きの人はそうじゃない。
 当たり前のようにそこらにあるハサミを通じてさえ、左利きの人は不便を蒙ることができる。
 
 右利きか、左利きか、というのは先天的なものであるそうだが、
 男か女かということも、まあどっちかっていうとわりと鮮明に先天的な事柄である。
 親か、子か、というのも、あるいはそれ以上に先天的な事柄である。
 親から子は産まれても、子から親は産まれない、という一方向へのベクトルは抜きがたくある。
 それはたとえば、
 子は親を選ぶことはできない、といった表現に集約されるものである。
 話が逸れるようだが、わたしはこれについては「どことなく反対」である 。
 ゆるやかに反論するならば、もし子が親を選ぶことができないのだとすれば、親だって子を選ぶことはできないのである。
 親とはそれほどまでに圧倒的な全権を任された存在ではない。
 また、じゃあ仮に全権を任された存在である、としようじゃないか、という流れにも、わたしは身を任せたくはないなあと感じる。


 親は生まれてくる子の性別を決めることさえできない。
 それは、堕胎すれば可能ですが、つまり、性別が判明「してから」、それを拒むということは可能かもしれないが、
 あらかじめ。
 どうだろう?いまはできるのかな?
 まあ出来たなら出来たでいいのです。
 つまり親がある程度の采配をふるえる状況が、「ある」ことは間違いはない、かといって、
 男か、女かを選べる状況になりました、としてさえ、
 産まれてきた子の人生にまで采配をふるえるかといえば、
 そうではない。
 もう、ここは、そうではない。
 よしじゃあ男だったらGOといって産んだその子が、自分は間違って男として生まれてきたが本当は女だから女になると言い出すかもわからない。逆もしかり。
 それを阻止する手立ては豊富にあると思えるかもしれないが、早い話が皆無に等しい。
 他人が他人に対してふるまえることなど、たかが知れている。
 
 わたしが言いたいのは、たかが知れてなどいない、という運命を甘受することによる「恨み」を遺してはならない、ということです。
 平たくいえば、自分の人生を他人任せにしてはならないしそもそも出来るものでもないが、仮に他人任せにするなどということができると信じるならば、
 せめて恨みを遺すような思いを自分に許すのは、もう複雑すぎてお手上げだから、やめようぜってことだ。
 
 でもこれは、やめられないんだなあ。
 というのが実に正直というか、「根」の立ち上がりの力強さを感じるところだな。
 あまり論理で生きるものじゃない。
 
「宿命論」について、思うところはあるが、
 つまり「自由意志」はあるか否か。
 これは、これまで触れてこなかったが、「アガスティアの葉」のような、
 あるいは「アカシックレコード」のような、
「運命はあらかじめ決まっているのか否か」という問題は、要するに、
「時間が流れる矢の向き」は「一方向でしかありえない」とするわれわれの根深き習性が、
 これに抵抗し、これへの理解を阻む、ということがあるのではないか。
 
 つまり「逆向き因果」を考えることによって、
 因果を絶対なものとはしない「第三」の提案を見出すことができるのではないか。
 
 戻ると、産まれてくる子が「男」か「女」かなどということはさほど重大事ではない、とする立場、見解、理解、受容が、
 皆自分自身の実感としてあるならば、
 つまり男だから何だ、女だから何だ、
 すべては「それがどうした」「だから何だ」という、
 もはや「なんでもないもの」として、まとまりねえなあ、
 つまり男であれ女であれ、親であれ子であれ、それらは記号(配役)にすぎないのだと言ってみる。
 それは「たましい」ではない、と言ってみる。
 われわれは「たましい」であって「記号」ではない。

 そして、「記号」とは楽しむものであって苦しむものではない。
 いや、これは余計なお世話だな、
「記号」とは単に「記号」にすぎないとまでしか、本当は言えない。

 

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