死がふたりを分かつまで、共にいる。
わたしは自分を愛します、と言ったら心がじんわり暖かくなるのを感じるでしょう、とバーソロミューが言っていたのを、朝、起きて、思い出す。
朝、起きて。
朝、起きる、こんな奇蹟。
あなたはそれを知る由もない、
なぜなら、わたしもまたそれを知らないからだ。
明け渡し、という言葉が繰り返し迫ってくる。
そう、そんなような何かだ。
わたしは、誰にも自分を明け渡したことがない。
本当は誰だってそう、
多くの人にはそうしたところがある。
伴侶、親、子ども、恋人に自分を明け渡している、つまり、
愛している、
と言い、そう信じているかのようにふるまう。
それはもう、そう信じている、と言ってもいい。
でもこんなことはどこか不自然な何かにすぎない。
わたしは誰にも自分を明け渡す必要がない、むしろそんなことはあらかじめ不可能だと、感じ続けていた。
そのエゴに、このエゴは、どうしたって嵌らない、そんな何かを、
その嵌らなさゆえに、気づきたくてならないものがあった。
あったんだ、と知る。
自分のもの、というのが幻想だとしか思えなかった。
そこに詰まるものがあった。
そこにまだ均せないものがあった。
お金で解決できると思っていたら、わたしはお金を全部流しに流してしまう、
そんなところがあった。
物など持たない方がいい、
相手が自分には使えないものを、これいる?と持ってきたら、捨てたいんだなと了解して、受け取って家に帰って捨ててしまう、
それが親切だと信じている。
いらないんだろ、そんなもの。
あなたは「まだ使える」それを捨てるに捨てられないんだろ。
わたしもいらない、
わたしが受け取って捨ててあげる。
お金持ちが針の穴を通るのは、というくだりに納得している。
だから、わたしは、持つ者でありたいんだ。
なにか災害があって、家も何もかも流されたようなときに、
普段から物が少ない生活をしていてよかった、失ったものはたかが知れている、と安心するようなら、
物を持たない生活をする、何の意味もない。
あなたはまだ失うことを恐れている。
失うことを恐れて物を減らしているのなら、物に囲まれない価値を享受しているとは言いがたいところがある。
失うことを恐れる、
こんなことがあらかじめ不可能な何かなのだと知らないでいる。
失うことを恐れる、
それはまるで、
いずれ死ぬのなら生まれてこない方がよかった、というような何かだ。
執着からではなく物を持つ。
失ってはならないものなんてない。
それは失いようがない。
執着に執着を重ねて、これが生だと迫ってくる者に、
わたしはどこか恐れをなしていた。
そんなものが生などではないことを、わたしは知っている。
わたしは、ただ、知っているだけだった。
知っていて、相手を説得できない、する必要性も感じない、ただ、
たじろぐ思いで相手を眺めているだけ。
相手を殺すことをまだ躊躇っているだけ。
目を見ない、
目を見たら相手を消滅させてしまう。
相手を殺してしまう。
だから、目を見ない。
見るとすれば、どこか煙らせたような目、見ていながら見ない、相手を殺さないと決めた、そんなような目でしか、見ない。
あの死ぬ直前のようなとき、わたしは相手の目を見た。
目が違うね、とわたしは言った。
もう、目が違う。
殺気立ったような、剥き出しになったような目、
わたしはその目を見た。
わたしが見ようが見まいがおそらくまもなく死ぬ、
死にたくないと言いながら、もう死を知っているような目を、
それならばもう憚るところは何もないと思えて、目を見た。
殺すまでもなく死にゆくものの目。
どこか獰猛なその目を。
憚るところは何もない、いや、嘘だ、わたしはやっぱり殺さないと決めて見ている。
わたしは相手の、わたしを殺しそうな目をただ受け止めているだけだ。
もう死を知っているのに、まだ殺せない、
死ぬに任せて、殺せない。
執着に執着を重ねた目、
わたしは殺して構わないんだ。
相手の恐れとは、自分の恐れに他ならない。
わたしは、それを相手のものとしないで、もう自分のものにして、消滅させてしまって構わないのに。
それは自分のものだ。
相手のものだと思うから手を下せない。
この大いなる勘違い、
こんな途方もない勘違いをひとは愛と呼んで憚らない。
愛、あるいは恐れ。
愛とは恐れ、愛が恐れにすぎないような、途轍もなく変容してしまったそれ。
わたしは自分を愛します、というとまだハートが暖かくなる。
わたしはかれを愛するのではなく、自分を愛する必要があることに気づいている。
かれに働きかけるのではなく、自分に働きかける余地がまだあることに、気づかざるを得ない。
わたしは待っているんだ、
それが満ちて、溢れ出すのを、待っている。
すべてに気づく自分を待っている。
わたしはわたしを好きなひとが好きなんだ、とよく言っていた。
わたしを見もしないような、そんな畑違いみたいなものを、そんなどこか迂遠で、
どこか画然たる他人らしさを備えたようなものを、指名する、まさか、
まだ山も登れないのに山を飛び越えると宣言するような大変な労苦を、
わたしは好まない。
あなたが仕事をはじめるのなら、あなたの得意なこと、好きなことがいいでしょう、
という助言がいかにももっともだ、と感じるように、
わたしはわたしを好きなひとが好き、そう躊躇いなく言える。
砂漠の真ん中で商売をはじめるような、
そんな無謀をわたしは好まない。
画然たる他人らしさを備えたものでは、自分が自分自身に気づくことを困難にさせる。
あまりにも自分と違うような何かでは、
自分にまるで似ていないようなものでは、簡単に他人そのものだと得心してしまえるところがある。
それを他人だと安らかに認めているかぎり、
わたしがわたし自身に気づく、そんなことを困難にさせうる何かでしかない。
わたしが、わたしを、気づかないでいられる、そんなものでは。
わたしは手近なところからはじめたい。
裏山に花を植えるより、自分の庭に花を植えたい。
自分が自分に気づきたいし、まさに、そうでなければすべては、
要するにいつまでたっても変わりないものがある。
いつまでたっても始まらないようなものでしかない。
流しをきれいにしているひとに、家でも?と聞くと、家でなんか、
お金にもならない、
仕事でもない、
なぜ家でまで、
という。
いや、実に何か勿体ないにすぎないところがある。
つまり、仕事だからやっている、
本当はしたいことではないがやっている、
したくもないことをやっているんだ。
したくもないことをやっている、こんな愚にいつまでも絡めとられているのは本当に勿体ない。
もったいないから、まだ使えるからと合成革の剥げ切った鞄を捨てない、
それは七年間自分と共にいた、愛着もある、まだ使える。
もったいないのは本当はあなたのそんな在り方そのものだ。
まだ使える、どこか傲慢だ。
まだ使える、そんな理由がどこか、
それだけのもの、使えるもの、間に合わせのものが自分に相応しいと宣言しているような言動、それが傲慢さだ、
自分は最高だから最高のものを持つ、と言えないことがむしろ、傲慢さだ。
やっぱりエゴに気づく必要がある。
エゴに気づいていないと、簡単にこの捩れに絡めとられて、
ひたすらあべこべの世界に同意し続けるしかないところがある。
わたしは砂漠の真ん中で商売をはじめる者だ。
わたしは困難の多い方を選ぶ。
でも本当にこんな現実で商売をはじめるのなら、砂漠の真ん中ではしない。
わたしがしているのは、いわば、
なにもない砂漠の真ん中に座って瞑想しているようなことだ。
いざ商売をはじめるとなったら、もちろんひとに溢れた街でやる。
実際的なことの困難は選ばない。
実際的ではない、いわば形もないような何かなら、わたしは宇宙の果てまでも出かけていく。
実際的なことの困難は選ばない。
わたしは小銭だから賭けている。
勝とうが負けようが痛手はない、そんなものを賭けて、遊んでいた。
どうせ本気じゃない。
どうせ全力じゃない。
小手先の何かにすぎない。
わたしは誰にも自分を明け渡したりしない。
どう見たって自分のようではない、そんな相手ばかりを相手にして、なぜこんなことがわからないのかと、悲しくなったり、苛立ったりなどしていた。
そして、そんなことをもうやめている。
こんなことは言葉にして確認しないだけふと不思議になるが、
何度でもあるし、むしろ常にそうでしかないような何かだ。
思えばこんなことに夢中になる。
わたしは、
わたしを好きじゃない、という人間など、どこの何も信用できないところがある、としか思っていない。
それは知っているからだ、
簡単な原理原則をただ知っているから、
ということでもある。
わたしはわたしの根本が愛に他ならないことを知っているし、感じている。
わたしはわたしの中を大いに占めるものが慈悲に他ならないってことを知っている。
感じている。
なぜわたしのような慈悲の気持ちを感じられないんだ、感じさえしたらわかる、それだけなのに、と不思議がっているんだ。
その不思議さにまだ幻惑されている。
その執着の後ろ側にあるものは何なんだと、見抜くことが自分を見抜く、そんな恐れだけを恐れとして。
優しさが中途半端なそれをまだ残して、まだ食べずに、まだ。
わたしはどこか、ひどく横着ではないところがあって、
自分に厳しく、自分を見抜くところがあって、
自分を守るようにはひとを守れないんだ。
完全に明け渡さないものがある状態で、愛を外に出すことをどうしたって躊躇う。
そんな横着はただ、できない。
条件付きの愛、そんなものでかれを汚すことはできない。
それは汚すことだ、と恐れている。
自分がすることを恐れているんだ。
相手を見るような愚はやめなければならない。
つまり相手次第にするような横着さとはどこかで決別しなければならない。
自分が自分を認め、受け容れ、愛する、自分が自分と共にいる、
完全に共にいる、
そうでなければ、他の誰と一緒にいることなどできるだろう。
できないね。
わたしにはできない、そのことだけがわかる。
背骨を折った顛末を、
あれはよかった、と思えるんだ、と言うと、
もっと大怪我じゃなくてよかった?ということ?
いや、そうじゃない。
そうじゃない、なんといえばいいのか、
もっと大怪我じゃなくてよかった、というのなら、それはまるで、
物を持たない暮らしをしていたお陰で、災害ですべて流されたときに、失うものが少なく済んでよかった、
というようなものと変わりない。
そうじゃない。
これを経験できてよかった、というような思いだ。
この災難を経験できる自分でよかった、という思いだ。
この災難はもはや災難ではなく恩寵のような何かだと、思える、それをそうと思うには自分というフレームが不可欠だ、
わたしはそのフレームについてむしろ感謝しているんだ。
事故そのものに感謝しているというよりも、それをどう捉えるかを任されている自己を感じて、嬉しくなっていた、
それだけだ。
こんな遊び。
わたしは鹿のように臆病になり、鹿の角のように頑なになり、
光が溢れ出すその瞬間を、他のことに作用させて、見つめている。
こんなことが何になる、とふと思う。
いや、こんなことが何の何にでもなるんだ、と思っている。
こんなことでさえ、何の何にでもなる。
どのみちわたしの意識はそこへしか向いていない。
そうだとすれば、すべてが、それを指し示すものに他ならない。
すべてがそうであるところのものへ帰結する、
そうでしかない。
あれでは無理、これでも無理だ、
それでも無理。
なぜ彼らを自分と同じようなものだと思うのか、
そんなわけないんだ、
あなたはわたしに世界一、もっと自負した方がいい、そう言った。
それはまったくのところ、あなたがあなたに冠する称賛に他ならない。
ほかの者を頼るようなものが、どうして世界一だ。
そこはもういらないんだ、
そこはもういらない遠慮だ。
あなたと、あなたではないものは、違う何かなんだ。
それは同じではない。
それは、同じではない、
同じではない、
それでいいんだ、それがいいんだ。
恐れることなく踏みしめるがいい。
かれらは踏みしめられることを同意してきた何かにすぎない、
そこに何ら遜色はないことを、受け容れなくてはならないんだ、あなたが。
踏みしめる者も踏みしめられる者も、等しく同じ何かだ、ということを。
わたしは、そばにいる。
死がふたりを分かつまで、共にいる。
何が死と呼ぶに値するに相応しいか、そんなことは依然わからないまま。