目が覚めたことのない人間なんていない。
何が横着かは自分にしかわからない。
99を100にしてしまうような横着、詰めの甘さ、
真実を手づかみにしない恐れ。
横着しかしたことがなければ、何が横着でないかはわからないだろう。
何が正解かは、まさにこれが正解だという気持ちを味わったことがなければわからない。
なんとなく、これが正解のような気がする。
いや、そんなものじゃない。
正解かもしれないことはまだ正解じゃない。
正解らしく思われることはまだそうじゃない、それじゃない。
そこをもうこれくらいでいいだろうとやめてしまうのを、わたしは横着と呼んでいる。
そしてたしかに、わたしもまたどこかの時点で、自分の横着さ、それを横着だと認めてそんなことは、やめようと決意した。
中途半端に手を打つ、そんなことはやめよう。
真に自分が求めるもの、愛するものを、
逃げや弱さを必然とはしないものを、
それを残したままでは無理、そんなものを欲した。
それを自分がわかっていようが、わかっていなかろうが、
変わりないのは、
自分の蒔いた種を自分が刈り取る、ということだ。
目の前の相手はそれが誰であろうが、自分にちょうどいい相手であり、
自分自身に気づく、隠れていた自分自身を発見するきっかけであるのにすぎない。
人を裁くことは、自分自身を傷つけているのに他ならない、
そのとおりだ。
いったい何を受け容れて、あなたは何を擲とうというのか。
1+2+3=6だとわからなくてもいい。
わかっていなくてもいい、でも、
1+2+3=5だと感じるひとがいてもいいよね、は違う。
そこはわからない、が正解だ。
わからないものはわからないことが正解で、
わからないものをわかる体ですすめる、
わかったことにしてしまう、
こんなことをわたしは横着だという。
知ったかぶりで現実を捉える、こんなことは、
欺瞞と呼ぶしかない、何の何でもない。
1+2+3=5でもいいじゃん。
いや、よくないだろう、
わからないものはわからないんだ。
1+2+3=5
それを受け容れることによって、何を擲っているのかを。
だいたい、こんな横着を受け容れたがるのは、エゴなんだよな。
すぐにわかると言いたがるもの。
正直さを擲てば、人生が詰む、わたしはそう言った。
いまもそう思っている。
正直さ。
これも横着と同じで、
何が正直かは、正直になってみなければわからない。
考えたことが現実にはならないのは、
そう感じるのは、
考えること、それじたいどこか理性的な何か、意識的な、恣意的な何かであって、
自分の考えがたとえば1番から100番まであったとしても、
5番と40番が自分の考えだと、自分では思っている、それだけなところがある。
ほんとうのところ、自分が無意識に信じている考え、
こんなものが一番力強く自分を働かせていたりする。
そこがわからないのは、
要するにどこかしら無頓着であり、横着な何かなんだ。
わからないことを、わかった、と言ってしまうような何もない空っぽの愚かさ。
そこをよくよく正直さを失わないようにしなければ、
ひとの考えを借りてきて自分が考えたことだ、というような、
ひとの感じたことを、自分の感じたことにしてしまうような、
もう、横着さ、こんなことは、
無益であり、無価値にすぎない。
自分を受け容れないことには自分がはじまらない。
そこを疎かにして、いったい他人とどんな関係を結んだ、といえるだろうか。
自己を犠牲にして他人に尽くしたところで、罪は消えないどころか、
さらにのしかかる罪という幻影に悩まされることになる。
罪なんてない。
あるとすればただ、自分が自分を否定すること。
はじまってもいない、自分で受け容れてもいない自分が、
いわば目の覚めてもない自分が、
他人とどんな関係を結ぶ、というのだろう。
片目をつぶる、こんなことをどこか、欺瞞的に感じていた。
それは、自分にとって堕落を意味する、そう思っていた。
友だちならいい、親ならば、それもいい、
他のひとには他のひとなりの事情と歩む速さがある、
でもわたしがわたし自身に対して片目をつぶる、
こんなことにいったい何の利益があるだろうか。
自分にダメ出ししろってわけじゃない、
そんなわけがない、
そうじゃなく、
むしろ、
自分にダメを出すような自分に、どうやって他人を愛することができるか、
ということだ。
自分をさえ受け容れない自分が、他人を愛する、受け容れるなんて不可能だ。
わたしは自分がどこか大きいことを知っていた。
知っていたから、ちょっと途方に暮れていた。
どこまでも大きくできる自分を、どこにどう収めていいのかわからないでいた。
最後の1は、いまこの瞬間にしかない。
わたしは端っこを追って、中心にある空洞をあたりまえにし、
生きるということを見ない、
目が覚めることをしない、
そうした、漫然とした境目の曖昧な何かをどうしても受け付けられずに、
折れずに、
どこか孤独だった。
ひとりだった。
自分が悲しめば泣きたいときもある、泣くこともある、
でもそれは、自分が孤独だからじゃないんだ。
孤独だから悲しいんじゃない、
孤独なのはどこかあたりまえの何かであって、そんなことじゃない、
ただ自分が悲しめば泣く、そんなこともある、それだけだ。
わたしはひとりだった。
誰の助けも借りず、支えもなく、そうじゃない、
むしろ、ひとりだということを受け容れてはじめてひとの支えを支えとして疑いなく感じることができる。
責任がある。
誰だって、自分自身に対する責任があり、
果たすべき責任とは、それしかない。
そこがわからない相手とは無理だということがわかった。
そこがわからない相手とは愛の真似事をするだけで、
真似事にすぎない何かにいつまでも自分を付き合わせる、こんな不誠実はない、
そう思った、気づいたから、
いまの自分がある。
いまの光景がある。
嘘を嫌うんだ。
嘘ってどこか娯楽でしかないところがある。
娯楽もいい、気晴らしもいい、
でも、
自分ひとりのとき、頭上の天空はいつでも晴れている。
それは嘘じゃない、といえる何か。
それはごまかしじゃない、といえる何か。
それは孤独を癒さない、孤独を紛らわせたりしない、
孤独は病ではなく、忘れたほうがいいようなものではなく、
あたりまえに常にあるものでなくてはならないんだ、
たとえ誰と過ごしていようとも。
孤独を癒す、そんなものではない、
孤独を紛らわせる、そんなものではない、
そうじゃないものを。
相手が覚えているから自分があるわけじゃない、
相手が思い出すから自分があるわけじゃない、
わたしがわたしを覚えているから、思い出すから、わたしがある、それだけなんだ。
行けると思わせる天才。
あれは、牽制だ。
どこか横着に流れてしまう自も他をも牽制する何か。
騙されておけばいいのに、と笑った、
こんなわたしは優しくてどこか怖いんだ。
どこか肚の底を見るような、足の裏までも見るようなわたしは、怖い。
2:50 2019/11/30
どこか、どうしたって、剣呑さを捨てられない、
わたしは怖い。
眠ったことのないわたしが、眠っている者を怖い。
いや、わたしは目覚めたことのない人間などいないと思っている。
本当にひとが目覚めず、眠ったままなら、そんなに饒舌に話せるわけがない。
あまりに虚ろな目をしているものは、怖い。
わたしはひとを見抜く、エゴを見抜く、いや、
もっと言えば、ひとの恐れを見抜く。
眠りながら自動入力されたようなセリフを喋るものが怖いんだ。
おまえ、どこにいるの?
本当にはどこにいる?
まるで抜け殻のようなそれ。
パターン化された自動装置で怒ったり主張したりするようなそれ。
ここにいない者と話す話なんて、何もないだろう。
過去とか未来とかいうのはたしかに、空想の産物だ。
いまここにあるものに比べて、あまりにも他愛なく、あまりにも実態をもたない。
昨日はこうだった、明日はこうなるだろう、
そんな、
どこかのしかかるようなそれ、
強迫的なそれ、
わたしは怖い。
わたしは、怖いんだ、だから話さないし、目も見ない。
見たところで、目が目でもないような何か、
何の何になるだろう、
わたしがわたしの恐れを増幅させるだけじゃないか、いたずらに。
あれらはゾンビに似た何か。
いや、わたしはゾンビに見えるものだって人間なんだって言い聞かせてここまで。
わたしはきれいだし、
どこか負けるのをよしとしない気の強さもある、
ひとの恐れを決して攻撃的には暴かない優しさもある、
わたしには余裕があり、優雅さがある。
どこか、ひとに踊らされないだけの泰然とした気品も備わっている。
いざとなればどんな何であれ、笑い飛ばすような最終兵器さえ持っている。
いや、わたしは、どんな何を演じようが、どこか、
きれいでしかあれないところがあって、
まるでバリエーションのない、大根役者のようなものにすぎない。
生身の女には相手にされないし、生身の女なんて怖いから、風俗に来ました、というような、
それでもまだ震えているようなそれを、
どうしても寛がせてあげられない、
わたしはそんな自分の小ささに気づいて、忸怩たる、
どこか申し訳なさ、
どこか、
卒然とした自分の限界を知る。
結局のところ、
いまの自分に相応しいものしかやってこない、
自分が楽々と、易々と、笑ってやり過ごせるような相手とは限らない、
自分が望んだ試練、
自分が望んだ限界のその先を暗示するものがやってきて、
立ち尽くすこともある。
何をどうすればいいのかさっぱりわからないと、泣きだしたくなるようなものだって、
やってくるんだ。