かもめのジョナサン、ジョゼフさん、もしくはジョジョさん。

 毎朝何分か、ジョゼフ・マーフィーの音読を聴いていたら、読み返したくなったので図書館で借りる。
 なんか、いいよな。

 彼の言うことは本当でしかない。
 成功哲学の分類は何冊か、いや何十冊かは読んだが、
 おおむね要するに、本当だよな、と思っている。
 
 今日は、「かもめのジョナサン」を読んだ。
 五木寛之のあとがきを併せ読むと、どこか、なんというか、
 いや、わかるけど、わからないではないけど、
 この危惧は何だろうか、と実に興味深い。
 どこか、
 どこかしら、
 ごめん、時代錯誤的な。

 いや、わかりますよ。

 時代錯誤というか、
 どこかしら、要するに、この宇宙に自分以外の他人を認めているところがある。
 
 わたしはつくづくと思うが、こんなことはどこまでも、
 上が下になり、下が上になるように、
 キリのない何か、
 目が覚めない何か、
 現実とはいったい何か、自分とはいったい何者かというような、
 問わず語りに延々と語り継がれる間にまた眠りにおちてしまうような何か、
 そんなものでしかないところがあると。
 
 どこかでこの小宇宙を閉じなければ、どこかでいわば、開き直ってしまわなければ、
 どこへ行きつくこともできないというような、間延びしきった収拾のつかなさがある。

 いや、あなた、神とは己自身に他ならないものだ。

 そこのゴールを決めないと、この過程を楽しむことはできない。

 ゲームのルールもわからないままゲームに興じていたところで、
 何の作戦も立てられない、
 そして作戦も立てずにただゲームに参加していたところで、
 あるいはまた、参加させられていると感じていたところで、
 甲斐がない、
 わたしはそう思う。

 何が正解かはわからない、というようなことを知ったふうに、悟ったふうに、あるいは謙虚なふうに、あきらめたふうに、
 そんな場面にある、なんだかわからない、先延ばし的なものに触れるたびに、
 わたしは違和感を覚える。

 なんでそんな漠然とした物言いのうちに納得できるものを見出せるのか、ちょっと意味がわからなくなる。

 賢さを敵にしているようにしか感じられなくなる。

 用心深さは、本来の目的のためにあるのに、用心深さのその深さを追求しだすような本末転倒な何かを感じる。

 五木寛之が、なぜ群れを蔑視するのか、というようなことを言っていた。
 群れを蔑視する。
 軽視する。
 
 いや、群れは、
 というか、
 群れも個も等しくたしかに同じ、自分から派生したものにすぎない。
 かもめのジョナサンを書いたひとは、というか、ジョナサンは、そこを蔑視しているわけじゃないんだろう、とわたしは思う。
   
 どこかで個の感覚を誰だって、どこかでは、味わうものだ、
 そうしたときに、どこか覚束ないような孤独、寂しさ、理解者のいなさ、つぶれてしまいそうな個の感覚を奮い立たせるような何かとして、
 群れと自分とをどこか分けて考えるような気持ち、
 それは、
 
 それを蔑視とまでいうのは、
 ちょっと、なんだか、いえば、厳しくない?と思ってしまったりする。

 いや、個を感じたとき、どこか戦う気構えになってしまうのは、わたしは、わかる。
 
 ジョナサン第一部を読んで、たしかに幼い、たしかに、
 崇高だが幼い、
 そんな気持ちはわたしもしている。
 群れには群れとして守りたいものがある。
 そこをなぜ守りたがるのかと、他者を他者と捉えて非難していたところで自分の成長はない。
 群れにとどまり、群れを形成している彼らが何も、悪者集団だというわけではない。
 
 誰だって群れから離れるときには相当な決意がいるし、相当な自恃がいる。
 いわば、どこか、反抗的な何かがきっといる、そんなときがある。
 群れから自分を引き離すための反骨精神はどこか、避けがたいものとして横たわっている。
 どこかしら生身の刃物をさらすような、危なっかしさがある。
 それはもう、必要な段階として、放っておいてやったら、とわたしは思う。

 刃物をさらしたからって、即誰かを斬り殺すと決まったものでもないだろう。
 刃物をさらした、といって非難するのは要するに、自分の側に掻き立てられる不安があるからだ。
 恐れがあるからだ。
 刃物をさらしているやつに負けない気構えが、自分にないからだ。

 批判はなんでもない、なんでもないんだけど、自分を鼓舞するためにそれを必要とするときだってある。

 先へと進んだかもめはなぜ揃って純白なのか、ということも言っていた。
 いや。
 これはいわば、

 社会的な、表面的な、見えたままに捉われているのはあなたの方だ、と思わし得る何かがある。
 憐みを発揮する体でその実、自らの劣等感を浮き彫りにしているにすぎないような。


 ビッグの台を馴染みのない客の一団が半ば囲み、ひとりのお客が打つ玉もなく絡むきっかけも見出せず、どこか退屈そうに、
 ソファへと退いたタイミングで、まだゲームしていないの?とわたしが話しかける。
 
 そこから、どう転んだのか、
 なんだかんだと話して、
 
 いや、詳しく言うならこうだ、
 ゲームやらないの、というと、
 いやもう怖いとか、あんまり毎日きたらあかんとか、そんなような、
 いわばどこか「普通」なことを言うんだ。
 わたしがソファから見える3タップの罫線をさして、二目め鉄板P、あれPやろ、というと絶対Bがくる、となどいう、
 経験でわかる、となどわざとらしさを自分でもわかっているような逃げを残しながら、笑いを誘うようなそれ、
 いや自分、そういう、台の外からの呼び込みでも罫線変わるからな、とわたし。
 台の外で呼び込んでいるやつを、悪いってわたしは思っている、という。
 結果はBだ。
 
 こうした会話、こうした予想、こんなものはどこかしら、たしかに、
 何でもないとしか言いようのない何かではある。
 
 結果論だなどという。
 そうだな、とわたしはどこか、歯切れが悪い。
 いや、結果論って何なんだ、という、どこか、
 結果論と名乗るおまえは何者なのか、と言いたがるような気持ちを残している。

 ともかくそのお客が話すうちに、
 自分が金を飛ばれた話や、関わっているひとの話、
 そこでちょっと縺れたり凄んだりするような話のうちに、
 わたしは確かに詳しくはそれを知ってなどいない、
 そのお客の口からそんなことがあったんだと聞くばかりだ、でもふと、
 それを話すその子の口ぶりから、
 ふと笑いがこみあげてきて、
 自分どこか可愛いとこあるな、と言ってしまう。

 あれはどこか、戦っている。
 その前日、わたしの台で、
 これはBやんな?と言ってきた、その目のあまりに、
 つぶらな様子に、わたしは、まるで何を相手にしているのか、たじろいでしまうほどの瞬間を感じている。
 そんなつぶらな瞳で、と思っている。
 その場では、そんな目で見られても、と返して笑っただけだ。   
 
 おれは何も間違ったことしていない、
 何も後ろめたいことなどない、
 後ろめたいことがあったらこんな場所に出てこれなどしない、とあのつぶらな瞳をどこか上向かせていう。
 
 いや、どこか可愛いところがある。

 わたしは誘われて笑ってしまう。

 純粋なものを汚された、
 怒りのようなもの。

 純粋なものを汚された怒りに、まだ震えているような、
 まだ歪められたそれに、
 ふるい落とされずにいる、
 誰を呑むこともない、誰の上にあぐらをかくでもない、
 いききれず、どこへもいききれずにあきらめをどこか捩れさせて、
 強気に徹しきれない弱音を吐いて拗ねてしまうようなそれ、
 
 いや、自分可愛いところあるな、というのはわたしの実感であって、
 わたしのどこかしらに響く、いつかの分岐したかもしれない自分であって、
 
 拗ねがどこか、捩れに捩れて、
 攻撃性に移るそれ、をもうあからさまに出している、

 いわばどこか、
 泣きだす寸前のそれを、
 泣けばいいとも、泣くことはないとも言い出せずに目でて、愛おしむような、
 ただ目の前の相手への溢れ出てやまない愛情がある。

 その子が何を具体的に言っているのか、わたしは知らない、知らないがどんな背景、どんな錯綜、どんな歴史があるのであれ、いま自分の発しているもの中には確かにわたしに響く可愛さがある、と感じてそれを言う。

 どこかに確かにわたしが響いて、感動したからだ。

 汚された純粋性にはどこか、わたしを泣きたくさせるものがある。

 同じことだが、笑いたくさせるものがある。

 
 

 相手の出した刃は、
 自分の出した刃にまさに、まったく類似している。