もう自分のフィールドを、反故に。
7:50 2019/02/25
悪口の力強さ。
21:52 2019/02/26
どうせ、セールストークでしょ。
売るのは「悪い」という考え。
まるで「お金持ち」は「悪い」にとてもよく似ている。
わたしたちはいったい何を「手放し」たくないのだろう?
あるいはそもそも、何を所有してもいないのだろうか。
売春を貶す考え、思想がわたしはとても嫌いだ。
馬鹿げているから。
彼女たちは売っている。
わたしたちも売っている。
誰しも、売る/買うという流れから外れたところにはいない。
「売る」という考えあるいは行為を、ケガレているとか、道に外れた行いだというような風潮は、
実際のところわたしたちをとても貧しくする。
1:13 2019/02/28
わたしが本当に知りたいのは、相手を叩かないやり方だ。
誰だって陥るんだよ。
自分には出来て、相手には出来ない。
自分には思い描けて、相手には思い描けない。
そうしたときに。
もうこれはいかに自我を捨てられるかだ。
自我、あるいは自分にとってのあたりまえというフィールドを反故にできるか。それだけ。
22:43 2019/02/28
わたしはどこかで大人にならなければならないし、大人になるってことを望んでもいる。
思うに、世の中子どもしかいない。
誰しもが大人の片鱗を求め、それになろうとしている。
ほんとうなんだよ。
ビジネスとはセールス、ってのを聞いて、そうだなと真摯に思って、
営業について書かれた、評判芳しい本を借りて読んだ。
人間力、という言葉が出てくる。人間力ね(そうだな)。
あるいはまた、あなたが本当に。
なんだったっけな、
あなたがほんとうに相手に幸せになってもらいたいと思う動機は何ですか、
みたいな。
いや、そんなんではなかったけど、わたしが喚起させられる思いは、そんな感じ。
この本は実に誠実で、本当に、よかった。
以前にも書いたけど、皆さ、「いいひと」でありたいっていう思いをどうしても持っていて、
そこに足をすくわれるってことを、程度の差、深度の差はあれ、経験していると思う。
わたしは、最近ってこともないがもうつくづく、どうかなあと自分自身思いあぐねていたことだが、
わたしは自分の思いの底までは、人にさらさない。
どうにも行き場がなくて思わずぽんと飛び出す言葉とか、
あるいは捨てるに捨てかねていたものがようやく日の目を見れそうだと感じて、派手に手放すとか、
自然の力に従うままそっと放流するとか、
笑いの力にまかせて、とか、
そういうのはダダ洩れにしてあるけど、
そうでもなければ、やっぱり、自分の内にとどめておく、ということがある。
個人経営者のひとで、レンタリースというか、高額の商業用冷蔵庫をローンで買ったひとがいる。
わたしはその連帯保証人になった。
経営は順調だし、広い場所へ移ろうかと思って、家賃はこれまでの三倍、それに合わせて設備を整えようと張り切った結果だった。
わたしはいまならば、いきなり家賃は三倍、なんてものに一気に移るのはやめておいたほうがいい、と言えるだろうか、と思う。
夢を描くのは自由だ。
これは、ドナルド・トランプが言っていたけど、自分としてはリスクは最小限に抑えたいと。
いや、わかるよ。
そりゃそうじゃん?
話がズレるようだけど、
バカラっていう博打がある。
いわばそれは、丁半博打みたいな、つまり、10賭けて勝てば、賭けた10に対して10の配当がつき20になって戻ってくる、10賭けて負ければ10まるごと失う、大雑把に言えば1/2の確率で勝てる博打だ。
それで白か黒か、いや、
赤か黒か、というのが一般的だけど、
要するにどっちか、なんだよね、勝つのは。
競馬 (競輪・競艇)とは違う。
パチンコとも違う。
どっちが勝つと思う?
っていうゲームなんだよ、ざっくりいえば。
それで、こっちだと思うとかあっちだと思うなんて、
お金を賭けもせず、すなわち自分にとってリスクはないままに、予想を言う、
これは本当に本当にマナー違反なんだよ。
勝率が1/2のゲームっていうのは、
実際のところ、実に危険を伴う。
競馬に比べれば、宝くじに比べれば、勝率は良いように思える、
でも、
でもさ、
仕事で成果をあげられる確率って決して1/2ではないし、それよりも大きい。
いやそれは仕事に限らないけど。
なんでも同じ、なんだけど。
わたしが最近ハマっているトリイ・ヘイデンってひとが、
「よその子」という本において、トマソとの対決の際、わたしは本当はペテン師にでもなればもっと成功していたのではないか、と感じる瞬間がある、と述べる。
実際のところ、わたしが追い詰められたときに咄嗟に出る行動とは、「ハッタリをきかす」ってことほどに過ぎないと。
いや、これは、わかる。
戻ると、連帯保証人になった件ね、
どうにも経営が伸び悩んでいて、冷蔵庫は捨て値で転売したものの借金だけが残るという状態で、
やっぱり払わない、ということに熱意を傾け始めたのだ、そのひとは。
わたしはどこの誰とも知れないものの連帯保証人になる話には、親にももちろんものすごく反対されたし、
でももう、そんなもんはいいんだよって、押し切って、どうとでもなれ、なるようにしかならない、と思って、引き受けたことだった。
断るより引き受けた方が良いと本当に思った。
そう、いまでも、二転三転しつつも、やっぱりそう思う。
わたしは経営者ってものには、なったことがない。ともかく。
それでその個人経営者ってのが、雇われて固定給をもらっている立場とは違う、というんだね。
わたしは、そんな立場には実際立ったことがないのにも関わらず、
あんたそんな泣き言を放つためにそんな立場に身を置いたわけじゃないでしょ、と、ほとんどハッタリをかましちゃう。
わたしがこれについて忸怩たる思いがするのは、
要するにわたしは賭けちゃいないってことなんだ。
でも、実のところ、わたしも賭けている。
相手が支払うべきものを、もし支払わなければわたしが代わりに支払いますという立場に、身を置いているんだから。
催促らしき電話とかがかかってきたら本当にうんざりしちゃう。
わたしには関係がないのに、なんて思ったら、なおさらだ。
いやこれは、自分にも関係のある話だ、もっと言えば自分自身の問題なのだ、と思えば、大変だろうが苦労しようが、重荷は重くなるどころか、軽くなっているんだよっていう、
経験をした。