自分を騙す者は自分だけ。
半覚醒のときのあれ、
あれは、本当になんであんなに明晰なんだろ。
なんで、というのもおかしいが。
反重力を成立させるためには折り返しの0を見極める、
それが0の地点をはっきりと認識する、意識する、いわば目に見えるように、
指摘する、必要がある。
そのためにはたしかに「賢さ」がいる。
それを「賢さ」と呼ぶ。
あれが誰の逸話だったのか、思い出せない。
檻の中の虎を懐かせたひとの話だ。
それは単に可能だ、
わたしはそうでありたいと思った。
それは可能な何かだ、わたしはそれを可能にする者だ。
慈悲がそれを可能にする。
慈悲とは、恐れのなさだ。
わたしのもどかしさ、
なぜこんなことも見えない、というそれ、
そんなん、作り話やって、と払いのけてしまうその雑な手、
まるで賢ぶる愚かさ、
わたしは相手の愚かさを感じ、たしかに動揺してしまうんだ。
あのぼろぼろの鞄のくだりで、
わたしはふと思い出して、かつてわたしの机がいかに雑然としていたか、
でも何がどこにあるのかはわかっていた、本当にわかっていた、
このカオス、この雑然たるものを雑然とさせたまま自分が統べている、こんな感覚を味わっていたんだと思う。
大人になり、きちんと片付けられた部屋をふと見渡し、
なんて詰まらないものになったんだろう、という感慨がわいたことがある、
そんな話をする。
なんて詰まらない、
でも、戻らない。
そこは戻せない、戻ろうという気にならない、と思った、という話を。
慈悲は憐みに似ている。
似ているが、違う。
わたしはそのどちらも知っている、知っているからわかる、
それは違う何かだということが。
おまえのような地を這う虫が、と言ってのけるような、
あんな鼻面を叩いてしまうわたしは、遊んでいる、
遊んでいる、
でもどこかたしかに、焦燥がある。
それを踏み台にしてでも伸び上がりたい気持ちを持っている。
それの愚をどこかわかりながら、
-3に+5なら、+2にはなる、ということもまたわかっている。
なんて詰まらない、わたしは微笑している、
そこは戻らない、戻せない、
それは単に回顧的な感慨にすぎない。
掛け算を理解したときに、掛け算を知らない状態には戻れないんだ、
一度自転車に乗れるようになれば、自転車に乗れない状態には戻れないのと同じだ。
片付けもそれに似て、
おそらくこれが、ひとに言われて納得しないまま、それがいいんだと信じて、やってみてその良さが腑に落ちないまま、無理にその状態を保っている、
こんなことならいずれ崩壊する。
それは元に戻ってしまう。
そんなようなところがある。
社会はどうあれ、生きるということは採点方式ではない。
こうすれば、誰かから点をもらえる、
そんなことではない、
自分の腑に落としていかなければ先へは行けない。
自分の腑に落とす、といういわば目には見えない何かが、自分を否応もなく先へと押し出す、
そんなようなところがある。
誰がその成長を認めなくても、自分では確とわかっている、そんなことが、
まだ見ぬその先へと自分を連れて行く、
そうでしかない。
あるいはまた、
ダウンロードを受け容れる素直さ、
我の汚れのなさ、
こんなこともまた、次には可能になる。
ともかく我を使いこなさなきゃ、何の何でもないところがある。
この二元性を超えなければ、というのも、よくわかる。
この二元性と我は実によく似た、
なんていうか、システム。
賢さとは慈悲を言い換えたものだ。
レタスを食べる自分も、食べられるレタスも自分、そんな感覚はわかる、あなたはわかる?と聞くと、
わからない、むしろ、
あなたはなぜわかるのか、と聞かれたことがある。
なぜわかるかって、それは、
その道を通り抜けてきたからだ、としか言いようのないところがある。
わたしはその道を追体験してきた。
書物はたしかに道を照らしてくれる。
でもそこを実際に通るのは自分だ。
いくら本を読んでも、それが字の羅列にすぎないものなら、
それの音読はできる、というようなものにすぎないのなら、
自分の中で再構築され得ないものにとどめておくのなら、
何のなんでもない。
他者が存在する、という幻影に惑わされて自分の内面を照らさないものなら、
同じことだ。
自分を騙す者は自分だけだ。
他者を裁くたびに、あなたは罪悪感を募らせ、報復に怯えることになる、
というのは本当だ。
実際のところあなたは、あなた自身を裁いている。
そうして限界を設け、自分が自分を先へと進ませないところがある。
自分を限定し、もっと広い世界、もっと明るい世界を見ないように閉じ込めている、
それだけなところがある。
自分の邪魔をできるのは自分だけ。
実際のところ、ダウンロードを受け容れている者はわたしだ、
わたしは、
すべての体験を書物を読むように体験している。
自分の身に起きた出来事と、書物で展開されている出来事は、
同じものだという目線で生きている。
そこに違いはない、と思っている。
実際に自分の身に起きた出来事をまるで、書物で読んでかれらの経験を追体験するように、感じ取っている。
そこに悲哀はあり、憤懣はあり、攻撃もある、
絶望もあれば、希望もある。
それはただ、ある。
それをないものだとは言わない。
それはきっとある。
自分がまさに体験しようが、書物のなかの、
いわば、わたしの隣人が体験しようが、
入り込めば同じことだ、と思っている。
自分を守るようには、ひとを守れない。
自分を攻撃するようには、ひとを攻撃できない。
かれら、ひとの上に立つ全知全能の神になりたいかのようだ、
そんなことは無理だってわたしは笑う。
あなたはあなたの上に立つ、そんなことしかできない。
そして、そうしかできない、ということの余りある恩寵をまだ知らないでいる、
それだけだ。
自分はひとの鏡になる、と言ったひとがいる、
相手が善いひとならば自分は善いひとに、相手が悪ければ自分もまた悪いひとに、という、
まさに大いなる勘違いだ、
ひとが自分の鏡なんだ、そこを決して間違えるな。
おまえは生きた何かであって、鏡、そんなものではない。
エゴくらい、いるだろ、あたりまえに。
自分とはもはや、ハンドルを手放した、臨在するものなんです、ということほど、
馬鹿げた何かはない。
まだいるよ、おまえ。
そこにいる。
まだ知覚できる者として、そこにいる。