自分の尊厳を奪えるのは、自分だけ、自分だけだ。

  自分が自分を決め、自分が世界を決めるのであって、世界が自分を決めるわけじゃない、ということを、

 このどこかしらまだ闘争心にも似た何か、矜持のような高揚を、喜びを、
 しかし単にそうであるしかないだろうという冷静な理解でもあるところのものを、
 じっと味わっていた。
 
 それはとても懐かしい気持ちがする。
 現にどこかで、この人生のどこかでわたしはたしかにそんなふうに考えていた。
 感じていた。
 わたしはそれを知っていた。
 
 そしてそれは、そのときには闘争心のような何かとしてあった。
 
 ジョジョ第五部に登場する殺人嗜好者が、今まさに気を失っている相手を殺そうというときに、その相手が靴下を裏返しに履いていることに気づいてしまい、
 どうしても気になって仕方がない、表替えして履かせて、よしこれでいい、と殺す、
 こんなこだわりのディティールがおもしろいんだっていう、
 そういう話から、
 なぜか、

 AKIRAに出てくる、誰かの手の中にある小宇宙にわれわれは住んでいる、という話を思い出すと対話の相手が言い出し、
 うん、その話をわたしは知らないが、その、誰かの手というのは自分の手ということだけどね、とわたしが言うと、
 なぜそうだとわかるの、と追求してくる。
 
 非難がましさはなく、なぜどうやってそれが自分の手だと知ることがあなたにできるのか、という問いで、
 わたしは、それをあなたにわかるように説明するのは実に困難だと考えながら、
 
 知る、そうね、わたしは知っている、気づいている。
 誰だって気づけるけど気づきたくないだけじゃないの、というようなことを言う。

 自分があるから世界があるのであって、世界があるから自分があるわけじゃない。
 そういうと、そんな自己中心な、とそこはどこかしら批判的である。
 自己を中心に据えずにいったい何を中心に据えるつもりなのか、と思うが、
 そこまでで対話はおわる。

 こんなことなんだよな、と思っている。
 
 いつだったか、要するに人間、自分にメリットのないことはしないし、
 誰もがやりたいことをやっているだけ、したいことをしているだけだと、
 思ったことがあり、

 そう、わたしは実に無粋なものだと思った、もしそれを、
 なんというか、せっかく気持ちよく夢を見ている者を揺り起こすような真似をするのだとすれば。
 
 お客で、従業員からも軽くあしらわれがちなひとがいて、
 なぜだろうなと観察していると、
 自分は欲しいものを得られないのではないか、といったような不安が強くて、その不安を解消してもらうべく、やたらしつこくせっつくところがある。
 マスクちょうだい、マスク、マスク、これが単にせっかちという以上に、
 その調子にあきらかな不安が滲み、いまにも、なんでくれへんの?と言い出しそうな悲しげで相手を咎めるかのような響きがあり、
 そこのところに相手を辟易させるものがある。
 
 不安の強いひとはどこかしら非難がましい。
 自己憐憫には世界に対する非難の調べ、奏でがある。
 
 それで皆、辟易して軽く扱うのだが、
 わたしはそれもまた、相手の手に乗るような気がして、馬鹿にしたような態度を取るのは差し控える。
 あのひとの創り出した劇場の舞台に上がることを、気づかないていでスルーする。
 
 おまえ、被害者か殉教者みたいな顔をして相手をコントロールしようとするな、と思うんだ。
 いや、そうまでいうと言いすぎになる。
 つまり、こんなことはどこまでも曖昧で明確化されていない現実にすぎない。
 
 そんな手には乗らへんで、と思う、という、これはかつての従業員に対してもときどき思ったことだが。

 意図せざる創造。
 それ、その発言はどういう意図から出たものなの?と聞くと、
 いえ、意図なんてありません、ただ、そう思ったから。
 これを狡賢いとは言うにあたらない、むしろ、
 どこかしら馬鹿げている。

 白痴のようであり、
 まさに相手がそう受け取ることをどこか誘導し、望んでいるようでさえある。
 
 あなたの仮面はあまりに分厚い。

 そうすることで傷つきやすい自己を守っているのだが、
 何のことはない、自分とは他者から傷つけられ得る存在である、という信念をあらわしているのにすぎない。
 
 密かな報酬、意図せざるメリットがそこにある。

 まるで何でもなく、他愛もない。
 わたしはいまだそれをそうと指摘できないままに、眺めているものにすぎない。

 自分がまるで、賭けもしないのに予想をいう、そんな者のような気がして、
 ふと言葉もなく眺めるだけになる。
 
 実際わたしはかれを望んだ、というよりも、
 わたしが神であり、死はなく、自分があるから世界はあるのだという宣言を可能にすることを望んだがために、かれがあるのだ、ということを思う。
 
 わたしがあるからこそ世界がある、
 わたしが世界に意味を付与するものであって、その逆ではない。
 いったいどうして彼を乞いなど、請いなど、
 かれに恋することなどできるだろうか。

 まったく矛盾はなく、葛藤もない。
 わたしは誰にも自分をあずけない。
 これは孤立でも孤独でも、ありとあらゆるネガティブな感情を伴うものでもない。 
 
 かれとなら「自分を預けない」ことを正当化することなしに、関係を築ける。
 かれとなら、というか、
 
 わたしが望んだのは、自分を相手に預けることなく、また自分が相手を預かることもなく、よろこびに満ちた関係を築くことはできる、という体験だった。
 
 子どもが親を求めるような恋愛、あるいは関係性など、わたしは望まない。
 自分の欠けた部分を補ってくれるものとして相手を望む、
 こんなことはまるで失敬な、まるで意味のない、まるで価値のない、まるで創造的ではない関係を欲している態度に他ならない。
 わたしにそんな意図はない。
 
 自分があるから世界はあるのだと朗らかに力強く自明的に宣言できる者と、
 このよろこびを称え合いたい、わたしはいつしかそう願った。
 
 かれが遠慮がちなのだとすればまさにわたし自身が遠慮がちなのであり、
 かれが恐れているのだとすればまさにわたしが恐れているのであり、
 かれが喜んでいるのだとすればまさにわたしが喜ぶ者なのである。
 
 いまさらどうして鏡のトリックに引っかかることなどできるだろうか。

 わたしはそれがトリックであることをあらかじめ必然的に知っていた。
 知っていたが、ひとにそうだと種明かしをすることは拒む者だった。
 
 誰だってそれを自分自身の確信、気づきによって知りたいはずだからだ。

 そうじゃないこともありうるかもしれない、こんな仮想の事態をもし受け容れ、心配するのだとすれば、
 わたしはまさにわたし自身を裏切っていることになる。

 いいえ、その手には乗らない。
 自分が自分を欺き、騙し、他の者をもその仮想の舞台へと上がらせるような真似など、
 わたしはしないし、
 誰にもさせない。
 
 投影、そう、投影をどこかで打ち切るべきときがやってくる。
 そしてそのタイミングとはまさに、自分のタイミングであって、よそではない。
 
 誰にも誰かを支配する権利、その絶対的権力などありはしない、
 ただ、
 支配される体験を望む者がある、というだけのことだ。

 支配するものと支配されるものは、完全に調和した協力関係を築いている。
 まさに相手に対して鏡のように振舞うことを望んでいる。
 そのどちらの立場へ自分が身を置くのだとしても、まったく同じことだ、まったく同じであってその価値はまるで等しい。
 伸びた分だけ伸びて、縮む分だけ等しく縮む。
 
 おのれを冒涜する者は、簡単に同じだけ等しく他者を冒涜して、恬としている。
 それはまったく必然に支えられた現象であるのにすぎない。
 それはまったく必然であるよりない。

 内なる存在、ナビゲーションシステム、神、魂、在りて在るもの、一なる創造、原物質、創造の源、何と言ったって構わないが、
 それは在る。

 誰かの手によって?
 その手とは自分の手に他ならないだろう、とわたしは言う。
 相手がそれに納得しようがしまいが、それを斥けようが受け容れようが、そんなことはわたしにまるで影響を及ぼしようがない。
 本当には影響を及ぼし得ないんだ。

 わたしはふと笑っていた。
 ふと感心して相手を眺めていた。
 
 わたしがこの世界、この宇宙を創造した。
   
 まるで単純な何かをさも真剣に疑う、こんな相手を目前にして、
 わたしは自分の他愛なさを可笑しがっている。
 
 誰だってしたいことをまさにいま、一瞬一秒を惜しむかのように、愛おしむかのように、しているのにすぎないんだ。

 いいえ、わたしは違います、としかめっ面をする者、
 
 いや、その手には乗らない。
 わたしは乗らない、
 わたしはそれに何度も騙され、騙されたことを知っているだけの者だ。
 そしていいかげん飽きている。
  
 同じ何かを連綿と繰り返すことに価値がある、といったような主張にはいいかげん飽き飽きしている。
 そもそも飽き飽きしていた。
 乗ったものの、やっぱり乗れないんだ。
 それで?と思う。
 いったいそれで?

 いつまで観ていても終わらないテレビのようだ。

 実際、終わりを見届けることなど、誰にとっても不可能であるのにすぎない。

 自分の葬式に参列できる者などいない。
 もしそれができるとすれば、まったくそれは茶番のような何かであるほかはない。

 わたしはかれを望んだのではなく、むしろ、こうした状況のすべてをただ望んだ。
 その結果としてかれもある。
 あたりまえにそれがある。

 まるで疑うことなく、斥けることなく、
 かれがかれとしてあることを、わたしが許容し、存在させている。
 わたしが見るから、かれがある。
 
 意に染まぬことなど何一つとして存在し得ない。
 

 全部引き受けたらいいのに、と思うんだ。
 これは引き受けるが、これは引き受けない、
 こんなことを、こんなありようを自分に許しているから、
 偶然などを期待する。

 未知に満ちた何かが自分を嬉しがらせたり、失望させたりする、
 こんなジェットコースターのような、くじを引くような楽しみを継続させている。
 
 まるっきり、バカラだね。

 まるで博奕を愛する者に他ならない。

 猫は偶然などないことを知っていると思うんだ。

 のんちゃんは?のんちゃんも?
 
 こう咄嗟にまったく明敏に的確に返してきたひとりのお客は、わたしを見透かす者のように表現する。
 のんちゃんって自由自在って感じがする。
 勝たせるのも負けさせるのも、のんちゃんの匙加減ひとつ、まるで自分が掌の上で転がされているだけのように思う、という。
  
 また別のお客が、のんちゃんのよくわからん威圧感に負けないように、というと、横に座っていた古馴染みのお客が、のんちゃんの威圧感、わかる、と横で同意して笑っている。
 わたしは声も上げずにふとかすかに笑う。

 わたしに威圧感が?
 
 それはあるだろう、という思いと、だからって何だというのだろう、という思いを同時に味わっている。

 世の中を不公平だと称し、そう信ずる者は、
 まるで他愛のない何かにすぎない。
 わたしはそう思うんだ。
 それはあなたの夢であり、あなたの信念であり、
 わたしの夢であったことはなく、わたしの信念であったこともない。
 
 その手には乗らないんだ。

 まるで巧みとは言い難い、そんな手に、どうして乗ることができるだろうか。
 わたしはわざとらしさと、白々しさに、まったく裸足で舞台を駆け降りる者だ。
 一秒一刻も、そこに参加してはいられない、という思いだけがする。
 
 でも、思うんだ、
 わかるんだ。

 かれらがなぜそれを望み、それを演じたいと願うのか、ということが、
 わたしにはひりつくほどにわかる。
 それは未だひりつくような何かであって、
 わたしはとても真顔を保てない。
  
 笑い出してしまったわたしがかえって場を白けさせることになるのならば、
 わたしは、慌ててその場を降りてしまう。
 これはわたしの尊重だ。
 そうであって他ではない。
 
 なぜ知っているのかわからないが、ともかく知っている。
 なぜ知っているのかわからない、
 こんなことも、まるで他愛のない弁解にすぎないところがある。
 なぜ知っているのかをわたしはたしかに知っている者だ。
 わたしは知りたいと宣言した。
 そうであるがゆえに、知っている。
 それだけのことにすぎない。

 自分が知ろうとしたことは、ただ知ることになる。
 
 そして自分が知ろうとしなかったことは、ただ知らないという状態に留め置かれる。
 
 まるで自在な何かであるのにすぎない、
 まったくそうであるのにすぎない。
 
 わたしだけが自由自在なのじゃない、誰だってあらかじめそうであるより存在のしようがない。
 
 こう思うとまったく突拍子もなく、笑ってしまう。

 ここに理解がある。
 ここに愛がある。

 ここにまさに、在りて在るもの、それだけがある。

 いったいなぜ怯めたのだろう?と思うんだ。
 誰だってしたいことをしているだけだ、
 誰だって望んだとおりの自分を実現させているだけのことだ、
 わたしがそういうと、そんなわけがない、と強情に言い張った者の意見に、
 いったいなぜ、どうして、怯めるものであったのか。

 ううん、それはまったく、怯む気持ちを味わいたかったからに他ならない。

 わたしは怯む、ということをたしかにどこかで体験したがっていたのだ。

 そしていまや、なんでもない、ということをあらためて知る。

 わたしが一番表現したいこととは、
 自分の尊厳を自分で奪う者にはなるな、ということだ。
 ずっとそうだった。

 ずっとそうであり、そうでしかなかった。
 自分の尊厳を損えるのは相手じゃない、それを損なえるのは自分自身をおいて他にあるはずもない。
 
 いったいどうして、いかなる目的と意図によって、
 他者が自分の尊厳を剥奪したのだと訴え、信じることができるのだろう。
 
 まるで先延ばしにすぎない。
 まるで無為なる延長戦にすぎない。
 最初から答えはわかっているのに、相手の口からそれを言わせようと孤軍奮闘しているものにすぎない。