持たざる者の気持ちが君にはわからないんだ(『バナナ・フィッシュ』#12 英ちゃんのセリフより)

 アマゾンプライムビデオで毎週配信される「バナナ・フィッシュ」を観ている。
 
 で、その「バナナ・フィッシュ」の今週話(#12・持つと持たぬと)で、
 アッシュが命乞いをする者をまで殺しているというニュース(そんなのニュースになるのかね)を英二が知り、
 英二「君は才能にめぐまれている。持たざる者の気持ちなんてわからないんだ」
 アッシュ「殺しの才能か?」
 英二「なんでそんな言い方するんだよ」
 というくだりがある。
 この文脈なら、殺しの才能か?と受答えするのが自然だと思うのだが。
 むしろ殺しを咎める流れからいきなり「才能」というフレーズが出てくる英二のセリフに不自然さを感じる。
 ともかく、
「持たざる者の気持ちなんて君にはわからないんだ」には、まいった。
 はるか昔に読んだ原作でどんなシーンだったのかは忘れたが、
 アッシュも家を出て行きながら、
「おまえには俺の気持ちがわかるっていうのかよ」と捨てゼリフを残すわけだが、
 つまり、そっちがメインなのだろうが、
「才能なんてほしいと思ったことはない」とまで後押ししているし、
 アッシュがほしいのは、
 すべて、というか優れた頭脳と秀でた容姿、という恵まれた素質を持っているように見えるアッシュが本当にほしいもの、とは、
 という流れなんだが。
 そっちがメインなんだからそれを引き出すための伏線にケチをつけるのもどうか、と思うが、
 伏線でコケちゃダメじゃんか、という気もする。
 
「持たざる者の気持ちなんてわからない」
 というこの気持ちがわたしにはわからないというか、唯一わかるとすれば、
 前にも書いたが、man is,を「男は」、と訳すより「人間は」、と訳す方が自然だというような文章を見るようなときだ。
 いまどき英語がどんなふうであるのが主流なのかは知らないが。

 と思って調べたら最近じゃmanを人間の代わりにつかわずpersonをつかう?
 でもmanはもともと人って意味で、のちに、人ってのは男、それもすべての男ってわけでもなく、たとえば資産を持つヨーロッパ系白人男性のこと、というふうに変化してきた経緯がある、という考察を知った。
 なるほど。
 manは本来、人間の意味だが、次第に男としての意味合いが強くなり、今度は男という意味が強いからダメってことになって、manが廃れてみる、という経緯があるらしい。
 
 基本的に女は他者扱いだという、なんだ、なんかが現代においてなおもあり、
 ごくナチュラルに男はそれに気づかない、まったく無意識であるというとき、
 思いもよらぬ疎外感を女は味わう、ということがある。
 これは女(わたし)にとってある意味、衝撃であり発見である。
 あっ自分は世界の主人公かと(それこそ無意識に)思っていたらそうじゃなかったんですって?みたいな。
 こういう疎外感は別に、女には必ずあって男には必然的にないもの、というわけじゃなくて、
 どういうシチュエイションであってもありうる「発見」だと思うんだよね。
 人間誰しも幼いときには、幼児的全能感とでもいうべき「自分が世界の主人公」であることを疑わない、無意識にそうである状態に気づかない、ということがある。
 ところが生きていくにつれ、「他者」の口から自分自身の位置付けというものを聞かされることになる。
 その「他者」の第一号は身近な大人、たいていは親である。
 男は「疎外感」を味わうことがないかといえば、そんなことはない。
 人間生きていたら「疎外感」を味わう(敢えていいますが恵まれた)瞬間には実際事欠かない。
 ただ、
 まあ強いていうなら、男と女という一対においては、
 女の方が男よりも疎外感に気づきやすい、ということはあると思います。
 
 ところで、この「疎外感」がイコール「劣等感」であるかどうか、というと、もちろんここはイコールではない。
 ないのだが、それに近いものは程度によるが人は結び付けやすいのかもしれない。
 でも、よくよく落ち着いて考えたらイコールではない。
 ここをよくよく落ち着いて考えられない状態というのは、要するに、
 自分は世界の主人公だと無意識に思っていたことを、意識すると同時に主人公ではないと知らされ、喪失感にも似た落胆、がっかりを味わい、失望と哀しみの中に立ちすくむ、というようなことだ。
 (主人公が絶対だという思いをまだ知らず持っている状態だ)
 知らず知らず持っていた万能感を剥ぎ取られたように思った瞬間、
 恐れや萎縮、失望、何なら哀しみを感じる。
 
 他にも表現はあろうが、実感は異なろうが、まあ、類するものを感じるとしましょうや。
 でもこれを即座に劣等感と結びつけて固く固く握り締める必要はないとしか思えない。
 脇役だっていいじゃないか、というようなことではなくてですね。
 いや、脇役だっていいじゃないか、でも構わないんだけどさ。
 
 なんだろうな、世界の主人公は一人だと思っていたら、その一人しかいない主人公は自分じゃなかったと思えばそりゃショックだぜ。
 でもよくよく落ち着いて考えてみな、世界の主人公は実際のところ一人じゃない。
 だいたい、主人公というからにはそこに確かに「劇」的なものがなければならない、しかしその「劇」とは彼にとってのみ意味を持つ、実感あるものではないのか?
 (ふと思ったけど「彼」ってのはmanに近いかな。わたしはここで彼といったからって「男」と限定しているわけじゃないが、ここを「彼女」と表記するとそれこそ限定的になってしまう)

 彼にとってのみ意味がある、とは言わないが、
 彼によってはじめて意味を与えられるものではないか?
 
「持たざる者の気持ちが君にはわからない」
 これをまっとうな非難であると出来る、その根拠、その背景、その信念がわたしにとっては、
 なんていうかもはや、脅威である。驚異を通り越して脅威だ。
 
 たしかにフロイトであったと思うが、
 女児はペニスがないことによって劣等感を感ずる、みたいなことを平気で書いてあったのを読んだときに、わたしは引いたわ。
 えっいや全然まったく、考えたこともないや、と思った。
 それでいうなら、
 それにならうなら、
 男は子供を産めないことにそもそも劣等感がある、
 と平気で断言するような神経と変わりがない。
 つまり「それ」は劣っていると決め付ける姿勢としてね。
 
 持たざる者の気持ちが君にはわからない、
 とはいわば、
 なんていうか、ルサンチマン、怨嗟、
 要するに僻みというか、
 相手を優れたものに据えて、片や自分を劣ったものにして、憤懣(か悲哀か知らないが)によって相手を責める、
 その根底にあるのは、相手自身の優劣観ではなくて、自分自身のそれである。
 まさに投影。

 ところで英ちゃんの真意とは「人を殺すことで君が傷つくことになるからやめて欲しい」だとわたしは思うのだが、

 だからなぜここで「恵まれた才能」って言葉がぽっと出てくるのかは悩ましいところ。

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この広大無辺の宇宙に、同じものは二つとしていらない。

 hi、こんにちは。

 昨日書いたものがパソコンの不調から保存できず、すっかり消えてしまったのがショックだが、
 めっちゃいいこと書いたはずなのに!なら、
 もう一回めっちゃいいことを最初からさせてあげるよ!めっちゃ面白いミステリをもう一回何も知らなかったことにして読めるみたいなもんだよ、ラッキーだね!かも知れない(ありがたいのか、ありがたくないのか、マジ躊躇するところだが)と思ってみようか。

 最近ハマっているのは、ホ・オポノポノです。
 はい、昨日も確か書きましたがね。
〈記憶をデリート〉、これがツボる。ハマる。なんか素敵。
 100%自分に責任がありますという宣言は、以前にも書いたと思うが、
 これほど力強い宣言はないよな、とわたしはやや興奮気味に感じる。

 というわけで、続(わたしのなかで)・ホ・オポノポノ「豊かに成功するホ・オポノポノ」を読んでみた。
 いやもうデリートが頭から離れないのだが、
 巻末の韓国人女性の手記と、インタビュアー河合政実さんの障害をかかえた兄に関する手記が、いいね。
 あと、緑のカエデの葉と、ブルー・ソーラー・ウォーターと、アイスブルーもいいね。
 あ、あと、二度読んで二度とも笑ってしまったのが、
 感情をこめなくていいのですか?に対して、
 こめなくてかまいません、パソコンのデリートボタンを押すときに、泣きながら押したり、よし押すぞと力を込めたりしなくても、押すことによる結果は変わりません、押せばただ消えますよね、というのもいいね。

 毎秒1100万ビットもの情報が立ち上がっているが、あなたが拾えるのはたった15ビットである、というのもいいね。
 
 そのたった15ビットにしがみついている蚤なのだ、われわれ。
 この際われわれ、というのは、
 顕在意識やエゴと言い換えても構わない。
 
 昨日友人からも返信があったんだよ、そんでそのこともいっぱい書いたように思うんだよ、でも、まあいいや、
 林公一のQ&Aの秀逸な相談者【1560】についても、まあいいや。

 くだんの友人からよく、あなたは強いからって言われるんだよね。

 あなたは強いからいいけど、皆そんなに強くないんだからさって。
 これがわたしには違和感があって、
 自分ははたしていったい、「強い」んだろうか、と奇妙に思うのだ。
 自分を弱い、と思うこともないが、強い、と思うこともまたなく、
 いったいあなたの言う「強い」、が何をいわんとしているのか、ということが逆に不思議になる。
 いや、だいたいは予測できるんだけど、この、強い、というそれこそ頑強な表現による「何か」、をどう客観的に換言すればいいのか。
 わたしは自分を強いというよりも、明晰である(明晰でありたい)と感じている。
 と思ったことがあるのを、
 本を読んでいると、明晰性が大事なんだぜ、というくだりがあってふと思い出した。

 合理的であるってことは確かに便利なステップなんだよ。
 便利なステップであり手がかりである。
 合理的であるってことは、オプションとして実に優秀だと思う。
 オプション、あるいは機能あるいはアプリとして。
 超使えるアプリ!みたいなもんだ、合理的であるってことはね。

 他者の気持ちが百パーセントわかる、ということはありえないね。
 ありえたらそれはもはや、他者とは言えないじゃないか。
 この広大無辺の宇宙に、同じものは二ついらない。
 おんなじものは、二つたりとも、いらない。
 クローンなんて人間の馬鹿で不明瞭な思考が生み出した幻想にすぎないね。
 そんなものはそもそも存在しない。
 存在するとしたら、
 それは、もはや、クローンではないんだよ。
 
 あなたは、唯一無二の存在であり、存在しているからにはもう、存在していることを受け容れるしかないんだよ。
 

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悪も善もおのれの中にある。他者に問いただし、求めるべきものではない。

     〈1〉

 悪があり正義がある。
 あるとしよう。
 悪は駆逐されるべきである、それも、まあそうだとしよう。
 あなた、がそうしたいならそうすればいい。
 ところで悪とはどこにあるのか、誰がそうなのか、
 何をもって悪とするのだろうか。
 それらはすべて実のところ、あなた自身の中にある。
  
 あなたはあなた自身の中にある悪を退治したいと願い、それを実行する。
 ここに何ら不都合はない、
 少なくともそれこそ他者に迷惑はかけないであろう。
 あなたがひじょうに自律的で、高い理想があり、それに向けて邁進するとき、それを完全にあなた自身の内部によって行うならば、
 ともかく世界に及ぼす混乱はなく、害もない。
 世界はあなたが何を目指しているのかさえ知らないだろう。
 なにを変革したいのか、なにを撹乱したいのかさえ、知らない。
 そしてもう断言するなら、それでいいんだよ。
 あなたが悪と戦うと宣言する姿勢は、あなた自身の中に完全に囲いこめ、と思う。

 他者に託すな、転化するな。

 世界に、社会に悪いところがある、と感じるならあなた自身の中にそれと共感する部分が必ずある。

 やりきれない思い、これではいけないという募る思いがするときに、

 誰か悪者を見つけようとするな。

 悪を他者に投影するな。


 世界にはびこる悪と戦ってはいけない。
 それはただ不毛に終わるからだ。
 不毛であり終わりはない輪廻だからだ。
 メビウスの輪のように奇妙に捩れ、他者を騙し、肝心なことにはおのれを騙し、巧妙に閉ざされた輪の中でぐるぐると堂々巡りをするだけだ。
 他者に問うな、おのれに問え。
 他者を捉えようとするな、おのれを捉えよ。
 
 これは、わたしにとってモラルだ。
 モラル以外に何の拠るところがあるか、というようなことを言ったイタリアのモラリストがいたが、そういう意味ではとても共感できる。

 

    〈2〉

 主観・客観。
 客観というのは結局のところ想像の産物にすぎない。
 想像にすぎないのだが、想像の域を出ないものをいかに働かせるか、そこがある面、明暗を分かつ。
 なんとも曖昧で推測の域を出ない客観に比べて、主観は絶対的である。
 主観を信じよ、主観に集中せよと、わたしは言うが、
 この「信じる」というのがまた厄介だ。
 主観を信じよ、というよりも、主観を見極めよ、という感じだが、
 ここに重篤統合失調症のひとがいたとして、 
 主観を信じよ、ということをまったく真に受けると、それこそ。
 おのれが観たこと、おのれが感じたことがすべてである、という、
 うん、だから、その際「おのれ」とは何かということなんだけども。
 うん、いったい「おのれ」とは何であろうか。
 
 だいたい複合的というか、混乱があるというか、整理整頓はされていないというか、
 一言でいうなら、わっかりにくいんだよな。
 
 おのれを信じよ。
 このくらいわかりにくい表現はない。
 誤解され放題の表現はない。
 
 フランチェスコ・アルべローニに対するレビューに目を通すと、
 それで何が言いたいのかわからない、というものがあって、
 そうか、わからないか。
 そうか、伝わっていないらしいぜ、兄さん、という感じであって、
 いやお互い切磋琢磨だなあと思える。
 
 ところで、ホ・オポノポノが気になる。
 これは、そうだ、
 一言でいうのなら、「100%自分に責任がある」これに尽きるのだが、
 これをたとえば、「うつ病」の人が聞いたなら、
 まったく病状が悪化するであろうとしか確かに思えない。
うつ病」は脳の疾患であるということを、そうなのであるという見解を、ほんとうについ最近知った。
 言い換えれば、脳の疾患であることを裏付けるのに、脳に作用する薬を用いることで、その効果は確かに認められる、という実績がある。
 うん、じゃあもう脳の疾患でいいんじゃないでしょうか。
 とりあえず。
 治るものは治ればいい。
 それでも治らないものはあるけど、もう、治るものは治ればいいじゃんね。
 わたしたちは、「それでも治らないもの」を見極めたいだけなんだ。

他人を信用すること。ってなんだ?フランチェスコ・アルベローニって人、わたしはある意識において信用のおける考察をする人であると感じた。

 すごく端的に言うのなら、彼女の「不適合者」への厳しさは、そのまま己自身に対する、「不適合さを許さない」厳しさである。
 ここに破綻はなく、誠実な態度であるとさえ言える。
 
 たとえば、「嘘はいけない」「正直であらねばならない」と信じているとしたら、
 嘘を吐く人には嫌悪感と間違っている感を抱く。
 これはまったく不合理なこととはいえない。
 自分が律していることを他人もまた律するべきだ、と思う。
 自分はいいけど他人はダメってよりまったく誠意ある心情だと思う。
 
 不合理ではない、不誠実ではない、これが、問題だ。
 それは不合理ではないが、まるで現実的でもない。
 
「他人をほめる人、けなす人」(フランチェスコ・アルベローニ・著)(原題はオプティミスト楽天主義者)の最初の三分の一と最後の三分の一を読んだ、
 読んで、
 道徳の項で、
 他人のことには一切とやかく言わない、ただ己のみを見るという態度、というくだりがあった。
 これは、いや、そうだなと思う。
 わたしは他人を信用するってどういうこと?とふと思いついて友人にたずねることがあるのだが、
 そういうのはだいたい、信用していた他人に裏切られた、というような文脈においてだ。
 それは、あの舌鋒鋭きフランチェスコ・アルベローニのコラムを読んだ影響にてシャープに思うのだが、
「信用」とはあなたにとって単に自己採点甘き「期待」に過ぎないのではないか。
 単に期待にすぎないものを信用と呼ぶのはこれ如何に。と思うのだ。
 だとすればそれは、信用を裏切られた、のではなく己の淡く甘い勝手な期待を裏切られたのにすぎない。
 わたしはフランチェスコ・アルベローニを信用できる人だと思った。
 これはこの人には期待できる、という意味合いではない。
 この人の主張・感性にはわたし自身が共感できるところがあった、というほどの意味合いだ。
 
 そしてこの共感を「彼によって」裏切られるということはないのだ、
 共感をしたのはわたしであって彼ではないのだから。
 
 およそ他者の裏切りが許せない、という文脈には、
 なんか甘い、スイーーツなものを感じる。
 その際にわたしならば裏切らない、とでも付け加えようものならもっと厄介なことになる。
 そんなん知らんがな。「わたしならば」って、第一「わたし」って誰だよ。
 他者が裏切る。
 果たしてそんなことはありうるのだろうか。
 ありえないね。

  たとえば「捨て身」ってあるね、
 あれはわたしは美しいと感じる。
 これは、
 たとえば極端だが自殺する人が、自分が死ねば奴らも思い知るだろうという恨みや期待を賭けて死ぬ、とか、そういうことじゃない。
 極端には自分の生命を、他者から報われるべき期待なんかに賭けてはいけない。
 賭けるべきは、他者への期待なしに己のみが見る理想を信じきるというこの一点につきる。
 他者への期待はない、これが捨て身であるということだ。
 
 

 

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正常者とは、実は異常者より根が深い病に冒されているのではないだろうか、という疑念。

 わたしは「合理的」であることがとても好きだ。
 そして同時に、矛盾するようであるが、実は矛盾していないのだが、
 合理的でないこと、も好きだ。
 これは、
 あっちへいったりこっちへいったり、することによって、「それ」を高めていけるという、
 矛盾なき手段によっているという自覚がある。
 
 つまり「合理的」とは何か、を追求していくことに、
 反対の意であるように思える「非合理的」とはどういうことか、
 を追求することは、
 実際のところひじょうに役に立つってことが、
 あるのです。
 
 で、「それ」を高めていける、の「それ」とは何か、というと、
 ざっくりあっさり言うと、「人間というものへの理解そして共感」である。
 人間には、もちろん自己も含まれ、他者も含まれる。
 個人も含まれ、集合も含まれる。
 多数派も少数派も含まれる。
 健康なひとも病的な、病気の、人も含まれる。
 正常者も含まれ、異常者も含まれる。
 子供であれ大人であれ、男性であれ女性であれ、
 裕福であれ貧乏であれ、
 楽観的であれ悲観的であれ、
 もう要するに何であれ、
 差別することなく、「全体的」な地平に立ってみようじゃないか。
 例外を持ち出すことなくすべてを例だとしてみようじゃないか。

 というくらいの。
 
 合理的っていうのはその性質において、制限的であることを否めない。
 比して、非合理には制限がない。
 
 今日読んでいた記事で印象的だったものの一つに、
 相模原事件、
 よく知らないけど、じゃあまりになんだなと思ってちょっと調べてみると膨大であり、
 どこかを自分の視点によって切り取るほかはない、
 この切り取り方から、わたしの所感、わたしの主張の是非を問うてもらうしかない、
 という気がします。
 で、一部というか核心部と(わたしが)思われるところを切り取ると、
 この、戦後最大といわれる数の殺人をした人物は、
障がい者は世の中に貢献していないから死ぬべきだ」
 そして、
「誰かがやらねばならないのだから、嫌ではあるが自分がする」
 という思いに従って実行に及んだ。
 
 わたしは正義感というものに昔から疑念を抱いている。
 それは一見まともで、正しく、良きものに見える。
 ということがそもそも、禍々しいというと言い過ぎだが、胡散臭いというか、
 なんだろうな、
 それは自己正当化(自分は存在していい・自分は価値がある存在だ)を社会的良識から外れないように、細心の注意をはらってか、まったく杜撰かはともかく、バックアップしてもらっている(もらいたい)のにすぎないんじゃないの、というか。
 もっと簡潔に言えば、自己の主張を、自分以外のものに頼った結果に過ぎないんじゃないの、という思いを、疑念を、拭い去れない。
 (自分は存在してもいい・自分は価値がある存在だ。というのはわたしからすればまったくその通りであって、わざわざ他者の許可、承認はいらないものである、という前提であります)


 もう一気に結論するとこれら殺害へと至る動機は、「卑劣」だなと思う。
 未熟であるとも思う。
 責任転嫁ということも思い浮かぶ。
 
 ともかくこの事件について、どう思います?というような、対談形式の記事があって、
 こっちが本来取り上げたかったことだ、
 
 正常者とは、実は異常者より根が深い病を抱えているのではないか、
 という論旨について、
 ああ、すごいわかるな、と思ったってことだ。
 こういうことに共感や理解があることをして、わたしは、
 人類のほぼほぼは実は病に冒されているのではないか、と思うのだし、
 それを隠すために「こういうのが病気」という少数派を囲い込むのではないか、という気がするのだ。
 
 いやこれについては、軽々しく結論を出すことはできない。
 というか、別に結論などは必要ではない。

 詳しくはのちに取り上げる(と思う)。
 

わたしは家の戸締りをしたくないのですが。

 痛み、とか記憶、とか、 

 なんだろうかカルマとでもいえばいいのだろうか。
 
 痛んではいけないという法はない。
 この際、法というのは実際の法というニュアンスではなく、わたし自身が感じる、そうであってはいけないという謂れは何もないというほどの実感だ。
 
 友人からスピリチュアルな江原さんの悩み相談室みたいなものを立て続けに送られてきたのを読んで、
 わたしはこういうものより林公一の方が好きだなというか、面白いなというか、
 そう思った以上、というわけでもないが、ふとサイト上のQ&Aを読み返すうちに「虚言癖・嘘つきは病気か」という電子図書を知って、
 これは図書館で貸し出されていないので(たぶん)、購入して読んだ。
   
 嘘っていうのは、
 なんていうか、
 本当に面白い。これは不遜な意味合いではなくて、興味が尽きない、ここになんというか大袈裟だと思われるかもしれないが、世界の、少なくとも人間の謎というか、
 人間とは何かという洞察が多分に含まれていることは、わたしとすれば肯定する他はないという心情だ。
 平たく言えば、嘘って何だろうか、何のためにあるのだろうか、という全般に関して興味津々だということだ。
 

 たとえばですね、
 ってのは嘘とはまったく関連がないが、ふと連想したのは、
 わたしは家(一人暮らしであり、マンションではなく一軒家)を、開け放っている。
 正面玄関も、裏口も、まったく文字通り開け放っている。
 とはいえ、
 自分の生活する姿が一部始終よそから見えるほどではなく、
 軽く言ってしまえば、戸締りはしていないし、多少スライド扉に隙間がある、開き戸に隙間があるという程度だ。
 で、これを他人から、というよりも親しい人から心配されることがある。
 戸締りはちゃんとしなくちゃという類のものだ。
 これは実に一般的だし、彼らが口を揃えてそんなふうにわたしを心配するということは、まったく普通の心情であると思う。
 何なら幽霊が見えるという、ある面一般的かどうかでいえばどうだろうかという人にも心配されたことがある。
 開いているドアは、入ってもいいという許可を与えているようなものだと。
 許可とか与えるとかそういう、多少複雑な認識を経ていなかったとしても、
 ともかく入りやすいことに間違いはないから閉めておいた方がいいというような助言だった。
 
 わたしはですね、別に入りたいのだったら入ればいいと思うのだ。
 一応法的にわたしはこの家を所有、じゃないが借りているので、わたしの私有する領分ということに、
 なっているが、
 なってはいるがわたし自身はそれについて懐疑的であるというか、こだわりはないというか、
 この空間というものを切り取って、わたしのものである、わたしのテリトリーである、というようなことに関して、
 自信が持てないというようなことではなくて、
 むしろ、
 そんなふうに思うことに何のメリットがあるのか、何の必要性があるのかと感じている。
 たしかにここに家はあり、家を借りているのはわたしであり、
 ここは公道ではなく私有地であり、
 だから他人がおいそれと侵入してよいわけではない、これに関しては保護法というか、なんかしらんけどある、
 というようなことの認識もある、
 でも端的にいうと、それがどうしたんだという思いもどこかである。
 他人様が、国様が、法律が、そんなふうに決めているらしい、
 だからなんだ、というのは、


 わたしは他人の私有地とされているものへ、そんなものは空想の産物であり妄想の一面であるのにすぎないのだから、個人のしたいことを実行するのを妨げるべきではない当然の権利であるのだから、堂々とナチュラルに侵入し、そこに罪の意識とか迷惑をかけたとか、そんなふうに思う必要はないと思うんだぜ、というようなことではなくて、
 むしろ、そんなことはしないのですが、
 そんなふうな反抗性、あるいはナチュラルな自己本位性はないが、


 これが自分のもの、に関すると、
 つまり、他人のもの、にはある程度の(おそらく常識内の)配慮は払えても、
 自分のもの(を守る・ガードする)ということに関しては、
 他人からすると極端か過剰にゆるいというように思われてしまい、
 心配されてしまう、助言されてしまう、改善すべきであると諌められてしまう、ということがあり、
 おおむねわたしは聞かない(受け容れも反論もおよそしない)んだけど、
 こういう他人の反応とはいったい何なんだろうなと不思議に思う、ということがある。


 これでさ、ここからは妄想というか仮定の想像にすぎないが、
 ドアを開けっ放しで外出する、ドアを開けっ放しで寝ている、
 こういう光景を見るだけで自分(わたしからすれば他人)としてはストレスが半端ない、
 としてまあ仮にわたしが他者から訴えられたとして(現実にはほぼありえないが)、
 わたしにどうしようがあるだろうか。
 というか、
 わたしのどこに落ち度があろうか。
 とふと妄想してみるのである。
 いや、落ち度はないだろ。
 
 というこういう(自分としては)不思議全般が、
 他者とは何ぞや、
 自己とは何ぞや、
 という尽きない興味に発展しているのだろうと思う。
 
 そしてふと、
 こういうのも発達障害って言えるんだろうかと想像してみるのだ。
 他者のあたりまえとも言える心配を、心配しすぎだと退けてしまえるわたしは、
 もしかすると、
 おかしいのかしら?と疑ってみないでもない。
 
 いやおかしくないと自分では思っているが、おかしいのかもしれない。
 と一応言いつつ、戻ると、
 あなた(わたし)が家を平気で施錠していないことを明らか(ドアが実際に開いている、中が多少見える)にしているのを見るとそれだけで不安でたまらなくなる、
 心配でたまらなくなる、
 この心配や不安を与えたのはあなた(わたし)である。
 よってあなた(わたし)に責任を取ってもらいたい、
 
 鍵は必ずかけて出かけてもらいたい、あるいは、
 まあ、これ(心的苦労に関する損害賠償的なことを思ったが、まあありえないしこの際わたしが言及したいことからは遠のくから)、はいいか、
 少なくとも鍵は必ずかけて出かけてもらいたい、という「仮にある要求」に対してわたしは、応える必要があるだろうか。
 ないよね。
 いやもう、ないよね。
 
 あるとすれば、わたしが、
 その人自身が蒙っていると主張する苦痛の内容に関して、自分が改善することによって苦痛を取り除くことが出来るならばそうしたい、という、わたしによる自主的な衝動なしには、
 それがないことには、
 まったく他人の訴える苦痛に関して、自分が一方的に言い分を呑んで答えるという構図にしか思えず、こうなれば今度はわたし自身が苦痛を抱えるという結果に、なってしまうではないか、というように感じられるのだ。
 
 ここで強調したいのは、
 わたしは他者の心配というものに関して、
 すべて応えるのは悪であるとか、害であるとか、そんな主張をしたいわけではない。
 普通の、人の心理として、
 心配をかけちゃ申し訳ないなというような、そういう心情はごくまっとうであり、もっともだと思っているのです。
 まぎれもなく、一般的であると思う。

 

 ここでふと方向を転換すると、
 そもそもなぜわたしが家に施錠しないか、ドアを半分開けておくかというと、
 それが世間一般では非常識であるということは十分認識している上で、
 もう、そうしたいからだという他はない。
 わたしはドアを開けておきたい。
 閉めることに恐怖まではないが、どっちかっていうと、開けておきたい。
 この性情、この希望、この、なんだろうな個人的な事情、個人的な欲求に関して、
 
 いったい誰に迷惑をかけているだろうかということが、
 本当に理解できないんだな。
 
 実際、
 実際には誰も迷惑を蒙っているなどと訴えてくることはないのだが、
 なんとはなし、わたしは気になってしまったりするんだよね。
 というのは、
 わたしの高齢の祖母が家の戸締りはちゃんとしているか、と確認してくることがある(彼女はわたしが常日頃から家に施錠していないらしいということを知っている)。
 わたしは、この祖母の不安を解消するためだけに、
 余計な心配はかけないほうがいいという判断のために、
 うん、ちゃんとしているよ、と答えるのが妥当というか波風が立たないというか、別にここで事実と異なることをわたしの口から保証したところで、
 なんの実害があるだろうかと思えば、
 事実と異なることを口にすることに本来躊躇いはない。
 
 でも、なんか、不思議というか、
 何なんだろうなという、
 個人的な不思議さを感じざるをえない。
 つまり、ちゃんと戸締りをしているか?に対して、うんしているよ、は明らかに嘘っちゃ嘘だが、
 ああ、嘘って、何だろうと思うのだ。

 

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お休みだから長々と「他者が存在する」とはどういうことかについて、書いてみました。

 わたしに足りないのは恐れかもしれない。

 わたしが愛するものは詩だ。
 踊り。
 いのちの舞、煌き。

 さ、表現してみなよ。表現、それこそは、
 それこそが。
 表現することが。
 こういったのは、わたしの記憶では、ロートレックだ。
 
 いま生きているということが奇跡のように思う。

 瞑想を本当に、避けてきたけれど、してみようかなあとおもう。
 
 子供は軽い、身軽で羽が生えているようだ。
 動物でさえそうだ。
 仔とつくものの軽やかな動き。
 リズム。
 思い出すのは、大きくなりたくないという子供の頃にすでにあった思いだ 。

 思いは重い。
 思いは重いんだなあ。

 雨雲の上は晴れている。
 明けない夜はない。
 わたしはこのことに関して感謝しかなく、
 喜び、嬉しさのほかはなく、
 明けない夜について延々と嘆いている暇がない。
 暇がないはずだけど、
 明けない夜、闇、これへの魅力、効しがたいこのあえて言うならば美しさ 、なつかしさ、なまぬるさ、
 かつての知己への親しみ。
 
 わかる。
 
 わかるわかるわかる、でも、
 そこじゃない。

 わたしは軽々として羽でも生えて、いきたいところへいきたい。
 いっそ、それ以外の何に価値があるのだろうとさえおもう。

 自分が実現したいこと、それ以外に何の価値があるだろうか。


オスカー・ワイルドがいった、
 ターナーが描くまでロンドンに霧はなかったと。」
 と、わたしが好きなイブサンローランの映画で、彼の伴侶が言っていた。

 (アマゾンプライムビデオで観れるよ)


 人間として生まれるのはたいへんなことだ、
 と一方のわたしがいう、
 もう一方のわたしは、そんなことないぜっていう。
 
 どちらの側面を見るのかってことなんだな。
 結局。

 そのときの気分とか、いやまあもう気分だな、気分によって、
 自分がどちらの側面を「見る」のか、「見たい」のか、
 決まってしまう。
 
 うちの可愛い猫ちゃんと接していてふと思った、
 人間として生まれるのはたいへんなことだ。
 たいへん、それだけじゃわからないよね。
 たいへん素晴らしいとも、たいへん困難だとも。
 どちらの意味を含めてもたいへん。
 たいへん、だけじゃわからない。

 どちらの意味を含めてもたいへんであり、
 わたしはそれらをとても貴重なとても愛すべきとても奇跡のようなことだと思っている。
 本当かしらと疑いたくなるほど美しいものと感じている。
 言葉はたまにばかみたいになる。
 この本質を言い表すことはとてもできない。
 
 他人っていうのは、それがどんなに悪人であれ善人であれ、醜かれ美しかれ、好ましかれ、そうでなかれ、自分の側面の一つにすぎない。

 他人は存在する。
 それは、他人は(決定的な)悪人(もしくは善人)として存在する、という意味かもしれない、でもそんなことはありえないと思うんだ。
 どんなひとにも色んな側面がある、ということではなく、
 それはもちろんそうだけど、
 そういう意味ではなくて、
 自分が投影した結果として他人を知覚するんだと思う。
 自分の気分によっては、彼は良い人だとなったり、そうでもないかもしれないと思ったりする。
 そういう意味で結局自分なんだよと思うの。
 それをあの人は自分に見せる姿をコロコロ変える、不誠実な人だ、とかいうのはまるでナンセンスだと思うわけ。
 
 わたしは完全にわたしのものであり、
 あなたは完全にあなたのものである、
 という、このことが喩えようもなく素晴らしい。
 
 やさしさは素晴らしい。
 泣ける。
 でもやさしさにさえ、少なくとも二つの側面がある。
 こうした矛盾を乗り越えて自分がある。
 何かを完全に白ということはできないし、また、そうすることに意味がある、価値がある、とはわたしはとうてい思えない。

 この多様性の海を統一すること、とオーロビンドは言った。

 わたしたちは個人であるが、そもそもそうではない。
 この「そもそも」を思い出すことだ。
 わたしは完全にわたしのものであり、
 あなたは完全にあなたのものであるが、
 わたしもあなたも根は一つだということを。

 わたしたちは何も本当は分断されていはいないのだということを。

    *

 人は、ほんとうに孤独なものだ。
 色んな表現がなされる。
 色んな価値観が提示される。
 これもそれのうちの一つにすぎない。
 この世に実在する、それが何であれ何か、を言い切るということは出来ない。
 これは一つの提言であり喩えであり、何か結論を導き出すための素材に過ぎない。
「人は孤独だ」
 これは素材だ。
 素材、モチーフに対して、そんなことないよっていうのは、野暮の極みであると言わざるを得ない。
 長々と前置きしたが、
 人は孤独である、というモチーフに関して思うことは、
 人は自分が孤独であるということを痛感するにつれ、孤独であると感じるにつれ、その思いに比例して、孤独でなさをもまた感じることが出来るのである。

 話の腰を折らないでねってことだよつまりは。
 それにまた、ここがもっとも肝心だが、
 人に自分の話の腰を折らせるような話し方はすべきではないということだね。

 人が人を求めるその心、その姿勢、その望み、
 わたし自身は恋愛に関して野暮であるよりないが、
 それにもかかわらず、恋愛物語を観て感動することは可能だ。
 ストーカーの愛は愛ではないのだろうか。
 たとえば極端な話、結婚している関係にしか愛はないか、といえばそんなことはもちろんないだろうと、わたしは思います。
 でも、それこそ大真面目に、いや、結婚している関係にしか愛は存在しないと真剣に、真摯に、信じている人、信じたい人が、いるんだな。
 おそらくその人には否定したい事柄が先行してあるのだ。
 不倫はよくないとかね。
 ストーカーの愛は愛ではないか、と尋ねられたら、それも愛でしょうねとわたしは思う。
 というのは愛でないものは存在しないから。
 ただその愛は未熟であるとは思う。

 他人を知ることは自分を知ること、
 自分を知ることは他人を知ることだ。
 そこは相互に関係しているし、関心の強さは比例する、つまり、
 自分にしか興味がない、とかいうのはまったくわたしとしてはありえない、もし本当にそうだとするなら、
 それは自分にしか興味がないというよりも、自分自身にさえ興味がないというべきだ。
 
 そして、自分自身にさえ興味がない、という状態は実際ありふれた光景に思える。
 自分自身を知ることはそっちのけで他人にばかり興味を示す人というのは 、世界に関心を持っているようでいてまったくそうじゃない。
 世界に関心を持つということは、自分自身に関心を持つことを通じてしか実行不可能だと思う。
 世界のこと、世間のこと、つまりは自分の外側に起きること、
 これに通じて満足し自分自身を顧みることがないとすれば、
 成長はないといわざるをえない。
 真に世間を知覚するということは、自分自身を知覚することと密接な関係がある。
 世間・他者を追うばかりで自分の内側への関心がない、
 これはまるでストーカーのようだ。
 他者は彼の中で完全に自分とは関わりなき他者として存在している。
 自分とは相交わらぬ他者、自分とは完全に切り離された他者。
 わたしが思うにそんな対象は存在しない。
 わたしが、「他者はいない」というのはそういう意味においてだ。
 そういう文脈において、
 他者は存在する、という断言は、即ち(翻って)自分は存在しない、というのにも等しいと思うがこれはわかりにくいかな。
 自分が存在しているから他者は存在しているのであって、
 他者が存在しているから自分が存在しているわけではない。
 もちろん、こんなことは仮定の話だけどもし、世界に自分一人、他の人間はいないどころか、動物もいない、植物もいない、なにもいない、
 とすれば、そもそも「自分」というものを意識することもない。ただ、不可能だ。
 世界は光か闇か知らないが、いずれをイメージするのであれ、それはどちらか一つしかない世界であり、
 そうだとすれば、光を光、あるいは闇を闇と認識することも不可能だ。
 光が光たりうるのは闇があってこそだ。

 この説明がなぜこうも困難なのか不思議だ。
 アインシュタインとインドの哲学者の対談を必ず思い出すんだ。
 あなたが見るから月はそこにある、と言われて、いやいやわたしが見ていないときだって月はそこにある、とアインシュタインは言う。
 これについて宇宙人は、バシャールだったかと思うが、
 もしかするとそのインドの哲学者本人だったかもしれないが、
 仮にあなたが月を意識していなくても、他の誰かは意識しているのだと説明する。
 これはどういうことだろうか。
 
 あなたが認識するからそこにそのものは存在するというのは、
 哲学入門(飲茶・著)でも取り上げていた。
 りんごがそこにあるのは、あなたがそれをりんごだと認識するからで、
 りんごがそこにあるから、あなたはそれをりんごだと思うわけじゃないと。
 つまりそれは、りんごとはそもそも何ぞや、という話なんだけども。
 
 幽霊が見えないのは、幽霊に遭遇したことがないからなのかそれとも、「見えない体質」だからなのかと。
 
 結局それがあるか、ないか、
 というのは、あると思えばあり、ないと思えばない、というより、
 他に言いようはないというようなことだと、わたしは思う。
 りんごをたとえば梨(りんご以外の何か)と区別できる認識があってはじめて、りんごがりんごとして自分の中に立ち上がってくるわけで、
 これの逆は不可能だと思う。
 
 あなたが認識するから「他者」は存在するわけで、
「他者」がそこにいるから、というのは、後付というか、
 そうじゃない、逆だと思うんだよ、
 
 なんでここに勘違いが起こるんだろうと思うと興味が尽きない。
 それは、勘違いだ、とわたしは思っている。確信している。
 とはいえこのことを他人に説得しうる自信はない。
 
 ひとつ、他人は存在しないと認識することのメリットをあげれば、
 そうなれば人を殺したいとか、
 戦争が正義だとか、
 思う人間はいなくなるであろうという点だ。
 それは、そうしてはいけないから、というタブーの意識からそれを自制す
るようになるだろう、ということではなく、
 ただ単に不合理であるとしか思えないから、必要がないからしない、とい
うことに落ち着くだろうと思う。

 

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