鏡とは「自分」を映すものであって、そこに自分がいるわけではないっていう、あたりまえみたいな何か。

 わたしの理解とは、「かれがあなたを憶えていないのではなく、あなたがあなたを憶えていないのです」ということに尽きる。
 別の角度から言えば、相手を変えることはできない。
 鏡を見て寝癖を直そうといくら鏡に映った髪に手を伸ばしても「絶対に」直せない、というくらい不可能だ。

 そんなのわからないじゃん、いつか映りこんだ姿が変わらないなんてどうしていえる、
 と言われたら、まあじゃあそうは言わないけど、
「いつか」をいつまでも待つとか努力するとか研究するとか、そうすることに価値がないとまでは言わないが、
 でも確実なのは自分が自分の髪に手を伸ばして直すことだよねと思う。

 あなたが他人を恐れるのは、自分自身を恐れているからだ、というのも、とてもよくわかる。
 あなたは他人を、つまり外側の世界にあるものを恐れるが、
 その実自分自身の未知なる無意識、ブラックボックスを恐れてそれに直面しないために外側の世界に原因を求め、外側の世界の「確かな存在感」を求める。
  
 怖い、っていうのは本当に怖いよね、と思う。
 怖いっていうのは本当に怖い、それは「理屈」ではない。

 
 でも、思うが、
 自分でふと馬鹿馬鹿しくなる瞬間という経験はないだろうか。

 お世話になっている美容師さんの子どもが幼く、医者がああだこうだと「勝手なこと」を言うのを憤慨しながら、気になってしまう、
 気にしてはいけないと思うのに、どうしても心配して色々検索してみたりして、
 こんなことを調べるからいけないんだと思いながらその心配はやまない、

 というような「わかっているんだけど」という「馬鹿馬鹿しさ」ではなくて、
 それは不安に無理に蓋をするような「言い聞かせ」にすぎない、そうではなく、

 ふっと、本当に心の底から馬鹿らしくなる瞬間、つまり恐れから解放される瞬間だ。


 わたしは子どものころ、死ねば「わたし」はどうなるのか、意識がなくなるのだろうかと思って実に恐れたが、
 色々あるが要はそんなことは今心配したところで「わかりようのない何か」だというある種開き直りに似た気持ちでふと肩の力が抜けた。
 その「肩の力が抜ける」という感覚、
 不安から安堵への、
 言い聞かせるような安堵、いわば「安堵したい」という気持ちはある、というようなことではなく事実「安堵した」気持ち、

 こういうものが「他人」に対してもある。
 あった、と思っていた。
 だがどこかまだ納得したりていなかったか、新たな疑念が沸き上がったかして、
 ふとそうした不安にからめとられていた。
 
 たとえば、完全に自分に安心してしまったならそこで成長が終わるか人生が終わるのではないか、というような不安と「それ」は結びついたのかもしれない。

 わたしは「覚醒」しにきたわけじゃなくて「遊び」にきたはずだ、という思いのような何かだ。
 ずっとあった、普段は意識しないし心配もしないような、でも晴れない疑念というものはたしかにずっとあった。

 たとえばそれは、結婚は堕落だというような思い、
 そしてわたしは、結婚を堕落にしない覚悟ができた、あるいはその覚悟をするときがきたのだ、と思った、それは「直感」に似た何かでまだ、定着せずに揺らいでいるところがある。

 わたしは「ほら、やっぱり他人は自分とは違う何かとして実在している」という決着を迎えるためにいままでやってきたわけじゃない。
 そんな確信だけがある。

 他人にすることは自分にすることだとわかっている。
 わかっている、知っている、それを体験している、
 でもまだ足りないのだという。

 いわば、「覚醒」したからって人生終わらないよっていう確信がなかったりする。
 そうなのかな、そうだといいんだけど、というような気持ちでしかないところがある。
 
 そのブラックボックス
 しかしいったいそのブラックボックスをすべて引っくり返して、「なにも恐れることはなかった」ということを確認するまで「何もしない」というのもまるで現実的ではないし、
 実際にわたしは「何もしていない」わけではない。

 要するにこんなことは「段階的」に起こるのだ。

 わたしは家のドアを開けた瞬間、世界が崩壊するのではないかと恐れながらドアを開けることはない、
 そんなことを恐れた経験がないからというより、
 まあ、ないに等しいが、
 たとえそうだとしても、そうだとしたところでいったい自分に何ができるだろうかというある種の開き直りが「ちゃんと」ある。


 そう、このたとえそうだとしても自分に何ができる、という、

 こういうことだなと思うんだ、「自由意志などない」というものが伝えたいことは。

 正体のない不安に苛まされ、「不安に蓋をする」ことでそれを克服し得たと「勘違い」する、そうじゃないよということが言いたいのだ。

 
 しかし世の中には「恐れないひと」というのがいる。
 いや、恐れることを恐れないひと、というべきだろうか。

 ほとんどそれは、本当に恐れを感じているひとからすれば、「恐れているふり」なのでは、と突っ込みたくなるような、
 なんかそんなような。

 
 たしかにこんなことは段階的に起こる。
 
 1について馬鹿げていると笑って一蹴できるからといって100についても同じ態度が取れるわけではない。
 でも、1についてそうできている、ということを、100を乗り越えるための「気づき」にすることはできる。

 1を笑うことも100を笑うことも同じだし、
 1を恐れることも100を恐れることも同じだ、
 1の恐れは劣っていて100の恐れは優れている、などということはありえない。
 
 それが「恐れ」である限り、1だろうが100だろうが等しく恐れであるのにすぎない。

 実際、100の恐れ、100個目の恐れは優れた恐れだ、と思うことに何のメリットがあるかって、ないよな。

 それは絶対に乗り越えられない/乗り越えてはならない「壁」だと自分に言い聞かせているのにすぎない。