賭けずにいることは不可能だ。

 この順序に逆はない。
 ということがある。

 わたしは目覚めたことのない人間なんていないだろう、と思っている。
 目覚めるとは要するに自己のふるまいに意識的な何かであり、
 まったく無意識に生きている人間、
 そんなものはいない。

 これはどこかしら皆自閉症、皆発達障害、皆統合失調症
 程度差にすぎない、境界線はない、と感じるのに等しいような感覚。
 慈悲があれば、あるいはユーモアがあれば意思の疎通ははかれるはずだ、という気持ち。
 
 感じ、も大事かもしれないが、
 あるいは第六感的な何か、
 閃きのような何か、
 それはどこか不可欠なものかもしれないが、
 わたしは、理詰めでも悟れるだろうと思っている。
 ワープじゃなくて、飛躍じゃなくて、そこに一段一段橋を渡すことは、

 不可能なんかじゃない、

 不可能だなんていったい誰が決めた、
 わたしは決めていない、
 という思いがある。

 悟りについて、それがあれば自分は救われる、というような捉え方では無理、 
 というのはよくわかる。

 劇的に何かが一変して、
 たとえば宝くじに当たって一夜で億万長者的な何か、 
 たしかにそういうことではない。
 ある日突然白馬の王子様が的なものではない、
 
 何がどうなっているのかわからないがともかく自分は救われた、ものすごいラッキーが自分の身に降りかかってきた、
 そんなようなものではない。

 悟り/覚醒とは、そんなものではない。

 何がどうなっているのか自分でわかっていないのなら、
 何の何でもないではないか。

 不幸な道程の終点だけは幸福、こんなことはありえない、というのが近い、同じだ。

 それが自己を行き過ぎるものに、意識的であれ、意図的であれ、ということであり、
 まずは知識としてでいいから、感情とは何か、思考とは何か、ということを知ればいいと思う。
 まずは知識としてでいいから、自己とは、エゴとは、ということを学べばいいと思う。

 そして、1+2+3=6が何を言っているのかわからないけど、 
 1+2+3=5でもいいんじゃないの、というような横着には陥らないことだ。
 答えらしい答えに飛びつくのではなく、わからないことはわからないで済ませる、真摯さがいる。
 わからないことをわからない、と率直に認めるのは何の横着でもない。
 ただし、わかるわけがないだろ、と攻撃的になる必要はない。
 わからない自分が情けないとか、どこか、卑下しているのだか自分を何様だと思っている傲慢さなのかわからないような態度を取る、そんな必要もない。

 わたしは、1+2+3=6だろ、というと、
 それは2+2+2=6でも同じだよね、と返してくれるような相手を求めていた。

 エゴにはたしかに、わからないものをわからないということを、意地でも認めず、死んでも嫌と言いたがるところがあって、  
 その場しのぎでも何でも、わかっているふりでも通ればそれでよしとするような、
 おまえ、それは何の行き腰なの、と呆れて突っ込みたくなるような、
 そうしたところがあり、

 わたしはただ呆気に取られて眺めているだけだった、
 何をどう切り込んでいいのかわからずに、
 下手に関わるくらいなら、相手が気づいていないのなら、自分の存在を主張する必要も何もないと思って、
 ただ眺めていた。

 何がそうさせるのか、わかるようでわからない。
 ひとの意図を掴みかねて、
 掴めない以上、わたしには何の衝動もなくただ、眺めているだけ。

 1+2+3=6ってことは、
 と続けようとすると、よくわからないけど、1+2+3=5でもいいわけでしょ、と遮られて、
 いや違う、と立ち止まる。
 
 わたしは、いや違う。
 としか言えなかった。

 1+2+3=5でもいい、の意味を図りかねて、戸惑うだけだった。

 何がいいんだろ?
 何がいいんだ?

 そうして歩みを止めたものがまた、動き出しているのを感じている。
 
 どこか、いくら耳を傾けても、
 1+2+3=4でもいいわけじゃないの?
 とか、
 +3を省いて、1+2なら6ってことにしておいてもいいけど、
 とか、
 どこかそうではない、
 何をどうひっくり返したところで、そうではない、
 というような話を聞くのに、唐突に飽きて、

 要するに数は数えられても、数の並びは暗記できても、数を使えないんだ、
 記憶については詳細に語れても、記憶にはない仮説を立てることはできないんだ、
 なら、他の話をしようって、
 他の話をするんだけど、
 やっぱり、
 どこか物足りていない自分に気づく。

 ふいに飽きて、倦んで、あたりを見渡す。
 世界は広い。

 こんなにも世界は広く、明るく、輝いているのに。
 わたしは眩しく、生まれてはじめてのように、その光に目を細めて。

 自分がわかるものについて、あたりまえにわかる者と話がしてみたい。
 1+2+3=6ってことは、というと、
 2+2+2=6でも同じことだよね、
 1×2×3=6でも同じだし、
 むしろ2×3=6の方がシンプルでいい、
 そんな話をしてみたいと望んだ。

 もう、望んだ。
 だから。
 
 わたしはそう感じている。
 ここの順序は逆にはできない、そう感じている。

 幾億通りもの過去があり、幾億通りもの未来がある。
 何を選んだっていいんだ。

 意図的でさえあれば。

 全体を見渡す目さえ持っていれば、
 何を選んだっていい。

 何を選んだところで、間違える、そんなことはただ不可能にすぎない何かだと、笑えるんだ。

 まだ選べない、そんな物言いはただ、嘘やまやかし、ありえない何かにすぎないところがある。
 まだ賭けられない、そんなこと、馬鹿げた安心にすぎない。
 わたしたちはすでに賭けている、
 わたしたちはすでに選んでいる、
 選ばずにいること、
 賭けずにいること、
 
 そんなことはそもそもの最初から出来ないような幻想にすぎなかった。

 賭けていないつもりで賭けている、
 こんなことが無自覚で、無意図な何かにすぎない。
 溢れ出しているのに、溢れ出していることに気づかない、
 自分の持ち得る器にまるで無関心な何か。